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■透明な媚薬 3

つないだ手の感触が、いつまでも残って離れなかった。


会おうと約束してから、三日月さんからの連絡はなかった。
所謂「いい感じ」なのだとしたら、もっとこう……ラインのやりとりなんかをしたりするんだと思っていたから、そのことは少しショックでもあった。

だけど、約束の日。
現れた私服姿の彼女の新鮮さやはにかみがちな笑顔に、すぐにそんな気分は忘れてしまった。

スーツ姿の時はいかにもキャリアウーマン然としていたけれど、私服だと印象が違う。
カジュアルだけど大人っぽい、きっと流行の最先端なんだろうと感じさせる垢抜けた服装。明るい色遣いの衣服に身を包んだ様子は話好きな彼女を一層魅力的に見せていた。

「もう9月なのにね。」

「うん、まだ暑い。」
日中の公園は日差しに照らされて、歩き出すとじんわりと汗が滲む。

「でも、日陰だと涼しい。やっぱり秋が近いんだね。」
すぐ隣から見上げる瞳。
長い睫毛が縁取る視線に、ドキリと心臓が跳ねた。

暑い最中に公園なんて失敗したかもと思ったけど、三日月さんは気にする様子もなくて、

「フードイベントって行ったことなくて。でも、フェイスブックとかでよく見るでしょ、興味あったんだ。」
そう言って笑うのが嬉しい。

「本当?ならよかった!」

「ビールも楽しみだしね。」
弾む会話が心地良くて、「合ってる」なんて言った大地の言葉が脳裏に浮かぶ。

会うのはまだ2回目だけど、三日月さんと一緒にいるのは居心地がいい。
波長があっているのか、それとも彼女が俺に合わせるのが上手いだけなのか、そんな風に考えて行ったり来たり───それを、恋愛の初期症状だとは自覚していた。

(なんか俺、結構単純だな。)
フラれた時は落ち込んだし、自分だけが必死で追いかけていた恋だったのだと自信もなくした。
そんな俺の前に現れた三日月さんのいかにも高嶺の花な雰囲気に、ちょっと萎縮してしまったり。

そのくせしてこうやって、あっさり恋に落ちようとしている自分が可笑しくもあり───だけど、楽しい。
それが、一番の本音だ。


「えっと。」

「どうする?」

「迷うけど、やっぱり現地のビールかな。」
よく飲むし、よく喋る、よく笑う。
気取って見えた最初の印象が嘘みたいにコロコロと表情を変える。

「俺も、同じの。」
お酒が好きな女の子というのも俺には新鮮だった。
それまで付き合っていた彼女はたまに飲んでも所謂甘いお酒だったし、飲み行くためのデートってしたことがない。

三日月さんとなら、例えばビールを飲みながら花火とか、お酒を目当てにした旅行なんかも楽しそうだな。
そう思って───

(ホント、俺って……。)
花火の季節はまだ1年も先、旅行なんてまだ付き合ってもないのに気が早い。
自分の浮かれ具合を自覚して、急に恥ずかしくなった。


「どうしたの?」

「え、あ……っと。いや、なんていうか!」

「うん?」
言葉に詰まって、だけど続きを待つように送られた視線に、

(あ、この顔……俺、すげー好きだ。)
そう思った。
優しく細められた目元は明るい笑顔と同じくらい魅力的で、甘えてみたくなってしまう。
そんな表情だった。


「や、ビールうまいし!」

「うん、美味しい。」
その言葉を言う時は、ほんのちょっとアクセルを踏み込む気分だ。

「それに、すっげー楽しい。」
楽しい。
君と一緒にいるの、楽しいよって。
伝えたくて、照れくさくて、少しだけ視線を逸らせて告げた言葉。

「………。」

「え、」
その瞬間、戸惑うように顔が伏せられるのを視線の端に気が付いて、思わず心臓が縮んだ。

だけど、

「私も。」
ハの字に眉を寄せて笑った顔が上を向いて、俺を見た。
困ったような照れくさそうな、はにかみ笑顔。
それがすごく───嬉しかった。


手をつないだのは、そのすぐ後。
その日2杯目のビールを二人して片付けて、それから彼女の手を取って歩いた。

「次、あっち行ってみよ。」
彼女はそれを指摘することも、振り払うこともしなかった。
アルコールで火照った、少し汗ばんだ手の平。
握りあって人混みを歩けば、後はもう───一本道だ。

好きになる、それ以外の選択肢なんて考えられない。
そう感じていた。


「まだ食べられそう?」

「う──ん、さすがにお腹いっぱいかも。ちょっと休憩。」

「結構歩いたもんな、ちょっと休もうか。」
繋いだ手を引き寄せる。
俯いて、「うん」と小さく応えた彼女の頬は、アルコールのせいか薄く染まっていた。

なんていうか、すごく初々しい反応にドギマギしてしまう。
彼女は綺麗だし、俺と大地と同い年だから、勿論今までに彼氏だっていたはずだ。
だけど、まるで慣れてないみたいなそんな仕草が新鮮で、可愛らしくて、それにとても煽られる。

