※現パロ 「いつも、きみをこうしたいと思っていた」 そう言って、彼は私の手首へと緩やかに手を掛けた。 さっきまでけたたましく響いていた蝉時雨が、今は遠く感じる。 私の視界いっぱいに映っているのは、唇を噛み締め、今にも泣いてしまいそうな表情を見せる彼の姿。それから、その隙間から見える天井の木目。 伸びた白銀色の襟足が、重力に従って首筋から垂れている。季節柄か、彼の首筋は薄っすらと汗ばんでいた。 「せ、んせ」 呟くような小さな声で、目の前の人物を表す敬称を口に出す。私の声は確かに届いているはずなのに、彼は私の問いかけには答えなかった。 「きみは、こんな俺を本当に知りたいと思うかい?」 ……私は今、目の前の人物―先生に、押し倒されているところだった。 *** 私の住まう地域には、「先生」と呼ばれる人がいる。その人はそこそこ大きな日本家屋に住んでいて、いつ見ても紺の着流しを着ている、少し現代では変わった人だった。けれどその人の職業は教師でもなければ医者でもない、らしい。らしいというのは私が直接先生に聞いたわけでは無かったし、両親や近所の人たちも先生の本当の職業を知らないからだ。ついでに言えば、年齢も分からない。名字だけが唯一、私が知っている先生に関連すること。それも、先生に教えてもらったわけではなく、玄関に飾ってある立派な表札から知っているだけだ。先生の名字は、鶴丸というようだった。 彼が「先生」と呼ばれる所以たるものは、ひとえに「何でも知っているから」に他ならなかった。分からないことや困ったことがあれば先生に相談する。そうすれば、必ず先生は助言をくれる。だから、彼は先生と呼ばれていた。 そんな先生とは家が近いもの同士なこともあり、交流がよくある。田舎特有の付き合いというか、パーソナルスペースの狭さというか。先生は自分で料理をあまりしない。それ故に、心配した私の両親やその他世話焼きなおば様方からの差し入れが頻繁にあるためだ。 今日も私は、暑い夏の日差しの元、先生に差し入れを届けに来ていた。今日の差し入れは、桃だと母が言っていた。 「せんせー、今日の差し入れ持ってきたよー」 がらりと、インターホンも無ければ鍵も掛かっていない、不用心極まりない扉を開ける。先生はドラマに出ているどの俳優にも負けない綺麗な、大都会に住んでいそうな顔をしているくせにこういうところは嫌に田舎臭い。話し方も少しだけ変わっていると言うか、古風と言うか……。でも、そういうところがこの片田舎で変に浮かない、先生のある意味処世術だと言えるのかな、と勝手に私は思っている。 声を掛けて暫く。玄関に突っ立ったまま待っていれば、右側にある扉からひょっこりと先生が顔を出した。 「おお、きみか。なんだか久しぶりな気がするなあ」 「やっと夏休み入ったんだ。今日は部活も午前中で終わりだったから、お母さんの代わりに私が持ってきた」 「そうかそうか。……それで、今日はなんだって?」 「桃!」 久し振りに見た先生の顔は、相変わらずの白さで、酷く不健康に見えた。連日の猛暑日のせいで日焼け止めを塗っていてもどんどん日に焼けていく私と違って、先生は真冬の新雪のような肌をしている。これでも華の女子高生としては、先生の肌の白さには羨望の眼差しを向けずにはいられない。 「おお、桃か。旬だものなあ」 「おばあちゃんから貰ったんだって」 「へえ、そうなのか。……うん、立派な桃だな。特にこいつは美味そうだ」 私の腕の中の箱を覗き込んで、先生は感心したように呟いた。先生は、桃の良し悪しすらも見ただけで分かるらしい。私には箱に入っている桃はどれも同じように見えるけど、先生にはそうは映っていないみたいだった。 ふうん、と適当な相槌を打ちながら、持っていた箱を先生に押し付ける。 