■ファースト・ビート
学生の身にある以上、避けては通れないものがいくつかある。
委員会の活動もその1つだ。
白鳥沢学園では、各人1つの委員会への加入が義務づけられている。
できるだけ部活の支障にならないものを選びたいが、生憎なことに毎年決まってクジ引きになる。
だから、「広報委員」などという学報をつくる委員会のクジを引いてしまった時、盛大に顔を顰めてしまったのは仕方のないことだった。
「20分の遅刻だ。」
思わず独りごちる。
遅刻───といっても部には委員会の活動だと伝えてあるので問題になるわけではない。
しかし、できるだけ早く練習に合流したい。
学報に関するアンケートをクラス全員分集めて届ける、それだけの作業だというのに予想外の時間がかかった。
放課後までに記入しておくように言ったはずなのにそれを忘れるものもいるし、あろうことか配ったプリントをなくす者までいたせいだ。
まったく……これが部活での出来事だったが、一度怒鳴ってやるのに。
ムカムカした気持ちを抱えたままで向かったのは、委員会の活動拠点となっている教室。
早足で廊下を進み、スライド式のドアを開けた。
「……3-2の牛島だが。」
情報処理の特別クラスで使われている教室には、ズラリとパソコンが並んでいる。
その片隅に、女子生徒が一人。
「あ、うん。お疲れさま、ソコ置いといて。」
チラリと一瞬顔を上げた後、彼女の視線はすぐにパソコンに戻る。
「ソコ」と示されたのは、既に多くのプリントが重ねられた紙の山。
「………。」
言われた通りにクラス分のプリントを重ねると、彼女は机の脇に置かれたバインダーを取り上げて「3-2」の文字の横に丸印を書き加えた。
これで俺の仕事は終わりだ。
そう思ったが、彼女はそれ以上何も言わない。
立ち去るきっかけを見失って、俺は───ただ彼女の作業を見つめた。
重ねられたプリントを捲り、その内容をパソコンに入力していく。
慣れた様子から、情報処理科の生徒だろうかとぼんやりと思った。
「あのさ、」
「あ、」
どれくらいそうしていたか、はっとなったのは彼女に声をかけられたからだった。
「何、してるの?」
顔をあげてこちらを見る女子生徒の顔、初めてはっきりとそれを見た。
「何、と言われると困るが。」
「プリントもらったし、もー行っていいよ。」
呆れたような困ったような顔をして俺を見上げる顔から、なぜだか目を逸らすことができない。
「部活でしょ。」
「………。」
その通りだ、俺はこれから部活に行かなければならない。
───ならない?いや、早く練習に合流したいと思っていたはずなのに、おかしなことだ。
「ねぇ、」
何も応えないでいると、苛立ちを含んだ声。
「……手伝わなくていいのか?」
気が付けば、そう尋ねていた。
自分でもおかしなことだと思うのに、足がその場を立ち去ることを良しとしない。
「え、」
「?」
パチリと音がするかというくらい、大きく開かれた目が瞬いた。
それから、視界にある顔が笑顔になる。
「ありがと。」
その瞬間、胸を拳で殴られたような衝撃があった。
(な、んだ……??)
驚いて胸の辺りをさするが、特段の変化もない。
気のせいだろうか、それとも何か体調が?
だとしたら部活に支障が出るなと思案を巡らせる。
「ありがとう。でも、大丈夫。後はやっておくから、牛島くんは部活行って。」
その考えも、彼女の笑顔に消し飛んだ。
胸が───動悸に昂ぶっていく。
彼女の顔から、目が離せなくなった。
どうしてそんなことを言ったのかと聞かれても、俺には上手く説明することができない。
気が付けば、そう気が付いたら勝手に口がそう言ってしまっていたのだ。
「俺も、手伝おう。」
「え、いいよ。大丈夫だって!」
「俺も同じ委員だ。」
「だけど、部活……。」
「それで、俺は何をしたらいい?」
結局、押し切った。
俺がプリントを読み上げて、彼女がそれをパソコンに入力する。
そうやって作業を進めることになった。
「1、 文化祭。2、クラス紹介を写真付きでする。3、1・4・5。」
アンケートの回答を読み上げる声とキーボードを叩く音だけが響く時間。
それが、しばらくの間続いていた。
そして、
「ねぇ、もう部活行った方がいいんじゃない?」
言われて時計を見る。
気が付けば、1時間近くそうしていた。
「……だが、」
さすがに、これ以上の遅刻はマズイ。
だが、この場を離れがたいのもまた事実で───、
「じゃあ、また明日。30分だけ付き合って。」
自然眉間に皺を寄せた俺に、彼女はそう言って笑った。
明日、また会える。
ここで、30分一緒にいられる。
その事実に、こんなにも胸が高鳴るのはなぜか。
「でも、優しいんだね。なんか意外。」
見上げる視線に焦らされて、結局答えは出せないままだ。
「そ、んなことは……ないだろう。」
「そう?プリント出しに来ただけで、だーれも手伝ってくれなかったのに。牛島くんだけだよ、あーやって言ってくれたの。」
だとしたら、俺は他の委員たちの怠け心に感謝しなければならないだろう。
二人きりでこうして作業をすることが───
(二人、きりで……?)
