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虚ろな火、侮る金。 


俺の眼は何処だろう。俺の口は何処だろう。俺の髪は何処だろう。俺の脚は何処だろう。何故此処に居るのだろう。何故誰も居ないのだろう。此処は、こんなにも暗くて緋い場所だっただろうか。
降って湧いた疑問を宙に浮かべる。誰も答えない。誰もいない。聞こえるのは燃え盛る炎の音。崩れ落ちる柱の音。俺は歩く。布を引き摺りながら、剣を引き摺りながら、奥へ、奥へ。"土"を求めて、赤く染まった石畳の回廊をひたすらに歩く。
ふと、大きな瓶が視界の端に写った。それに導かれるままに瓶に近付く。人一人、余裕で入りそうなくらいに大きな瓶。だがその中に入るは人ではなく、水だった。その水も覗き込んでようやく見えるくらいの、瓶の半分にも満たない量。それでもその"水"に呼ばれているような気がした。
よくよく目を凝らすと、水は鏡としての機能を失い、違う景色を映すようになった。懐かしい顔が映る。曹操様、郭嘉様、曹仁様、義父上、夏侯淵様、張コウ様、郭淮様、曹丕様、甄姫様。皆何処へ行くのだろう。覇が遅れて走ってきた。夏侯淵様にどつかれ、郭淮様に叱られ、張コウ様に諭され、困ったように笑っている。皆が朗らかに微笑み合っている中、郭嘉様が俺に気付いた。珍しく眉尻を下げ、首を横に振る。何故そんな悲しい顔をするのだろう、俺も皆の所に行きたい。水鏡の向こう側、皆が笑って暮らせる所へ、俺も連れてってくれ。
堪らず手を伸ばす。視界を滲ませる原因がぽろりと眼から溢れ落ちて、皆がいる世界を歪ませた。待って、待ってくれ、まだ、夢を見ていたい。まだ、幻を見ていたいんだ。








空城の計によって燃える城内を、走る。急げ、急ぐんだ。走る速度よりも遅く脈打つ心臓なぞ、置いていけ。急げ、豆腐を連れ戻さなければ。首下から流れる細い布を翻しながら、緋色の回廊へ、宛も無く、ただただ深奥へ。
ふと、陣を出る前に賈充としたやりとりを思い出した。『豆腐は危険だぞ、子上』、『豆腐は子上の国を討ち滅ぼす存在だ』など好き勝手言ってきていた。それは、心地好い夢物語を聴かせるかのようでもあったが、内容は俺にとって眉唾物だ。あの豆腐#が、そんなことをするものか。俺は思った事をそのまま口にした。

『曹魏という"土"台から産まれた"金"の国は、"火"鼠によって燃やされ溶かされ、最後には討ち滅ぼされるだろうな。』
『……その"火鼠"が、豆腐だって言うのか、賈充。』
『そうだ。よもや"五行思想"を知らないほど、子供ではあるまい?』

五行思想。大体400年以上前から続く、自然哲学だ。木・火・土・金・水からなる五種類の元素は、互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する。この世界における常識だ。常識をこの歳になってまで知らないとなると、それはもう凡愚であることは俺でも分かる。
が、それとこれとはまた別の話だ。真夏の太陽のように笑っていたあいつが、国一つ滅ぼすだと?馬鹿馬鹿しい、冗談はその肌の白さだけにしろ。

『ただの傀儡に成り下がった火鼠に、国を滅ぼすほどの気概は無い。俺があいつを生かすと決めたら、生かす。火鼠に溶かされるのが厭なら、金の国を強くすりゃいい。だからお前は手を出すな。いいな?』

苛立ち混じりに、心にも無い言葉を吐く。すると賈充はいつものように含み笑いを溢しながら、『それでこそ俺の王だ、子上』などと訳の分からない事を告げて闇に消えた。理解不能ではあるが、あいつが俺の返答に満足気だったのは解る。
あいつは豆腐を、どうしたいのかを俺は知っている。生かすつもりは無い。かといって、殺すつもりも無い。生きたまま、殺す。俺の命令にただ従うだけの、傀儡にする。勿論俺はそんなことを微塵も望んではいないし、望む予定も無い。俺が望む豆腐は、真夏の太陽のように笑う姿だけだ。五行思想とか、今はどうでもいい。豆腐は人間だ、火鼠でも傀儡でもない。傀儡なんてものは曹髦だけで十分だ。
探せ、豆腐を。蜀へ逃げた夏侯覇を探しに、偽の空城に迷い込んだあいつを。夏侯覇が亡命してから、あいつにとって初めての出陣。目を離さないようにとしていたのに、少し気を抜いた途端にふらりといなくなってしまった。物見に聞けば、未だ燃え盛る城の方へと歩いて行ったと言うじゃないか。俺の我儘で生かしたあいつを、今自ら絶とうとしている。そんなことさせるものか、あいつはもう、俺のものだ。