私の本当の狙いはこれを届けに来ることだけじゃないのだから、さっさと家に上げてもらいたいのが本音だった。 「そうだ、先生。今日はお邪魔していい?夏休みの課題で分からないところがあるから、教えて欲しいの」 肩に掛けた鞄から、数学のテキストを取り出して先生に問いかける。先生は、二つ返事で了承してくれた。私はその言葉に甘えて、今日も先生の家にお邪魔する。 私の先生は、いつだって鶴丸先生だけだった。 不思議だと思ったことを尋ねるのも、勉強で分からないところを訊くのも、友達と喧嘩したときに相談する相手も、全部が先生だった。 先生はその度に私に優しく教えてくれる大人の人で、私はそんな先生を慕っていたし、好んでいた。身近にいる年上で、頼りになって、かっこよくて。そんな先生に、私が恋に落ちるのはきっと必然だった。 *** 「……これで、χがこうなるから、この式を使うわけだ」 「あー、成る程。分かった!」 「これで分からない部分は終わりかい?」 「うん。せんせ、有難う」 「どういたしまして」 「あー、終わったあー!」 やっと持ち込んだ課題が終了したことによる解放感から、そのまま畳の上に後ろ向きに寝転んだ。先生はそんな私を見て、くつくつと喉を鳴らして笑っている。 先生の家に上がり込んでから早数時間。理解力の乏しい私に付き合って、先生が根気よく教えてくれたせいもあってか、気付けば随分と時間が経っていたらしい。寝転んだまま首を窓の方に向ければ、青かった空はオレンジ色に染まっている。ミンミンジワジワと煩かったミンミンゼミやアブラゼミの大合唱も、カナカナというヒグラシの輪唱に変わっていた。 「頭使ったらお腹空いた……」 「ははは、そろそろ夕飯時だからな。ご飯は出てこないが、さっききみに貰った桃なら剥いてやれるぞ」 「ほんと?食べたい!」 「ほいほい」 よっこらしょ、だなんてお爺さんみたいな掛け声をしてから、先生はゆっくりと立ち上がった。見た目だけは酷く若いから、ジジ臭いなあと笑いそうにになったけれど、もしかすると、実際先生はおじいちゃんなのかもしれないなと思った。髪も白いし。 伸びた襟足を尻尾のように揺らしながら、居間の隣にある台所へと先生が入っていく。そこでふと、疑問に思う。そういえば、先生は包丁を握れるんだったか。 先生は料理をしないから、こうやって毎日差し入れが届くわけで。私がお邪魔した日には、時々私にすら料理を作ることを強請るほどで。かれこれ先生とはもう10年以上の付き合い になると思うけど、私の記憶の中には先生が包丁を握っているところを見たことなんて、一度も無かった。 やばい、直感的にそう感じた私は慌てて寝転んでいた身体を起こして台所へと走った。 「せんせ、やっぱり私が――!」 「お、丁度良かった。今剥けたところだったんだ、皿を向こうに持っていってくれないか」 「……へ、」 バタバタと大きな音を立てながら台所へと足を踏み入れると、案の定そこに広がっていたのは……。 無残な桃の姿ではなく、今までに見たこともないくらい綺麗に皮が剥かれた桃が皿の上に乗せられていた。てっきり大惨事になっているところを予想していた私としては、目を丸くして驚く他ない。 素っ頓狂な声を出したまま、呆然とその場に立ち尽くす私を見て、先生は何かを察したらしい。あっはっは!と腹を抱えて転げ回りそうな勢いで大笑いをし始めてしまった。その大きすぎる笑い声に、私の意識はハッと浮上した。 「きみ、俺のことを包丁の握れない、料理のできない男だと思っていただろう」 「だって先生、いっつも料理作らないじゃん。だから差し入れ制度が出来てるんでしょ?」 「うん、まあ、そうなんだが。俺だってたまには包丁を握るくらいするぜ?」 「……ほんとに?」 「ああ、ほんとさ。現に、桃はこうやって綺麗に剥けてるだろう?」 