それは、ある冬の日のことだった。 はあ。と息を吐き出せば、白い吐息が口から零れだす。近頃急激にぐっと冷え込み、朝晩は酷く寒く、コートが手放せないようになってしまった。寒がりな私は、そこにマフラーも加わって、まだ11月だというのに1人だけ季節を先取りしているようだった。 そんな1人着膨れした格好で、電車に揺られて最寄り駅を目指す。現在時刻は9時半を少し回ったところ。終電間際ではないとはいえ、今日も残業を片付けてきたところだった。 連日の残業に溜め息を吐きながら、最寄りまでの数十分の間にスマートフォンを弄って何か諸連絡が来ていないか確認する。すると、ここ数年ですっかりご無沙汰になっていた先輩から突然の連絡が来ていて驚いた。あまりにも連絡を取っていなかったから、連絡先を交換していたことすら忘れていた。最後に会ったのは多分、お互い学院を卒業した時だから……。もう3年近く前になるのか。それ以降ちょいちょい連絡は取っていたものの、それも1年と続かなかった。決してお互いを嫌いになったとかではなく、単にお互いの新しい環境が忙しくなっていったが故の疎遠だった。あと、あの人はこういった電子機器に滅法弱いのもある。 そんな先輩がわざわざメッセージを送って来るだなんて、一体どんな用件なんだ……。と、昔からやたらと無茶するのが好きだった彼のことを思いながらメッセージアプリを開くも、次の瞬間には私の頭はクエスチョンマークで埋め尽くされた。 『すまん』 たったそれだけ、たった3文字だけのメッセージ。送信時間を確認するも1時間も前だったので、まだメッセージの途中というわけでは無さそうだった。 「何を謝っているんだ?この人は……」 その疑問は、すぐに解決することになる。 いつも通り最寄り駅で降りて、改札を通る。この時間帯でもまだまだ駅の利用率は高く、私と同じようにスーツを着た人達が多く改札を通って私を追い越していった。 今日はもうコンビニでいいか……。 連日の残業のせいで、今日はもう家に帰って料理を作る気力は残っていなかった。一度コンビニで済ませてしまうと、明日もそうなってしまうのは目に見えているのだが、一度そちらに傾いてしまった思考を戻す思考力すらない。そもそも今日は金曜日だし……。花金だから……。と誰に言うでもない言い訳を心の中に並べながら、少しだけ遠回りにはなるけど、コンビニに寄って帰ろう。そう思っていつもと違う方向へと爪先を向けて、一歩を踏み出そうとした瞬間−。 「結ちゃん!」 「えっ」 急に腕を掴まれて、その歩みを阻まれてしまった。その手付きは、酷く弱く感じる。少し力を入れて振り払えば、簡単にそう出来そうだ。その上、少し前まではよく聞いていた声色で私の名前を呼ぶものだから、自らも歩みを止めてしまう。これが私の耳に馴染みのないものだったら、全力で殴って逃げているところである。 しかし、どうして。何故、今彼の声が私の鼓膜を揺らしているのだろうか。 「羽風、くん……」 彼の名を呼びながら、ゆっくりと振り向けばやっぱりそこには私が思った通りの人がいて。 「良かった、合ってた……」 久しぶりだね、結ちゃん。 目の前の彼は、私だと分かるとホッとしたように息をついたあと、にこりと笑った。テレビで見るより、ずっと綺麗な笑みだと思った。 私と羽風 薫という人物は、一言で言えば高校時代の同級生、だ。ただし、向こうは私をどう思っていたかは知る由は無いが。 私と彼は、私立夢ノ咲学院というところに通っていた。その学院には珍しくも、アイドル科という、アイドルを育てるための学科が存在していて、羽風くんはそこに通う1人のアイドルだった。勿論一般企業に就職している私はアイドル科なんかではなく、普通科の生徒だ。基本的に、普通科とアイドル科の生徒の校舎間の行き来は厳しく取り締まられていて、普通ならアイドルの卵達に会うことすら叶わない。そんな私が何故羽風くんと名前で呼び合うまでの仲になったのかというと、ひとえに共通の知り合いがいたからに他ならない。 この話は長くなるから、またいずれ機会があればにしよう。それよりも何故、今この場に羽風くんがいるのかということだ。彼は学院を卒業後、アイドルとして歩むことを決め、3年経った今では若い子達の中で彼の所属するユニット、UNDEADを知らぬ人はいないのではないのかと言われるほどにまでなっている。つまり、人気アイドルだ。そんな彼が、こんな都会の片隅の街にいて、あまつさえ私の名を呼ぶなんて。なんて信じられない光景だろう。彼は、私のことなんて、てっきり忘れたのかと思っていたのに。 「どう、したの、羽風くん。急に、会いに来たりして」 突然の再会に、上手く頭が回らない。他に聞きたいことは山のようにある筈なのに、口から出てきたのは現状を疑問に思う言葉だった。それも、酷く辿々しく、動揺しているのが丸分かりだった。 私が質問を投げかけたことによって、逃げないと分かったからなのか。彼は弱々しく握っていた私の腕をするりと手放した。それを見て、あの日のことをぼんやりと思い出す。 「えぇ〜、俺的にもうちょっと再会を喜んで欲しいところなんだけど。ほら、えーっと、3年ぶり?になるんだし」 先に離れて行ったのはそっちのくせに、よくそんなこと言えるなあ。とは思うけれど、口にはしない。今まで彼の前では深く追求するような言葉は敢えて避けてきた。だから、彼の中の私は、色々聞いてこない良い子ちゃんの筈だ。 