先輩と僕


 今日、千石先輩が引き当てたくじ引きの練習はシングルスの紅白戦。いつもダブルスを組んでいるペアもわざと紅白に分かれて、試合をしていた。
 緑のユニフォームの上に赤いゼッケンをつけて、新渡米先輩がシングルスの試合をしている。僕と組んで以来久し振りのシングルス試合らしく、ちょっと緊張するな…と試合前に言っていたのを思い出した。

「南、ダブルス専門だからな。いけるかな」

 僕の隣で赤いゼッケンをつけた東方先輩が苦笑いを浮かべながらコートに視線を向けている。
 新渡米先輩の相手は山吹最強のダブルス・地味ーズの片割れである南部長だ。白いゼッケンを付け、まるで基本通りのフォームでボールを打ち返している。ダブルスでない分、その力が十分に発揮されていないようだが、十分地味に強い。その技術力で新渡米先輩の決め球を悉く返している。今のスコアは一進一退だ。
 東方先輩が南部長を心配するように、僕だって新渡米先輩が心配だ。先輩は僕がいなくても勝てるんだろうか。
 勝てたら先輩が強くて嬉しいし、勝てなくてもそれはそれでちょっと嬉しい。僕が先輩の力を引き出せているみたいだから。

「やっぱり南部長ってダブルス専門なんですか?」
「中学入るまではスクールでシングルスやってたし、一人でも結構イケてると俺は思うんだけど、中学入ってから伴爺に君はダブルス向けですってはっきり言われてたよ。俺と組んだのは南君と東方君は気が合うお友達のようですから、ダブルスを組んでみては? って言われたから、だったかな。確かに前から友達だったけど、組んでみようとは思わなかったんだよな」
「へえ…」

 東方先輩の伴爺の真似が地味に似ていると思いつつ、地味ーズの馴れ初めを聞く。やっぱり、南部長のプレイヤーとしての才能を引き出しているのは東方先輩なんだろう。誰と組んでも同じはずがない。
 目の前で行われている試合も南部長が押している。新渡米先輩は押されている一方だ。

「新渡米先輩はどうなんですか?」
「あいつは結構満遍なくできるよ。喜多が入る前はシングルスだったし。まあ、見てなよ」

 さっ、と東方先輩が新渡米先輩を指さす。

「隙見っけ」

 新渡米先輩がぺろりと舌を出して、南部長の死角を突いた。すぐ後ろを打ち抜かれて、南部長が驚いて後ろを振り返る。

「ゲームセット! ウォンバイ新渡米!」

 審判をしていた室町の声が響いて、新渡米先輩は勝利した。負けた南部長は苦笑いしながら、先輩と握手を交わしている。

「そのタイミングで後ろががら空きになるのは南君の悪い癖だよね。今は東方君いないのに」
「またやっちゃってたか。ついやっちゃうんだよな…」
「うん。まあ、君が公式戦でシングルスで出ることなんて滅多にないけど、油断はしないほうがいいよ」

 先輩はシングルスでも十分戦えるのに何故か僕とダブルスを組んでくれているんだ。さっきは勝てても先輩が強いみたいで嬉しいと思っていたのに、今はちっとも嬉しくない。例え、相手はシングルスでは力に欠ける南部長でも。もし千石先輩だったらショックで寝込んでしまうかも知れない。

「次、東方さんと喜多、コートに入ってください!」

 審判の室町がメガホン片手に叫んでくる。すでに南部長と新渡米先輩はこちらの試合を見る気満々のようで柔軟体操をしながら、こちらを見ている。

「なんか東方先輩が羨ましいです」
「え、なんで?」

 東方先輩の質問には返事をしないで、僕はコートに入った。



「喜多君、帰りに一緒にたい焼き食べよう」
「いやです」

 新渡米先輩がシングルスもできると聞いてから、なんとなく先輩と会いたくなくなった。それでも、先輩はいろんなことに誘ってくる。一緒に空を見よう、だとか背を測ってくれないか、とか。
 でも、僕は先輩とお話だってしたくない。同じコートにも立ちたくない。本当は練習なんてしたくない。勝手に練習をサボれば南部長に怒られるから出ているに近い。
 いや、別に適当に理由をつけてサボっても良いんだけど。部長は千石先輩以外には優しいから適当に「お腹が痛い」とでも言えば休ませてくれるだろう。でもそれをしないのは練習に義務感を抱いているからなんだろう。だって、今は全国前だ。