「……それはまあ、そうなんだけど」 先生の言葉に納得できなくて、綺麗に剥かれた桃を見ながら歯切れの悪い言葉を返してしまう。けれど、本当に今の今まで一度も台所に立ってまともに料理しているところも、何かを切っているところも見たことがないのだから仕方がないと思う。 納得のいかない顔をしたまま、先生をじとりと見つめれば、先生は苦笑を浮かべて両手を挙げた。 「ははは、すまん。嘘だ。料理はからっきしだ。桃だけは綺麗に剥けるんだよ」 「なあんだ、やっぱり。ほんとに先生が料理できたらどうしようかと思った。……なんで桃は綺麗に剥けるの?」 「そりゃあきみ、桃はきみがいっとう好きな果物だろう。そのくせ剥くのは難しいと面倒くさがるからだな―」 「? 私、先生に桃が一番好きだって言ったこと、あったっけ」 「、」 しまった。 明らかに、先生はそういう表情を見せた。 純粋な疑問だった。今まで桃を持ってきたことは何度もあったし、何度もこの家で食べたことはあったけれど。桃が一番好きだと、そう、先生に教えたことは果たしてあっただろうか。 「き、みの、美味そうに食べる表情を見ていればそれくらいは分かるさ」 「……」 「さあ、きみ。皿を持っていって向こうで食べよう」 にっこりと、焦った表情を取り繕うように先生は柔らかな笑みを浮かべた。それから先生は私の言葉を待たずに、桃の乗った皿とフォークを持って居間の方へと戻っていった。 彼ほどの人間ならば、きっとこんなので誤魔化せたとは思っていない筈だ。それでも完璧に取り繕わないのは、良い子だから言及してくれるなよ、という暗黙の訴えなのか。それとも―。 それは、私には分からない。 居間に戻れば、先生は先に桃を食しているところだった。 「先に頂いてるぜ、きみ」 「……せんせい、」 此方を見ずに、フォークに桃を突き刺して咀嚼する先生。ぽつりと、けれど聞こえるような声音で呼称を口にすれども、聞こえているのかいないのか。彼はそれに反応することは無い。 「先生、」 「……」 今度は、もう少し大きめに。けれど、先生は応えない。 「っ、先生!」 反応を返さない先生に苛立って、敷居に突っ立っていた足を動かして彼の隣で歩みを止める。その涼し気な表情が酷く私を苛立たせる。まるで私の感情の揺れなんて、全く興味がないというような、その表情が―。 だから、私は彼にとっての良い子ちゃんでは、いられない。 「私、先生のこと、もっと知りたい」 先生が、私に対して何かを隠していることには気付いていた。それは酷く小さな違和感で、いつもは勘違いなのかなと、それで済ませていた。けれど、さっきの先生を見て確信を持った。 先生は、私に、何かを隠している。私は、それを知りたい。 「ねえ、せんせ……」 「きみは、俺のことを知りたいと思うのか?」 「え?」 「いつも、きみをこうしたいと思っていた」 そう言って、彼は私の手首へと緩やかに手を掛けた。 さっきまでけたたましく響いていた蝉時雨が、今は遠く感じる。 私の視界いっぱいに映っているのは、唇を噛み締め、今にも泣いてしまいそうな表情を見せる彼の姿。それから、その隙間から見える天井の木目。 伸びた白銀色の襟足が、重力に従って首筋から垂れている。季節柄か、彼の首筋は薄っすらと汗ばんでいた。 ふと、脳裏に何かがよぎる。……私は以前にも、こうやって、先生、と――。 「せ、んせ?」 呟くような小さな声で、目の前の人物を表す敬称を口に出す。その瞬間、脳裏によぎった映像は霧散した。 私の声は確かに届いているはずなのに、彼は私の問いかけには答えない。 「きみは、こんな俺を本当に知りたいと思うかい?」 代わりに、先生は私に新たな問いを投げかける。それは、女子高生を押し倒すような自分を、という意味だろうか。 