最後の意地[2]


※茂庭さんと二口が女体化。
※平気で男とプレイする女子。


 シャツに短パンという練習着姿の茂庭が首からかけたタオルで汗を拭きながら、ペットボトルを傾けていた。シュシュで一つに括られた髪型を見ているとかつての現役時代を思い出して懐かしくなる。宮城の秋は一層深まって、肌寒くなってきた。それでもここまで熱くなれるのはやはりバレーのおかげだろう。
 週末、茂庭にトスを上げてもらうようになった。鎌先はその日だけは就活も入れないし、茂庭も受験勉強は休みにしているという。昼間は二人でバレーをして、適当な時間になると解散する。たまに茂庭の家で夕食を食べていったりもする。二人で過ごす週末は楽しかった。
 笹やんも誘えばブロック練もできるな、と茂庭は笑っていたし、鎌先も一緒にやれば楽しそうだと思うのだが、何故か一度も誘わなかった。

「はー、半袖じゃさすがに寒くなってきたな」
「そーだな」
「んなこと言って、鎌ち、全然暑そうだな。腕まくりしてるし」

 寒い寒いと言いながら茂庭はパーカーを羽織る。茂庭家の縁側に二人して座る。何をするでもなく、話すでもなく空を見れば、秋空に雲が静かに流れている。穏やかな時間だった。

「あいつら、どこまで行くのかな…」

 ぽつり、と茂庭が呟く。あいつら、というのが誰を指しているのかは嫌でも分かる。二口と青根のことだ。主将を二口に譲ったした今でも彼女は後輩たちのことを案じ、主将の顔をしている。しかし、彼女が引継を終えてから練習に行ったことは一度もなかった。

「二口も俺が来たらクソ生意気なツラしてっけど、ちゃんと主将やってるぜ? 青根はもっとでっかくなってるし、小原も作並も他の奴らも調子いいみたいだし、心配いらねーよ。お前も言ってただろうが、あいつらは強いって」
「そうだよな。あいつらは強いもんな…」
「心配すんなら、シケたツラしてねーで練習に顔出してやれよ。二口も言ってたぞ、もー! なんで鎌先さんなんですか! 茂庭さんだったら毎日でも大歓迎なのに…! って」

 わざわざ裏声を出して二口の真似をしてやれば、茂庭はプッと吹き出した。笹谷がそういうことをやるのはよくあるが、鎌先は滅多にしないからだろう。自分で言っておきながら、いいことを思いついた。

「いいこと思いついた」
「なに?」
「今から練習見に行こうぜ。今日は午後練もやってるだろ」
「えっ! そんないきなり…」

 突然の鎌先の決定に茂庭は戸惑っているようだが、その手首を掴んで引っ張る。鎌先はやると決めたらすぐやる男だった。汗が冷めて少しずつ寒くなってきたが、構わない。自転車に乗っていれば、じきに温かくなるはずだ。

「なんで嫌なんだよ」
「え、なんでって言われても…」
「何もないんなら、行こうぜ」

 そこへ麦茶とおやつの最中を載せた盆を持った茂庭の母が台所から現れる。鎌先に手首を掴まれている娘を見ても動じず、暢気に首を傾げている。

「あら、かなめ、鎌先くん、どこ行くの?」
「二人で練習見に行こうってことになったんです!」
「そう、気をつけてね」

 鎌先の色々不十分な説明を聞いて納得したのか、ほほえみながら手を振ってくる。最中を食べずに行くのは少し気が引けたが、今を逃したら茂庭はもう卒業式までバレー部に顔を出さないような気がした。

「茂庭、俺の後ろに乗れ」
「私も自転車あるし、それで行くよ」
「ダメだ。別々だったらお前途中で帰るだろ」

 鎌先が自分の自転車の荷台をぼんぼん叩くと渋々茂庭はそこに跨がった。自分もサドルに跨がると後ろで申し訳程度に荷台を掴んでいる茂庭を振り返った。

「腰掴まれ。あぶねーだろうが」
「お、おま……うん」

 茂庭は一瞬、何か言いたげにしていたがすぐにしおらしく頷くと鎌先の腰に大人しく掴まった。それを確認すると鎌先は地面を蹴って、自転車を走らせた。


 途中にあるスーパーで差し入れ用にアイスを買いあさってから、体育館に向かった。まず、監督の追分とコーチに挨拶をすると二人に茂庭は久しぶりだなあ、と笑われて、茂庭は苦笑いを浮かべていた。
 スパイク練に励んでいた部員たちに手を振ると真っ先に二口が茂庭に気がついて、目を輝かせながら駆けだしてくる。鎌先だけの場合とえらい違いだった。二口だけでなく、青根も小原も作並も他の後輩たちも茂庭の方へと駆け寄ってきて、すぐに二人は後輩たちに囲まれてしまった。それもこれも茂庭効果である。