「この間からどうしたんだい? ちょっとおかしいよ」
「おかしくないです」
「こないだの紅白戦からだ。東方君から何か聞いた?」

 新渡米先輩がそっと顔をのぞき込んでくる。うつむいている情けない顔を見られたくなくて、心持ち目をそらした。

「先輩はどうして、シングルスからダブルスに転向したんですか?」
「え? そうだなあ」

 先輩はそう言って、腕を組む。芽がそよそよと風に靡いている。
 しばらく目を閉じてから、何か思い出したように目を開いた。

「そうだ、あのときからかな」
「どのときですか?」
「喜多君には教えない。そんなことより、たい焼き食べようよ」

 にや、としてやったりの笑顔を浮かべて、先輩は前のたい焼き屋を指さした。はぐらかすつもりだろうか。それとも単純にお腹が空いてるからなんだろうか。

 それを一番知りたいのは僕なのに、どうして僕に教えてくれないんですか、先輩。



 全国大会二回戦。第三試合。新渡米先輩がたった一人でコートに立ってラケットを振っている。先輩の表情は真剣そのもので、まっすぐ相手の動向を探っている。先輩の芽までもピンと張り詰めていた。
 相手の見せた隙を逃さず、先輩はその死角にボールをたたき込んだ。

「ゲーム・山吹!」

 このゲームは新渡米先輩が獲った。しかし、試合全体は相手に主導権が握られていた。いくら先輩がシングルスもできるからといって太刀打ちできる相手ではない。やはり、全国の壁は高い。
 室町のシングルス3、僕と錦織先輩のダブルス2はもう落としてしまっているから、この試合で今後の進退が決まる。なんとか先輩が持ちこたえて、次の南部長と東方先輩のダブルス1に繋げることができたなら、望みもあるかもしれないが、しかし、今の状況ではそれも難しそうだ。
 しかし、先に進めないかも知れない悔しさより別の悔しさが僕の中に渦巻いていた。

 なんでですか、先輩。どうして僕とのダブルスじゃないんですか。

 錦織先輩のことが嫌いなわけじゃないけれど、新渡米先輩ほど合わなくて一ゲームも取れなかった。
 これが最後かも知れないのに、先輩は僕とのダブルスで挑んでくれなかった。伴爺や南部長は僕と先輩をダブルスで使うつもりだったらしいが、先輩は自分からシングルスで出ると言い出したらしかった。

 やっぱり僕がへそを曲げたのがダメだったんですか?

 そう思うとまた悔しさがこみ上げてきて、鼻の奥が熱くなってくる。ああ、また僕は泣いている。

「喜多、まだ新渡米が試合中だぞ」
「そうだよ、あんまり泣くなよ。まだ決まってないんだから」

 新渡米先輩の応援をしていた南部長と錦織先輩が僕の肩をそっと叩く。でも、もう決まってしまってるじゃないか。

「ゲームセット! ウォンバイ名古屋星徳!」

 涙で歪んだフェンスの向こうにぼんやりと先輩の姿が見える。どんな顔をしているのか分からないが、僕よりひどい顔はしていないんだろう。
 もう全国大会でこれ以上、上へ行けなくなった。
 僕と先輩ならさっきのダブルス2で勝てたかもしれないのに。

「やはり、喜多君と組んだ方が君のためにも良かったのではないですか?」
「いえ、俺自身は後悔はしてないです」
「そうですか…」

 ベンチに座っている伴爺と先輩の会話が聞こえてきた。
 後悔してないってなんだよ。僕なんていなくても勝てたってことか。
 今までも、ずっと。

「喜多、あんまり泣くなよ。まだ地味ーズが…」
「悔しい…。今、すごく悔しいんだ…」
「喜多…」

 声をかけてくれたのは嬉しいけど、室町はきっと誤解をしている。
 試合に負けたから悔しいんじゃない、僕は新渡米先輩と最後のダブルスを組めなかったことが悔しいんだ。

 その後、地味ーズは負けて、千石先輩が一勝して、山吹にとっての全国大会が終わった。



 大会が終わってから、一度学校に戻り、そこで解散と言うことになった。
 敗北からくる悲壮感こそないが、明るい気持ちになるわけでもない。特に会話も交わされることなく部員たちは一人また一人と帰って行く。僕もそれに乗じて、テニスバッグ片手に部室を後にした。まだ何人か先輩が残っていたが、挨拶もする気が起きない。それを解っているのか、先輩たちは誰一人それを咎めることはなかった。