「……もう、3年になるんだ」 貴方が私を置いて行った日から。 「あはは、そうだね。もう3年にもなっちゃったよ」 相変わらず彼はへらへらと笑うものだから、これは一生平行線なんだろうなと思った。 私はあの日のことを彼に問いたいのに、彼はそれを許してはくれない。3年も経ったのに、だ。もうそろそろ時効なんじゃないかと思うけれど、彼の中ではそうではないらしい。一体、彼の中の何があの日の思い出を生かし続けているのだろうか。 「ところで、最初に戻るんだけど、羽風くん」 「ん?」 「君、一体どうやって、何故、私に会いに来たの?」 過去に想いを馳せていて、最初の問いかけがおざなりになりかけていたのに気付いて、少しだけ落ち着いた思考を働かせながら彼にもう一度問い掛ける。 彼は「あー……」と、バツが悪そうに眉を下げて笑った。彼が困った時や都合の悪い時によくする仕草だった。 そんなことを覚えていることに気付いて、軽く自分を嫌悪した。 「……その問いにはちゃんと答えるから、結ちゃんも俺の話をちゃんと聞いてね?」 「……中身にもよる」 「相変わらず手厳しいなぁ。ま、昔と変わりなくていいけど。取り敢えず、流石に駅前じゃ厳しいから、何処か入らない?明日は休みだよね?」 どうやら、一応事情は説明してくれるらしい。それが嘘か本当かは彼のみぞ知るところだが、まあ、流石に100%嘘ということは無いだろう。仮に嘘でもなんでも、どうやって私の場所を突き止めて、何故わざわざ足を運んだのかの理由には興味がある。今ここで彼を跳ね除ければ、私は今後絶対にそれらを知ることはないだろう。その代わり、彼の話という名のお願いを聞くことになるんだろうけど。 説明はしてくれるみたいだけど、流石にこんな公共の場所で長々と話す気は無いらしい。金曜日だということを盾に、何処か居酒屋に入らないかと、酒を煽るような仕草と共に誘ってくる。 あぁ、そういえば学院を卒業して以来会っていないのだから、彼とこうして飲むのは初めてになるのか。 「……いいよ。近場で遅くまでやってる居酒屋に行こう」 「良かった。断られらるかと思った」 「ちゃんと話してよ、羽風くん。それがお酒に付き合ってあげる交換条件」 「俺にこんなこと言える女の子、君くらいだよ」 くつくつと喉を鳴らしながら笑う彼を見ながら、そうだろうな。と内心で呟いた。 付き合って「あげる」だなんて言える子は、彼の周りにはきっといないだろう。今もあのプロデューサーちゃんと付き合いがあるのであれば、また私と違った塩対応には触れているだろうけど。なんだかんだあの女の子は優しいから、多分「仕方ないなあ」と笑ってお酒の席に付き合うのだろう。そういう意味では、上から目線で彼に話すことが出来る人はあまりいない。 「じゃあ、行こう。タクシーの方がいい?」 「いや、歩きでいいよ。暗がりじゃ俺だって分かんないよ」 「……そう」 一応はアイドルなのだから。と思って、気付かれないように気を遣ったつもりだったのだが、どうやら彼にはバレバレだったらしい。私がタクシーを提案した理由に対して、大丈夫だと笑いながら口にした。 当たり前のように彼には私の考えが筒抜けになっているのに、なんだか腹が立った。 *** 「かんぱーい!」 「乾杯」 所変わって近場にある個室の居酒屋。時刻はもう22時を回ろうかと言う頃なのに、花金ということが手助けをしているのか、店内は未だに賑わいを見せていた。そんな忙しい中、予約も何もしていない私達にも席があって安堵した。此処以外に、私はこのあたりの個室の居酒屋は知らなかったから。 取り敢えず初めだし、軽くつまめるものと、お互い一杯目を頼む。私は定番のカシオレで、羽風くんは生ビールだった。注文してから程なくして届いたグラスで、一体何に対しての乾杯なのかは分からないがお決まりの文句を口にする。 「はー、やっぱ仕事終わりの一杯は違うね」 「そうね。……ところで、仕事終わりにわざわざ来たの?」 「……あー、うん、まあね」 ビールを満足するまで飲んだ彼は、堪らず。と言った様子でその言葉を口にしていた。それ対して突っ込めば、本当に無意識だったのだろう。あ、やばい。と言った表情をして、眉を下げて笑った。 「それついでに聞くけど、どうしてわざわざ私に会いに来たの?どうやって私の居場所を知ったの?それから、貴方のお願いって、何?」 「結ちゃんってば一度に聞きすぎだよ。ほら、ゆっくり行こうよ。夜はまだ長いんだし」 「誤魔化さないで」 私が一度に問い詰めると、彼は焦ったように慌てて私の言葉を堰き止めた。それから、ゆっくり行こうよ。と言うのだが、それが彼にとっての誤魔化しの一歩だというのは分かりきっていた。私だって、3年間彼と付き合いがあったのだ。それくらいは、分かる。それを、彼が分かっていない筈は無いと思うのだが、そこまでして言いたく無いのだろうか。 「あはは、ほんと、君は手厳しいよね」 「こういう私だから、あの時貴方は私を近くに置いたのでしょう?」 「……。そうだね、それは否定できないかな。じゃあ、まずはお願いの話からにしようかな。それが一つ目の話に繋がるから」 「……言い逃げは無しだからね?」 「分かってるよ。俺のお願いって言うのはね……」 「……、」 「暫く、結ちゃんの家に置いて欲しいんだよね」 「……は!?」 嗚呼、これは果たして現実なのだろうか。 |