「茂庭さん!」
「何やってたんですか! もー!」
「お久しぶりですね」
「来てくださって嬉しいです!」

 青根が頬を上気させながら大声で茂庭を呼び、二口が頬を膨らませながら憤慨し、小原がいつも通りに微笑んでいる。巨体の三人の間からうまいこと作並も顔を出していた。他の後輩たちも口々に茂庭に声をかけているが、彼女は聖徳太子でもないから対応に困っていた。

「コラ、お前ら、順番にしゃべれ!」

 助け船を出してやろうと大声を上げるとみんな途端に静かになった。そして、茂庭と鎌先を交互に見てから、きょろきょろと視線をさまよわせる。

「おー、青根、デカくなったなー。ちょっと見上げるの首が痛いよ。前から痛かったけど。二口も主将らしくなったし、小原も作並も調子いいみたいだな……ってどうした?」
「笹谷さんは?」
「今日は二人で来たんだよ。鎌ちに連れてこられて」

 茂庭の一言に二口が口を押さえて、言葉を失っていた。隣の青根も動揺しているのか目を見開いている。二年生で普通なのは小原くらいなものだ。作並はみんなが何故驚いているのか分からないと言う顔をしている。

「あ、小原、これ差し入れな」
「ありがとうございます」
「アイスだからすぐ食べろよ」
「はい」

 驚いている後輩たちは放置で茂庭はスーパーの袋を小原に差し出していた。二口は彼を信じられないものを見る目で見つめていた。そして、肩を怒らせながら鎌先に迫ってきた。

「い、一体どういうことなんスか! どういう経緯でそういうことになったんスか! ていうか、茂庭さん連れてきてくださってありがとうございます!」
「二口にしちゃ、素直じゃねえか。茂庭にトス上げてもらってたら、そういえばこいつ全然練習に顔出してねーなーって思ってよ。それなら連れて来ちまえって思って」
「茂庭さんにトス上げてもらうってどういうことなんスか! 何なんですか、付き合ってるんスか?! ていうか、引退して就活真っ最中の鎌先さんに上げるんなら、現役の私たちにも上げてほしいです! な、青根!」

 二口が青根に同意を求めるとコクコクッと大きく頷いた。それを見て茂庭は苦笑いを浮かべていた。

「セッターいるだろ? 私なんかが上げなくたって…」
「俺も茂庭さんにトス上げてほしいです!」

 茂庭が首を横に振ろうとすると新しい正セッターの二年生が大声を上げる。そこから他の後輩たちが俺も、俺もと手を上げた。後輩たちの反応に茂庭は目を真っ赤にして立ち尽くしている。引退しても尚茂庭を慕う彼らに感極まっているようだ。

「茂庭、お前泣くことねえだろ」
「違う、泣いてない。分かった。トス上げてやるから、みんな並べ!」

 ニヤニヤしながらあおってやれば、首をぶんぶん横に振ってから、茂庭はコートへ入っていった。後輩たちを指示するその横顔は主将の顔だ。久しぶりに見た。彼女の声に従順な後輩たちはハイッ! と野太い返事をすると二口を先頭にして素直に並びだした。

「鎌先もボサッとしてないでブロック跳べ!」
「俺もやんのかよ!」

 後輩たちのスパイク練を眺めていようと思っていたら、主将の顔をした茂庭はそうはさせてくれなかった。ビシッと向こうのコートを指さされて、大人しくそこに向かう。主将モードの茂庭は鎌先を普段のあだ名ではなく名字で呼んだ。

「鎌先さんお手柔らかにぃ〜」
「ぜってー叩き落としてやる!」

 先頭に並んでいる二口がにやにやしながら鎌先に頭を下げる。その顔がムカつくので二口のスパイクだけは絶対叩き落としてやると彼女を睨みつけた。ネット際にいる茂庭が行くぞーとボールを上げた。