高層ビルのバーによく馴染んでいた彼女とはまるで別人みたいだ。
どっちが本当の彼女なんだろう?
そう思うほどに惹きつけられて、捕らわれて、逃げられなくなる。
だけど、それは───ふわふわと落ちていくような、心地よさ。


今日は家まで送って、それで次の約束をしよう。
ラインだって俺から積極的に送って、次のデートで「付き合おう」って言うんだ。

1日が終わる頃には、俺の気持ちはすっかりそう決まっていて、本当に───浮き足立つような、明日が楽しみで仕方ないみたいなそんな気分だった。



それなのに、

「あの、ね。」

「ん、どした?」
ずっと繋いだままだった手が、するりと俺の手の平を滑り落ちた時───そこにあった眼差し。
キラキラと眩しい照れくさそうな眼差しじゃなくて、明らかな戸惑いを含んだソレに、思わず息を呑んだ。

「今日、本当にありがとう。」
ありがとうって彼女は言った。
だけど、俺が期待していた声とは全然違っていた。

「え、あ。ううん!俺も楽しかったし、おあいこだべ?」
どうしようと俺も戸惑って、公園から駅へ続く道で足を止めた。

「あの、」

「うん?」

「えっと……。」

「………。」
言いよどむ彼女の顔がどんどん俯いて、それから無言になった。

「どした?言いにくいことなら別に言わなくていいって!」
沈黙が気まずくて、そう声をかけたのはどれくらい後だったか。

「あ……。」
顔を上げた三日月さんの瞳が俺を見た。
縋るようなその眼差しに───抱き締めたい、思わず胸が震える。

「でも、言わなきゃ。多分……。」
小さな声だった。

「もしかして、また誘ってくれるかなって思って……だったら、ちゃんと言わなきゃって思って。」
小さくて、悲しそうな声だった。

だけど、その小さな声で彼女ははっきりと言った。

「私、ね。一度……その、一度結婚したことがあって、その、今はしてないんだけど。」

「え?」


そんな告白を誰かから受けたことは初めてだったから。
───そんなのは、言い訳だってわかってる。

だけど、何も言えなかった。
予想もしてなかった言葉に、俺は言葉を探すことも忘れて彼女をただポカンと見つめた。


「ごめん、なさい。」
謝ることじゃない。
だって、謝る理由なんてない。
後になって考えてみれば当たり前だと思えるのに、俺はやっぱり何も言えなかった。


「なんか、言いにくいっていうか、いつ言ったらいいのかわかんなくて……あの、」
そんなサイテーな俺の前で、小さかった彼女の声は……ついに消えそうなものになって、

「ごめん、ね。」
だけど、その言葉でまたボリュームを取り戻す。


「本当は、いいかなって思っちゃったんだ。」
向けられたのは笑顔で、だけどその笑顔はひどく歪んでいた。

「菅原くん優しいし、ちょっとくらいなら甘えてもいいかなって。今日だけ、楽しんじゃってもいいかなーって。」
場違いな明るさを装った彼女の声。
その悲しそうな笑顔をどうにかできるのは、きっと今は俺しかいないのに。
だけど、戸惑うだけの俺は……やっぱりサイテーな男だ。

「困らせちゃうってわかってたのに、黙ってた。バツイチとか!そんなの急に言われても困る、って、その……ごめんなさい。」
強ばった笑顔の瞳にじわりと浮かんだ涙。

「あ、俺……!」
自分のしていることの意味にようやく気が付いた俺は、だけどたった一言が言えなくて、

「えっと、その……俺、」
言いかけて、だけど喉の奥へまた逆戻りしていった言葉が───胸の奥に沈んで行く。



「今日は、ありがとうございました。本当に……ごめんなさい。」
終わらせたい、まるでそう言うみたいに彼女は俺に頭を下げて、それからくるりと背を向けた。

「あ、待って……!」
我に返って慌てる俺にも振り返ろうとせずに、彼女はまっすぐに車道に寄って手を上げる。
大通りを走るタクシーの一台が、目の前に滑り込んだ。

「待ってよ!俺……!」
呼び止めようと伸ばした手は、

「ッ!」
横顔を伝う涙に───空を切った。



「フラれるのには慣れてる」って彼女は言った。
それを、俺は知りたかったんじゃないのか?

楽しいって言ってくれた。
それが、嬉しかったんじゃないのか?

手をつないで、楽しくて、嬉しくて、それで───また会いたいって思ったんじゃないのか?
一緒にいたいって、思ったんじゃないのかよ?!


「サイテー、だ。」
何か言わなきゃいけないのに、何も言えなくて。
何もしてあげられなくて、傷つけて、泣かせてしまった───好きだと思った女の子を、俺は泣かせてしまった。


「好き、だって、ちゃんと……思った。」
好きだって思った。
付き合いたいって、一緒にいたいって、守りたいって。

楽しいだけが恋愛じゃないことくらい、わかってるはずなのに。
まるで大人になりきれていないサイテーな俺は、ただそこに立ち尽くす。



夏の暑さを残したアスファルトが視界で歪む。

握り締めた手の平。
その手の中に残った感触にひどく───ひどく胸が締め付けられた。


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