「子上。」
「なんだ賈充、話は後にしろ。俺は忙しい。」

背後に現れた賈充に向かってそう吐き捨てながら、足を早める。だが賈充は俺の首に巻かれた布を引っ張り、俺の動きを無理矢理止めさせた。締まる首に不快感を覚えながら、俺は賈充を睨む。賈充はいつもの調子で薄ら笑うばかり。

「……賈充、止めろ。」
「くくっ、そう怒るな。……ほら、よく見ろ。」
「これは……何かを引き摺った痕か……?」
「その通りだ、子上。ところで……お前には何を引き摺った痕だと思う?」
「何って、そりゃ――、」

そこまで言って、止まる。戦場と化した城だ、壁や床に斬り付けられた痕は沢山あるだろう。だがこれは、それとは明らかに違っていた。そう、まるで重い剣を床に擦り付けながら歩いたかのような……。

「……まさか、豆腐、か?」
「剣を引き摺って歩く阿呆はそいつくらいだろう。豆腐が今も剣を引き摺っているのならば――」
「――痕の先にいるかもしれない、ってか。悪いな、賈充。俺行ってくるわ。」

賈充の言葉も聞かず、また走り出す。空気を呼んだのか定かではないが、賈充が走る俺を追い掛ける事はなかった。
あれからどれくらい経っただろう。数秒しか経ってないようにも思えるし、数時間も経っているようにも感じた。五回目の北伐は、トウ艾の空城の計の成功、夏侯覇の討死で決着がついた。夏侯覇の遺体を背負い逃げる姜維を、俺達は追わなかった。本当は豆腐の為にも夏侯覇を返してほしかったのだが、夏侯覇は完全に蜀の人間なっており、例え遺体として取り戻しても無意味だということに気付いた。それでも豆腐にとっては大切な存在なんだろうが……。
大切な存在、か。正直、俺は夏侯覇に嫉妬しているんだろうな。じゃなきゃ俺は夏侯覇の千里行を阻止していただろうし、例え亡命しても連れ戻していただろう。そうすることなく放って置いたのは、やはり妬んでいたからに他ならない。夏侯覇が討死したと聞いて、何処かほっとしてしまったのは気のせいなんかじゃない。だがその後に襲った感情は、"後悔"だ。豆腐に対して申し訳ないと思うのは、きっと俺が未だ染まりきれていない証拠なのだろう。

「――ッ、豆腐!!」

緋く染まった視界。その向こうに、探していた豆腐の姿があった。何をするわけでもなく、ただ茫然とした様子で、揺らめく炎を眺めていた。炎の緋色はお前には似合わねえよ。お前が似合うのは、太陽の朱色だ。何故かそんな暢気な思考が、頭を過る。
俺は豆腐に歩み寄り、もう一度声をかける。やはり反応はない。これ以上長居するのは危険だと判断し、豆腐を横に抱いて己が来た道をまた走る。つい先程まであった焦燥感は綺麗さっぱり無くなっていた。ただ、生きていて良かったと。そんな思いを込めて、抱く力を強める。すると、今まで反応の無かった豆腐が、ゆっくりと口を開いた。

「……覇は、」
「豆腐?」
「覇は、何処です? 連れ戻さないと……あの子、すぐ逃げるから、捕まえるの大変で……。」
「……夏侯覇なら、姜維が連れ帰った。また今度にしようぜ。」
「姜維殿が――」

――そうか、姜維殿なら、大丈夫なんだろうなあ。よかった、姜維殿がいて。
なんて呟いた豆腐の顔は、何も見ちゃいなかった。目の前の景色も、俺の顔すらも。
「ごめんな」、と俺は思わず謝罪の言葉を口にした。案の定、豆腐は何も分かっていなかったのだが、それはそれでよかった。
きっと明日も謝罪する。そして、その度に何も見ていない眼で俺を見るのだろう。そのやりとりで十分な筈なのに、何故か満たされない俺と、亡き面影を未だ探し求める豆腐の影が重なるのは、一体いつになるのだろうか。

――それはきっと、俺が豆腐を殺す時なのだろうな。と、嘲笑った。



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