 小原が機転を利かして追分に託していたお陰で溶けることを免れたバーアイスを舐める。さらにいい汗をかいて、熱くなった身体に心地よい冷たさだった。自分たちの分はないと考えていたのだが、午前練で帰った者がいたお陰で茂庭と鎌先もアイスを食べることができた。
 しかし、人気者の茂庭は青根や他の後輩たちに囲まれていて、一緒に食べることはできなかった。彼女の代わりに二口が鎌先の隣にいる。

「お前は茂庭のとこに行かなくていいのかよ」
「今は青根に譲ってるんです。だから鎌先さんで我慢してるんです」
「相変わらず口が減らねえな…」

 しゃくしゃくアイスをかじりながら、二口の涼しい目がちらりと鎌先を見やる。黙っていればかわいいと思うのにどうしてこうも一口も二口も多いのか。彼女の前髪にはかわいらしいピンが光っている。以前、茂庭さん、お揃いにしましょう! と言いながら、同じものを渡しているのを見たことがある。茂庭も嬉しそうにそれを愛用していたが、バレーをやめてからは地味なピンに戻っていた。

「本当に茂庭さんと付き合ってるんですか?」

 今度はぎろりと鋭い視線を向けてくる。二人で来たからと言ってそういう読みとり方は安直すぎるのではないだろうか。そんなことを考えながら、鎌先は首を横に振った。

「別にそういうんじゃねーよ。毎週トス上げてもらってるだけだ。就活の息抜きだよ」
「じゃあ良かったです」
「何がだよ」
「青根の奴、茂庭さんのこと好きみたいなんですよね。あいつからはっきり聞いたわけじゃないんですけど、茂庭さんと一緒にいるときのあいつ見てるとそんな感じするんです。あいつは大事な親友ですし、あいつの恋を応援してやりたいんスよ」

 ふう、とため息を吐いた二口の横顔にクソ生意気な後輩の面影はない。チームメイトを想う主将の顔だ。
 確かに二口に言ったとおり、茂庭と付き合っているわけではない。だが、青根が茂庭に対して好意を抱いていると聞くと何故かもやもやした。

「それにしても、バレー部ってどうなってるんですかね。私みたいなかわいい女の子がいるのに彼女欲しい、さや先輩も引退しちゃったから女マネ欲しい、女欲しいってうるさいんですよね。鎌先さん、どう思います?」
「そんなもん…お前が絶壁だからだろ。おっぱいはでけえ方がいいだろうが」
「はあー?! やっぱりバ鎌先さんに訊いたのが間違いでした! つうか、茂庭さんだけでいいのになんで鎌先さんも来たんスか? マジいらなかったんですけど!」
「アア? んだと、伊達の絶壁! 俺が茂庭を連れてきてやったんだろうが!」
「おっぱいの大きさで女の子を判断するのは最低だと思いまーす! 鎌先さんサイテー! セクハラ! 変態!」

 なんだかもやもやしてついつい鎌先の方から二口に突っかかる。絶壁、という言葉に反応した二口は案の定激怒して鎌先の挑発に乗ってきた。鎌先の一言に二言も三言も返してくる。そこはさすがだった。

「ちょ、ちょ、ちょいコラ! 青根!」

 いつもの鎌先と二口のケンカが始まると案の定割り込んでくるのが茂庭と青根だった。調教師よろしく、茂庭が二人を指さすと青根が割り込んできて、ずいっと引き剥がす。いつも通り、鎌先の肩、二口の頬を掴んでいた。女にその扱いはどうなのだと何回か思ったことがあるが、鎌先が茂庭に対してそうだったようにどの世代でもチームメイトの女子に対する扱いは変わらないのだろう。

「どっちが悪いんだ?」

 引き剥がされて、落ち着いた二人に茂庭が静かに訊ねる。彼女の傍らでは青根が睨みを利かせていた。小原はまたか、と言わんばかりにため息を吐いていた。

「鎌先さんが私のこと、伊達の絶壁とか言ってきたんです! ひどいですよね!」
「そりゃひどいな。鎌ち、本当か?」

 茂庭にぎろりと睨みつけられて、鎌先は無言で頷く。今日はむしゃくしゃしていたとはいえ、本当に鎌先の方が悪かった。いつもは二口の方がからかってくるから、本当に珍しいことなのだが。