「喜多君」

 部室を後にした僕を追うように呼ぶ者がいる。振り返れば、新渡米先輩が片手をあげて微笑んでいた。ずっと見たかったような、見たくなかったような、複雑な気持ちになりながら足を止める。

「新渡米先輩…」
「終わったね、全国大会」
「はい」

 新渡米先輩が僕の隣に追いつくと自然と歩き始める。だけど、僕は先輩の顔が見られない。

「これで、俺も引退かぁ。長いようで短かったなー」

 先輩の中ではきっとたくさんの思い出が走馬燈のように流れているんだろう。しばらく沈黙が続く。僕はちらりと先輩の頭に生えている芽を見た。相変わらず瑞々しい。

「去年、喜多君と組んでからもたくさん時間が経ったね」
「……」
「喜多君とダブルス組んで、色々あったよね」
「……」
「喜多君とダブルスを組んで、ここまで来れて本当に良かったと思ってるよ」

 何を言っているんだ。最後の試合は組んでくれなかったくせに。

 そんなこと考えちゃいけないのにそう思ってしまう。
 先輩はシングルスでも十分いける。ホントは僕なんていらなかったんだ。だから最後組んでくれなかったんだろう?

「喜多君、最後は組んであげられなくて、ごめんね」
「……」
「でも、組むわけにはいかなかったんだ。伴爺も南君も二人で出なくていいのか? って訊いてくれたけどね、組むわけにはいかなかったから断った」
「……なんでですか」
「お、やっと口を開いてくれたね」

 ちらりと隣を見るといつもの指を一本立てるポーズで先輩は笑っていた。

「俺がずっと君のことを見ていたら、君は一人で立てなくなってしまうからね。だから、ここまできて、君を手放したんだ」
「一人で立てなくなる…?」
「入部以降、ずっと君は俺と組んでてくれてたよね?」

 先輩にそう言われて、僕は頷いた。確かにそうだ。シングルスの試合をしたことはあんまりない。それこそたまにやる紅白戦くらいなものだ。公式戦では一切ない。

「君は俺によく似たプレイヤーだ。努力次第で、シングルスでもダブルスでも強い選手になれる。だから、俺は組めなかったんだ」
「独り立ち…」

 ずっと組んでいた先輩が離れた意味。
 僕のためなんだ。
 僕が一人でコートに立つためだったんだ。

「これから、新しいダブルスパートナーを見つけて、来年の山吹ダブルスを引っ張っていってもいいし、シングルスに転向してもいい。とにかく、君の未来は無限だよ。好きな道を選ぶといい」

 先輩はそう言って、微笑む。どこか寂しい感じがする。
 僕だって、先輩が離れてしまうのは寂しい。

「先輩……」
「喜多君、泣かないで」

 先輩が僕の肩を撫でてくれる。先輩はもう引退だから、もっとつらいはずなのに。僕だけがぐすぐす鼻をすすりながら、泣いている。
 先輩ともっとダブルスを組んでいたかった。先輩ともっとテニスがしたかった。二年間じゃとても足りない。

「俺がダブルスをやろうと思ったのは君のおかげなんだよ」
「え?」
「新入生の君を見て、この子とペアを組もうって直感的に思った。ただ、それだけの簡単な理由なんだ。君とコートに入るのは楽しそうって」
「訳が分からないです、先輩」
「訳が分からなくても、いいよ」

 なんだそれは。
 一瞬そう思ったがなんだかその答えが新渡米先輩らしくていい。
 抽象的な表現が多いから、よく南部長に怒られているのを見るけれど、それもまた、新渡米先輩の持ち味だ。

「だから、ありがとう。喜多君と組んだ二年間、すごく楽しかった」

 そう微笑んだ先輩の目からぽろりと涙がこぼれた。僕は無意識にその涙をぬぐい取る。少し驚いたような顔をしていたが、すぐに笑顔に戻る。

「他の人と組んでも、先輩は僕の、永遠のパートナーですから」
「うん」
「ですから、また、僕と一緒に組んでくださいね」
「勿論だよ。またやろうね」

 お互いの目からぼろぼろ涙がこぼれてきて、お互いに拭いあう。それでも、だめだ涙はこぼれてしまう。止まらない。
 涙は出るけど、悲しい涙じゃない。悔しい涙でもない。
 紛れもなくこれは、嬉しい涙なんだろう。

 来年こそは。

 そう誓って、僕はジャージの袖で涙を拭った。


(120601)



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