□とるに足らないあまたのこと 6
「え、何これ。すごいんだけど。」
フランスパンを一口かじった後で、倫太郎は細い目をめいっぱい見開いてみせた。
「すごい美味しい。」
大人っぽいと思うことも多いけど、こういう時の倫太郎はすごく素直で年相応な普通の男の子だなと感じる。
「なんか俺、すごい贅沢になっちゃったかも。もうゆいから離れられないよ。」
「パンくらいで大げさだよ。」
「だって本当だもん。」
嬉しいなと思う気持ちに嘘はない。
だけど、「じゃあ離れないで」と言えない私はやっぱりあまのじゃくなのかもしれない。
年の差恋愛なんて今どき珍しくない。
いっそ楽しんじゃえばいい。
そう思う自分だっているのに──心はいつも曖昧に揺れる。
「ゆいって料理もうまいしさ。やっぱ俺、すごい贅沢だよ。」
ひき肉の上にマッシュポテトを敷いてオーブンで焼く。
レシピサイト通りのメニューも倫太郎はいつだって褒めてくれて、美味しそうに食べる。
「部活にさ、食べることが何より好きってヤツいるんだけど。」
取り分けたマッシュポテトを口に運びながら倫太郎が言う。
「コンビニのパンでもカップラーメンでもなんでもうまいっていつも言っててさ、」
いわゆる体育会系というやつらしく、勉強よりも部活が中心の生活をしている倫太郎はチームメイトの話をよくする。
「だけど俺、そうだねってもう思えないもん。ゆいのせいだよ。」
指を絡めて頬を寄せられると、ひき肉とソースのにおい。
「ここに住みたいくらい。」
甘える仕草が可愛くて、私も笑った。
「毎日作ってるわけじゃないよ。」
「じゃあ、俺が来る時が特別だ。」
「そういうことかな。」
目が合って、互いに笑って、
「やった。いいね、そういうの。」
まるで恋人同士。
ううん、「まるで」なんかじゃなくて「恋人同士」なんだけど。
金曜の夜に倫太郎が訪ねてくることはもう決まりごとのようになっていて、一週間の予定の中に自然に組み入れられている。
月曜日の憂鬱と同じくらい──浮き足だった金曜日はもう私の定番で、
「ねえ、明日。」
「映画でしょ。」
二人で夜を過した後で、倫太郎の部活が休みの時には土曜日に出かけるのもいつものことになりつつある。
「あ、お金。」
「いいよ、もうネットで予約してあるし。」
「けど、」
素直になれない自分と、
「いいの、彼氏なんだから払わせて。」
「う、ん……。」
素直になりたい自分。
行ったり来たりの気持ちをもて余すけれど、あたたかな視線に見つめられると──手放せない、この場所を。
だってもう、居心地がいい。
甘えてるだけなのか、ほんの遊びが、それとも……。
なんて、自分の気持ちさえよくわからない。
だから、
「ねえ、明日も泊まっていい?」
触れる口唇を受け入れながら、彼の心の在処を探す。
愛してる?愛されてる?
本当に?
ほんの気まぐれかもしれないとどこかで怯えながら、優しいキスに目蓋を閉じた。
「はあ、気持ちい……。」
節張った長い指で私の髪に触れて、また頬を寄せる仕草。
「ね、ゆいも気持ちいい?」
ちゅ、と下唇を吸い上げてから、悪戯な顔をして倫太郎が笑った。
「ん、少し……なんか飲もっか。」
食事中だというのに、もう官能を感じさせる仕草にドキリとなって目を伏せた。
「いいよ。ゆい、飲みたいんでしょ。」
だって、アルコールが必要だ。
そうすれば、少しは素直になれる。
「好きだもんね、ゆい。」
受け入れたい、流されたい、甘えてしまいたい。
彼の腕に。
「お酒飲んでエッチするの、好きでしょ。」
「どうかなあ。」
「えー。俺、知ってるけど。」
くすくすと笑う彼の首筋に鼻を埋めた。
男の子のにおい。
たぶん、若い男のにおい。
とても魅力的で、だけどいつも少しだけ後ろめたい。
それを忘れたくて、
「りん……。」
早く酔っ払って流されてしまおう、なんて。
私──ずるいのかな。
もっと笑って、もっと自然に、彼にすべてを任せてみたい。
一緒にいたいとか会いたいとか、言ってみたい。
セックスの時と同じくらい、普段だって素直になれたらいいのに。
経験とか過去とか、手を伸ばそうとするたびに邪魔をする何か。
欲しいと言われれば嬉しいくせに、彼の気持ちをいつだって推し量ろうとしてしまう。
失うことが怖い。
多分、ね。
年の差のせい、きっと。
わかってる。
だけど、手放せない。
嬉しくてあたたかくて、だけど少し怖い。
そんなバランスに揺れながら、今日も彼とキスをする。
いつか彼が消えてしまった時、私は何を思うのかな。
楽しかったって言える?
それとも傷ついたって泣くの?
不安は消えないくせに、このぬくもりを手放せずに──だって、今はまだここにいたい。
「俺も好き、ゆいとスルの。」
「こら。」
「訂正。ゆいが……好きだよ。」
「好きだよ」。
それは──強力な魔法。
だから、私はここを離れられない。
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