「そういうの、気をつけろって前言っただろ。二口に謝れ」
「……悪かったな。気にしてること、言っちまってよ」

 ずいぶん素直に謝ってきた鎌先に衝撃を覚えているのか、二口が口をあんぐり開けたまま見上げてくる。茂庭も同様だった。さらに小原も驚いている。

「…あ、明日槍とか降るんじゃないですかね…」
「…ふ、二口、先輩にそういう言い方失礼すぎるだろ。せめて霰とか…」
「いや、お前達、どっちも失礼だろ…。せめて雨にしろよ」

 いや、お前ら三人とも失礼だろ。そんなことを考えつつ、青根を見る。青根だけは驚くこともなく動揺している三人を見つめていた。
 なんとなく居心地が悪いし、次の言葉を探すのも面倒になって、用事も済んだことだし、茂庭の手首を掴んで引っ張る。

「帰るぞ」
「お前帰るときもいきなりだな!」
「いきなり押し掛けて悪かったな。じゃあな!」
「春高予選頑張れよー!」

 茂庭の手首を掴んだまま、後輩達に手を振るとそのまま自転車置き場へと走った。後ろで後輩達がアイスおいしかったです! とかまたトス上げに来てください! などと言っているのが聞こえてきた。伊達工バレー部にとって、茂庭がどれだけ大きな存在だったか解る。彼女はやっぱり伊達工の母ちゃんだった。


 夕暮れでオレンジ色の道を二人乗りの自転車で走る。荷台に跨がって、背中にしがみついている茂庭の温もりを感じる。行きはひたすら必死だったからそんな余裕はなかったが、帰りはゆっくりと茂庭との自転車旅行を楽しんでいた。

「青根またでっかくなってたなー」
「おう。行くたびにデカくなってるカンジするぜ、あいつ」
「羨ましいよな。私もあんな大きな身体に生まれたかった…」
「お前は女だし、それでいいだろ。背ばっかり伸びてたら、二口みたいに長くなるべ」
「お前、またそんなこと言って…」

 はあ、と茂庭のため息が背中に吹きかかる。本当に茂庭は今の状態がいい。背だってちょうどいいくらいだし、女らしい身体が本当に良いと思う。

「どうした? 二口にケンカなんかふっかけちゃってさ」
「アア?」
「今まで何回もケンカしてるけど、お前からってなかったじゃん。なんか様子おかしかったし、どうしたんだ?」

 クスクス笑いながら訊ねられて、返答に困る。相変わらず茂庭は自分のことには疎いが周りの変化には目敏い。まさか、青根がお前のことが好きって聞いて、むしゃくしゃしちゃって、二口に八つ当たりしましただなんて、恥ずかしくて言えない。

「うっせーな。虫の居所が悪かったんだよ」
「やっぱりバレーか?」

 そう言って、茂庭がさらに強くしがみついてくる。その声もさっきと打って変わってどこか心細げだった。

「は?」
「春高までやりたかったよな、バレー」
「決めてただろうが、俺たちはインターハイまでだって…」
「…全部、私が言い始めたことだよ」

 確かに茂庭が言い始めたことだった。私たちはきちんと後輩に譲るための土壌を作って、少しでも早く引退して次を託そう。伊達工バレー部の未来を見据えて、彼女はそう言っていた。
 初めこそ鎌先は『はずれ』って言われたからって卑屈になってんじゃねーよ、と反発していた。女の茂庭や鉄壁にしては背の低い笹谷と違って、鎌先は体格に優れている。同学年でも随一のミドルブロッカーだったから、てっきり彼女が気後れをしているのかと思っていた。だが、それでも二口や青根とプレイを重ねるたびにひしひしと自分たちとは違うのだと感じた。特に青根との違いだ。青根は鎌先に足りないものをすべて持っていた。

――― 鎌先さん、青根の陰に隠れちゃって、ナメられてんじゃないですか?

 最後のインターハイ予選で二口には痛いところを突かれてしまった。結構気にしていることだったが、試合中だったし、彼女本人は押してくる烏野相手に気後れしている鎌先にハッパをかけるつもりで言ったのだ。いつもの短気はボールに向けられていて、プラス方向に働いてくれて良かった。しかし、彼女が言うところを間違っていれば殴っていたかもしれない。
 そもそも間違えないのが二口なのだが、茂庭のように必要なときに必要なことを言える才能が彼女にもあるのかもしれない。
 すぐ傍で輝く才能があればそれに気後れしてしまうのは仕方ない。青根も二口も悪くない。自分たちの気持ちの問題なのだ。だが、自分たちだってバレープレイヤーなのだ。ずっとコートに立ちたい気持ちはやっぱり強かった。

