「この一件、これにて閉幕とする。家老共々持ち場へ戻ってくれぬか?儂はもう少しこの者と話がしたいでな」
あれほどに殺気立っていた家老達の雰囲気が瞬時にして緩和した。
良かった良かった、お前の声は大き過ぎやしないか、わっはっはっは、と肩を叩き合う展開についていけない。
互いに労う男達の中から一人、私に向かって歩み来た人物は先程“鋸引き”と発言した男だった。
消えかけた緊張が舞い戻り嫌な汗が所かしこから噴き出す。近付けばはっきり見える。この人の肌という肌に刀傷が埋め尽くされていた。
私の前に方膝を付いてしゃがむ。男が気まずい表情をしたのは私があからさまに身体を竦ませたせいだろうか。
「娘…すまなんだ。信玄公の申し付けだとしても言動が過ぎておった、此処に詫びる」
「へ、」
「おお、虎胤殿!」
虎胤と呼ばれた男は私に謝罪をして頭を下げた。
身なりの良くないぼろぼろの小娘にこの集まった重臣の中でも、一の猛将だろうと窺える立派な人が丁寧な詫びを入れた事に対し、幸村さんは感銘を受けていた。
「幸村様の見定め間違うてはおりませぬ。信玄公も恐らく同じ様に感じ取られていたことでしょう」
ちらりとおやかたさまに目を向けた虎胤さんの視線に、私と幸村さんも目を追った。
それに気付いた武田信玄は、してやったりとニヤつく顔を隠す事なく向き返す。
「虎胤殿、申し訳御座らぬが、某には何が何だか見当もつきませぬ。一体……」
「それにつきましては後ほど信玄公よりお話されるでしょう、では私はこれにて」
失礼する。と立ち上がり私に向けて武運を、と告げて部屋を出た。
おやかたさまと幸村さんに一礼して鴨居を潜る袴姿の集団の背を見送った後、あれだけの人数に犇めき合っていた室内ががらりと物寂しくなった。
ポツリと残された私たち。開いた口が塞がらない兵士さん。
さーてと、と怠そうに腰を上げる迷彩赤毛。
ゴホンと咳ばらいをした武田信玄に、はっと意識を戻し私達は慌てて姿勢を正した。赤毛の男が速やかに幸村さんの後方へ控えたのを目した甲斐の虎は私を隅々見遣る。
全てをも見透かす眼力は私の頭の上から下へと移り、僅かな動きも呼吸の回数も見逃さないよう確りと調べ改めた。
息苦しい威圧感に自然と眉根が寄り唇を真一文字に作った。次は何を言われるのか次に何をされるのか、まだ気を緩める事は許されないのか……
「よう、耐えたのう」
その一言が……
その一言で。必死に隠して押さえ込んでいたのに。
私の中心の静かな水面にじわりと浸透し、次に次にと小さな波紋を作っていく。
小さくても増殖する波紋を止める事は誰にも出来なくて、それは大きな波紋となって私の胸を強く打ち鳴らし続けた。
ボロボロと、大粒の涙が溢れ出す。
身につける借りた着物の袖では拭えなくて、手に巻かれた包帯が代わりに受け止める。
しゃくりあげる体もコントロールが利かなくて、みっともない姿は見せるものかと意気込んだ私の意地は何処へ行ったのか。
こんな甘ったれた私を呆れ見ているだろう彼等に、ごめんなさい、ごめんなさいと謝った。
「本によう耐えたの名前よ。大の男でも音を上げる仕打ちに、よう耐えた」
私を労う言葉、私を包む掛け声、私を許す声色。
武田信玄の紡ぐ声は、擦り減った私の心をも癒してくれる不思議な力を持つ声だった。
そんなことは無いと答えなければ失礼、でも口を開けば泣き喚いてしまいそうで。そうなったらちょっとやそっとでは止まらなくなるから、口許を手で押さえ付けて頭を振って私の意を伝えるしか無かった。
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