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■黒猫dance 4

夢の中で───波の音を聞いていた。
微睡む意識が海に攫われていくようで心地いい。

いいな、こんな街。
生まれ育った海のない街とも、今私が暮らす大都会とも違う柔らかな音。
生きている、ここにいる時が一番……それを実感する。


「ん……。」
薄明かりの中で目蓋を上げた。
カーテンの隙間に白み始めた空の色が移る。

「……ヘンな格好。」
半身を起こして見れば、横で眠る男の姿。
俯せで頭を枕で挟んだおかしな寝相を見るのも、もう幾度目か。
思わず笑って、それからまた───夏用の薄い布団に潜り込む。

シャ・ノワール。
黒猫のレストラン、そのオーナーの男。
黒尾鉄朗について、私はそれしか知らない。


「お、起きたのか。」
二度寝した私よりも一足早くベッドを抜け出したらしい黒尾が、階下のキッチンで振り返る。
サンマの焼けるにおい、相変わらずフレンチレストランにはひどく不似合いだ。

「もー夏だからな、忙しくなるぞ。」
当たり前のように手伝いを要求してくる黒尾に、私は欠伸で応えた。

「コラー、やる気だせー。」

「てか、バイトでも雇えば。」
焼けたサンマの乗ったお皿と白いゴハン、お味噌汁を並べる黒尾にそう言えば、

「バイトかー、まぁそれもいいかもな。」
考えているのかどうなのか、どちらとも取れない表情で黒尾が頷く。

最初からおかしな関係だった。
暇を持て余すレストランのオーナーと気まぐれな客、多分始まりはその程度だ。
けれど、今は───少し違う。

週末に湘南まで車を走らせるのは今は習慣になっているし、買い出しに付き合っているうちに地理にも詳しくなった。
同じだけ、馴染んだ肌。
いつの間にか、黒尾は私の心に住み着いてしまっている。
そう、まるで……いつの間にか庭に居着いてしまったネコのように。


僅かだけれど変化が訪れたのは、その翌週のことだった。
いつものように土曜の昼過ぎに店を尋ねると、見慣れない後ろ姿があった。
エプロンをかけてテーブルを拭く、金色の髪。

「お、ゆい。今日も重役出勤だな!」
別に出勤しているつもりはないのだが、黒尾の中では私は従業員として数えられてしまっているらしい。

「えーと。」
根元だけ黒くなりかけた金色に視線をやる。

「おお、バイトな。バイト入れたんだよ。」
「おまえに言われたからな」と胸を張る彼に首を傾げれば、

「ちょっと、クロ。俺、バイトするなんて言ってない。」
振り返った金色の髪。
大きな猫目が、私と黒尾を交互に見た。

「んなこと言うなよ。」

「ていうか会社、副業禁止だし。」

「あー、私のトコも禁止だ。その前に給料もらってないじゃん、労働局に言わなきゃ。」

「なッ……ゆい!研磨も!いーだろ、細かいことは!」
研磨、と呼ばれた彼が「はぁ」とため息をついて、けれどそのままテーブルを拭き終えると、隣のテーブルに置かれたグラスを片付け始めた。


「コレ、研磨な。藤沢の研究所で働いてる。」
幼なじみなんだと黒尾が教えてくれた。

「初めまして。」
年齢不詳、これは黒尾と一緒だ。
すごく若いような気もするけど、「研究所で働いてる」って言ったから22は超えてるんだろう。
院卒なら24以上───って、そういえば私、黒尾の年齢も知らないな。

「で、コッチがゆい。俺の彼女だ。いーだろ、研磨!」
フフンと鼻を鳴らす黒尾を一瞥してから、研磨くんはペコリと頭を下げた。


それから、3人で遅い昼食を取った。
手土産にと持参したバームクーヘンを切り分けて紅茶を淹れる。

「甘いもの、大丈夫?」

「嫌いじゃない。一番は、アップルパイだけど。」
なかなか視線が合わないけれど、研磨くんて意外と素直だ。
ふてぶてしい黒猫に慣れてしまったせいか、逆に可愛く感じる。

「あ、そうなんだ。じゃあさ、今度富士屋のヤツ買ってくるよ。コレドに入ってるんだよね、ってここの方が箱根は近いけど。」

「……近くてもいかないし。」

「うん、じゃあ買ってくるね。」
ホラね、なんかこんな感じで会話も成立してるし、悪くない感じ。


彼も泊まっていくのだろうかと思ったけれど、バスで帰るのだと言う。
送ると言いたかったけど、生憎お酒を飲んでしまった。
だから、翌日はきっと藤沢まで送ろうと決めていた。

日曜日、明け方に目が覚めて、それから───空の白む中でその晩二度目のセックスをした。
こんな風に求められたのは、初めてだった。
私を抱くのは、いつも夜。
二人してワインを1本か2本は空けた後が普通だったから、不思議な感じがする。


「あ、ン……。」

「ゆい、コッチ……触って。」
起き抜けに抱き合うなんて、まるで本当に恋人同士のよう。
いや、事実「恋人」ではあるのだけれど、黒尾との関係は私のそれまでの恋愛とは随分と違っていたから、なんだかおかしな気分になる。

ほっとしたようなフワフワと優しい気持ち───私、彼に恋をしている。
そう自覚する瞬間だった。

自分の気持ちに気付いたことが、良かったのか悪かったのか、その結論がでるのはとりあえずまだ先になる。
けれど、この晩の出来事が、曖昧だった関係に意味を与えてしまったことは確かだった。