「バレー、続けたかったよな…」
「おう…」
「ごめんな」

 私の勝手に振り回して。ぐす、と鼻をすする音に混じって呟くのが聞こえた。今走っているのはちょうど川の土手だ。自転車を止める。後ろでひどい顔をしている茂庭を振り返った。目は真っ赤だし、今に泣きそうな顔で俯いている。

「バレー続けたかったのは俺だけじゃない。笹やんも、ベンチの奴らも、応援してる奴らもそうだ」
「……」

 インターハイ予選が終わった後、スタメンの三年だけで散々泣いた。悔しい。バレーをもっと続けたい。引退したくない。鎌先も、笹谷も、茂庭もみんなそう言って、涙と鼻水で顔をめちゃくちゃにして泣いていた。

「お前にトス上げてもらうようになって、したくてしたくてたまんねーんだよ。試合出てえ。もう一回、相手のスパイクをブロックしてえ。お前のトスでスパイク決めてえ。あー、もっとやりたかった」

 バレーに対する未練はまだまだたくさんある。春高まで続けたかったという気持ちもある。

「でも、お前だって、そう言ってたじゃねえか。悔しい、引退したくねえ、もっとバレーしたいって。今みたいなぐっちゃぐちゃの顔でよ。ずっとバレーやって、伊達工の主将でいたかったんだろ?」

 むしろ茂庭が一番泣いていたように思う。彼女は三年のセッターが抜けてから正セッターになったから、三年の中ではコートに立つことが一番少なかったはずだ。だからこそ、もっと立ちたかったのではないだろうか。悔しい気持ちも一層だったのではないだろうか。

「まだまだ未練たらたらなんだよ、俺たち。でも、ちゃんと前向こうって思ったのはさ。お前が初めに顔上げたからなんだよ」

 それでも、三人の中で茂庭は誰よりも先に顔を上げて、笑顔を作った。

――― でも、来年は……来年の『鉄壁』は絶対崩れねえよ。

 バレーをしたい欲求や青根への対抗意識はまだまだある。それでも引退して、次を彼らに譲ろうと思ったのは茂庭のその笑顔があったからだ。きちんと前を見て、就職活動を始めようとその笑顔を見て、思った。

「俺はインターハイ予選で引退したこと、一つも後悔してねえ。笹やんも絶対そう言う。だから、お前は何にも悪くねえ。あいつらのためにあいつらを母ちゃんみたいに甲斐甲斐しくきっちり指導して、きちっとした主将とエースに育てたのはお前じゃねえか」

 ぼろぼろに泣いている茂庭の頭をわしわし撫でてやれば癖毛の髪が一層乱れる。それでも彼女の涙は収まらない。だが、鎌先はハンカチだなんて上品なものは持ち合わせていない。首からかけていたタオルくらいだった。

「ほれ」
「…うん」

 タオルを差し出すと茂庭は顔を拭う。タオルに顔を押しつけたまま、茂庭はしばらく嗚咽を漏らしていたがやがて収まったのか顔を拭いてから上げる。
 まだ笑顔ではないが、すっきりしたのか心持ち晴れやかだった。

「……ありがと、洗濯して返す…」
「おう」

 夕暮れの川にオレンジ色の空が映っていてきれいだが、徐々に肌寒くなってきた。茂庭はパーカーを着ているが、鎌先は半袖シャツのままである。当然の結果だ。さっさと帰ろうと言って、鎌先は地面を蹴って、自転車を走らせた。

「ありがとう、鎌ち」

 しばらく二人とも無言で走っていると茂庭がそう呟いた。引き続き自転車を走らせている鎌先はこくりと頷くだけで応えた。茂庭の家がある住宅街に入って、すっかり覚えてしまった筋を曲がる。

「鎌ちのそういうところ、好きだよ」

 好き。そう続けられて、茂庭はまたしがみつく力を強くした。その声に、声がはらむ色気に不覚にもドキドキしてしまった。自転車が大きく曲がりそうになるが何とかブレーキを駆使して、それを留める。

「ど、どうした鎌ち」
「うっせー! 苦しくなるくらいしがみついてんじゃねえ!」
「へへ、ごめん」

 背後の茂庭が笑っているのが聞こえて、心の底からほっとする。今度、笹谷にもこの話をして、三人で笑って共有しようと考えつつ、最後の角を曲がった。もうすぐ茂庭の家だった。

(140909)
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