その感情を自覚したのは、まさにその時だった。
まさか、そんな。
たった1時間、一緒にいただけで?
ほんの少しの会話をしただけで?
名前さえ知らない相手だというのに───
「……名前を聞いてもいいか。」
「え?」
そこで気が付いた。
俺は、彼女の名前さえ知らない。
「あはは。」
「何がおかしい。」
「うん、知らないよね。そりゃそーか!だけど、なんかウケる。」
可笑しそうに笑う彼女になんとなくバカにされたような気もしたが、決して嫌な気分ではない。
「同じ学年、クラスは3-5。ちなみに、この委員会の委員長なんだけどなー、クジ引きで決まって。」
最初の委員会の日、代表決めもやはりクジ引きで、その時選ばれたのが確か進学クラスの3年だったと思い出した。
受験組なのに容赦のないクジ引きだとその時は思った程度だったが、
「……すまない、そうだったのか。」
今はロクに覚えていなかった自分が悔やまれる。
「別にいいよ。てか、牛島くんて見たまんまなんだね。」
覚えていなかったことなど気にしない様子で彼女は言って、プリントの束をまとめて袋に入れると、パソコンの電源を切った。
「どういう意味だ。」
「そういう意味。」
「?」
アハハと彼女がまた笑う。
それから、笑顔のままで言った。
「バレーしか関心ない、って。そんな感じ。」
───チクリ、と胸の奥を摘まれたような気分になる。
ささくれだった感情が沸き上がる。
だけど、何故?
(バレー、以外のこと……。)
学校では授業も受けるし、掃除もする、こうして委員会だってやっている。
体力作りのためにバレー以外の運動も欠かさないし、食事だってバランスの取れたものを───そこまで考えて、気が付いた。
確かに、俺は……バレー以外のことに関心が薄い。
何事もバレーが中心で、学校生活も部活が主軸だった。
現に、この委員会のことも「部活に遅れる」としか考えていなかった。
だけど、
「違う」と言いたいと思った。
図星なはずなのに、それでも「違う」と主張したかった。
その理由なら、もうわかっている。
「俺だって、バレー以外のことに関心を持つこともある。」
今知りたいと思っていることは、バレーにはまったく関係のない事柄だ。
それどころか、支障にだってなり得るかもしれない。
少なくとも───明日の部活も30分の遅刻は決定だ。
それでも、知りたいと思う。
一緒にいたい、もっと知りたい、確かにそう思った。
「忘れてしまってすまなかった。もう一度、名前を教えてほしい。」
その名前を聞いてしまえば、この感情はもっと強くなる。
沸き上がる想いや溢れ出す感情に、また心が掻き乱される。
それでも───構わない。
「三日月、三日月ゆい。」
それが、彼女の名前。
これからずっと、俺の心の中に居座ることになる名前だった。
「あ、ねぇ!部活!」
言われて、今度こそさすがに慌てた。
部活の開始時間からもう2時間近くが過ぎてしまっている。
「すまない、その……明日!」
「うん、明日もココでね。」
手を振る彼女に背を向けて───それから、廊下を走って体育館へと向かった。
30分程度と伝えてあったはずが結局2時間近くの遅刻。
稀なこととはいえ許されることはなく、ペナルティで走り込みをさせられた。
意外そうな目でそれを見る部員たちの視線さえ、しかし今は心地良い。
コーチに怒られることだって、たまには悪くない。
明日も遅れると伝えた時のコーチの顔を想像して、なぜだか頬が緩んだ。
それは、始まりの日の出来事。
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