あともう少しで楽になれる、と微かに希望を持ったであろう羽虫を踏み潰す。苛々する、空に語ってみたのにちっとも楽にならない。
予想通り、あの言葉も嘘だった。
「無様、ね」
此処から出られなくてどれくらい経つのか、周りを飛び交う羽虫が記憶を食ったかのように穴だらけで、自分の名前すら良く分からない。余計苛々して、垂れ下がった髪を撫でた。そこで私は、髪を撫でる事を意識しないでやっていると潔く気づく。
二つの編んだ髪束は明るい茶を染み付けてちっともほどけそうにない。
「私は…何なの」
凍る静寂が唸りをあげて私を飲み込んでいく。夕闇の空、何時までたっても変わらない色が刺さる。
なんて矛盾した世界なの。
……矛盾?この言葉、何処かで…
「―ッ!」
羽虫が消えた。
静寂も消えた。
何かが落ちてくる、それは白いレースがあしらわれた、どこかで見たことのある日傘。
「あ…私、の…」
どうして私のものだと分かるのか、羽虫に食われた筈の私が霧の向こう側に見えたような。私の記憶にいない、何もかもが濁った私が、反対側で私を見ている。
言いようもない恐怖、後退りした足は突然宙に放り出されて。
(落ちる、…!)
夢中で叫んだ。
「助けて!」
私が私を見下ろして、違う私はいつの間にか私になっていて、私は違う私になっていた。私は笑って私を見た。聞こえない言葉のかたちを口がつくった時、私は全てを思い出した。
「いやああああああーーッ!!」
落ちながら、叫ぶ。叫ばずにはいられない。私はもう死んだ美柳ちなみで、私はもう此処から出られない。
だれも騙せられない。
…もう、彼も愛せない。
(リュウちゃん…ッ!)
どうしてあんな役立たずを、と崖に居る私は私を再度笑う。せせら笑うような感情が容赦なく私を落としていく。
『私はアナタがキライだった』
私が本当の中身で、彼女は私を守る殻だった。狂言誘拐さえも殻が勝手に行なった事だ。勿論、数々の犯行も。
押し隠して押し隠して、死んだ後それを後悔するなんてどうかしている。
「私は私で居たかっただけなの」
に、
「…お姉さま?」
雨の打ち付ける窓の外は水滴で歪み良く見えないけれど、私は懐かしい恐怖で外を見た。生き物のように揺れる水の筋が鬱陶しくて、思い切って窓を開く。途端に、吹き付ける雨が私を裂くように通りすぎて。
(リュウちゃん…助けて…!)
思わず息を飲んだ。
自分と同じ声―しかし、少し闇を潜めたそれは姉、の声だった。
濡れ続く装束もそのままで、私は窓の外に釘付けになっていた。広がるのは濡れた道路と傘を持った小走りの人々だけなのだけど。
「お姉、さま…」
そこに、姉がいると思ったから。
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