「ずっとココに住んでるの?」
彼のことを、知りたいと思ってしまった。

「んあ?」
日曜日のランチタイムが過ぎて、黒尾は私たちの昼食の準備を始めたところだった。
カウンターに頬付けをついて尋ねれば、黒い頭が振り返る。

「まぁ、ずっとってほどじゃねぇな。」

「まだ半年じゃん。」

「半年じゃねぇ!10月の終わりからだから、もう9ヵ月だ。」

「似たようなもんだよ。」
私が起き出す頃にバスでやってきた研磨くんも、カウンターに腰掛けている。


「え、そうなんだ。知らなかった!」
9ヵ月!半年じゃないにしてもごく最近だ。
人の入りがイマイチで経営はどうなっているのかと思ったけど、実は開店したなかりだったのかと、今になって知った。

「まーな、だから夏の湘南は初めてだ。忙しくなるぞ!」

「どうかなぁ。」
手にしたスマホに目を向けたままで言った研磨くんとは、私も同意見。

「食べログに載せるとかさ、ブログ書くとかした方がいいんじゃない?ただでさえ鉄朗って胡散臭いんだし、何か考えたら。」
冗談半分でそう言って笑えば、

「胡散臭いってなんだよ!」
と彼は鼻息を荒くした。

「そうだよ。こんな店、ポンと買っちゃってさ、老後の道楽じゃないんだから。」

「お、研磨から老後とか!」
ワハハと黒尾が笑うけれど、それよりも驚いたのは研磨くんの発言だ。

「ポンと、買った?」
湘南の一軒家、そりゃあ結構年数はいってそうだけど、場所もいいしそれなりの値段じゃないかと思う。
不動産は詳しくないけど、3,000万?ううん、5,000万くらいはするかも?

「まーいいじゃねぇか、細かいことは!」
毎度のようにそう言って、黒尾は話を閉じた。

「ほれ、できたぞー!ナポリタン!」
トン、と小気味の良い音を立てて並べられた馴染みの料理。
甘いトマトソースの香りが食欲をそそった。


その日の夕方、私は昨日の考えに従って研磨くんを藤沢まで送った。

「研磨が素直なんて珍しーな。」
と黒尾は言ったけど、研磨くんは否定も肯定もなしで助手席に乗り込んだ。

「音楽、聞く?」

「いらない。」

「ゲーム、しててもいいよ。」

「……酔うからいい。」

「そっか。」
ぶっきらぼうだけど、なぜかそれが嫌いじゃない。
研磨くんもネコみたい、つれなくっても可愛いと思えてしまうのだからやっぱり不思議だ。


「クロのこと、聞かないの?」

「え?」
ハンドルを握りながら、横目で研磨くんを見る。
夏の日はまだ高い、夕暮れが少し眩しかった。

「クロのこと、あんまり知らないみたいだったから。」
そう言われると、苦笑するしかない。
実際、その通りなのだ。
彼がどこの誰で、何歳で、どういう素性の人なのか───私は、あまり情報を持っていない。

「ヘンだよね、彼女―とか言ってるのに。」
つい、誤魔化すように笑った。
だけど、

「別に……知りたがる女よりいいと思う。」
研磨くんはそう言って、また私を見た。

少し、沈黙があった。
知りたいような気もしたし、だけど今更知りたいなどと思うのもおかしな気がした。

「あ、でも。聞いとかないとマズイ系だったら知りたいかも。ホラ、犯罪?とか?」
一応ね、とそう言いながらアクセルを踏む。
車は、幹線道路に差し掛かっていた。

「そういうのはないけど、」
と研磨くんは言って、

「あの店を買う前は、シンガポールに住むかもとか言ってた。」

「へぇ……。」
シンガポール、その言葉だけでおおよその見当がついてしまう。
職業病だろうか。
───そういえば、黒尾もまた、私の職業を知らない。



正直に言えば、この時既に悪い予感はあったのだ。
私は、この種のにおいに敏感になりすぎている。

それなのに、結局───
翌週もまた、私は黒尾の店へと車を走らせた。
予感を感じていたクセに、それを見ないフリをした。
アップルパイを買って、研磨くんが喜んでくれるといいななんて呑気な自分を許した。


それが、いけなかったのかもしれない。
リスクとリターンと、嫌いはなずの仕事でなら上手くコントロールできるのに、プライベートではそれが上手くいかないのだから嫌になる。

「おはよ──って、朝じゃないけど。」
カラン、と既に耳に馴染んだベルの音。
だけど、視界に広がったのは……見慣れない景色だった。

カウンター前の背の高い椅子に腰掛けた濃いピンク色のチューブトップ。
短いワンピースの裾から手入れの行き届いた足が伸びている。
多分11センチのピンヒールは、私には暫く縁遠くなっていたものだった。


「ねぇ!お客さんだよォ。」
甘えた声に、頭の奥がズキズキと痛み出す。

「わぁってるよ、ったく少しは手伝うとかなんとか……。」
カウンター奥のキッチンから顔を出した彼の姿に、胸の内がすぅっと冷たくなっていくのを感じた。


愛など、幻だ。
恋なんて、一時の勘違い。

「……ゆい。」
驚いた彼の顔。
私がここに来ることなんてわかっていたはずなのに───そう思ったら、なんだか笑えた。
馬鹿な男。
いや、男はみんな馬鹿なのだ、きっと。

そんな馬鹿な生き物を愛せない私は、これからもずっと孤独で、それを許容したはずなのに……また、こうして傷ついている。

「アップルパイ、研磨くんにね。」
差しだしたそれを手に取る黒尾の前で踵を返す。
はき慣れたトリーバーチのローヒールが、キュッと床を軋ませた。


「じゃあ、ね。」

白けた気持ちが半分。
もう半分の───悲しみは海へと放ってしまおう。

そうして虚しさだけを抱えて、またあの街に帰るのだ。
仕事も恋も、忘れたいすべてがあるのに、けれど離れることのできない東京に。


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