「ずっと、こうしたいと思っていた」 「……ンッ、」 どう答えたものか、と逡巡している間に、先生はするりと私の太腿を柔らかく撫でる。学校帰りでセーラー服を着ていたせいで、そこを守るものは黒いスカート一枚。それは、砦の意味を成さなかった。 私の反応に、先生はふっと表情を緩めて笑う。 「きみは知らないんだろうなあ。きみが家に来るたび、俺が想像していたことを。短いスカートから覗く白い足を見るたび、制服を脱がせて、泣かせたいと……そう思っていたんだ。 その後のことも、勿論分かるだろう?」 先生の顔が、目前まで近づく。唇同士が、触れてしまいそうな程の距離。 私は言葉の意味を理解するのと、先生の美しいかんばせが間近にあるのとで、眼の前がチカチカするのを感じる。ついでに、体温が上昇する気配も。 「ふふ、きみ、可愛いなあ」 するすると、太腿に置いてある先生の細く、けれど骨ばって男らしい手がそこを行き来する。時々下着の縁に引っ掛けるように奥まで入ることもあって、その時にはぴくりと身体が震えた。 「……だが、これで分かっただろう?きみが知りたいと言った俺が、如何に醜く、汚いか。分かったら、今後はあまり此処に来ない方が良い」 さっきまでの戯れは夢だったのか。 そう思うくらい、先生は何事も無かったかのように私の上から身体を起こそうとする。なんだかそれが癪で、今度は私が、着流しの襟元を掴んで引き寄せた。不意打ちだったせいか、私のような小娘の弱い力でも、簡単に先生は体勢を崩してくれる。 そんな、如何にも寂しいですという表情をした人間を、放って置けるほど私は冷酷な人間じゃない。それが、先生なら尚更だった。 「っ、きみ、何するんだ」 「先生、」 「さっきので分からなかったのか。俺は、きみに……!」 「私のこと、好きですか」 「……は、」 「私のこと、好きですか?」 何を言っているんだ。言外にそう言われているのがありありと感じ取れた。先生の綺麗な蜂蜜のような瞳が丸くなり、波紋のように揺れている。 そんな、さっきのあれだけで全部を分かってほしいだなんて、先生は馬鹿だ。もしかしたら先生は女子高生というブランドに興奮しているのかもしれないし、本当にただそういうことをしたいだけなのかもしれない。言葉で言ってくれなきゃ、私はそう思うかもしれない。 だから、私に教えて欲しい。先生の考えていること。 「っはは。きみは、本当に……」 「馬鹿な教え子ですか?」 「いいや?馬鹿は馬鹿だが、俺はきみを教え子と見たことは一度も無いぞ。……俺は、きみが、好きだからな」 「ふふ、やっと言ってくれましたね。せんせ」 本当は気付いていた。先生の隠し事のなんたるかを。 だって、そうだろう。蜂蜜の奥に熱を孕ませ、あまつさえそれをどろりと蕩けさせているのを、気付かないとでも思っていたのだろうか。それとも、無意識だったのか。またはそれに気付きはしないだろうと、私のことをよっぽど無知な子供だと思っていたのか。 だけど先生がそれを決して表には出してこないから。だから私もそうしようと思った。高校生にもなれば分かる。先生のそれも、私のそれも。世間体には受け入れられないっていうことぐらい。 「私も先生のこと、好き」 「きみ、」 「だから本当はね、わざとスカートを短くしてきてたって言ったら、どうする?」 「っ」 太腿に置かれたままの先生の手に、私の手をそっと重ねた。今度は先生が、ぴくりと身体を反応させる。 「ね、せんせ――んぅ、」 つうと手の甲をなぞりながら先生を呼ぼうとしたところで、私のそれは音になることは無かった。 私の視界いっぱいに映っているのは、金の瞳をギラつかせながら私の唇に口付ける先生。 伸びた白銀色の襟足や前髪が、首筋や頬に当たって擽ったい。 初めて味わった口付けは、桃の甘酸っぱさに加えて、懐かしい味がした。 |