□とるに足らないあまたのこと 4
とにかく最悪の気分。
時間をかけて取り組んでいた仕事を取引先にキャンセルされた、先輩に小言を言われた、ミネラルウォーターを買おうとした自販機がスイカに対応してなかった、おまけに小銭もなくて千円札を入れたら全部百円玉で返ってきた。
だめ押しみたいな財布の重さがぐっと来て、さっさと家に帰りたかった。
同僚たちと飲みに行く約束を「体調が悪くて」と断った。
不義理をしてるなという自覚はあって、だけど行っても楽しめる気がしない。
この前会社もサボっちゃったし、もしかして私結構ヤバイのかな。
ああ、なんか──結構きてる気がする。
落ちてるのわかる気する。
もしかして生理前だっけ?
そういえば最近体重計も乗ってない、でもこれで太ってたらかなり死にたくなる。
身体を引きずるみたいにしてマンションへの道を歩きながら、少しだけ思い出した。
──黒髪に黒いジャケット、まだ大学生なんだと言っていた彼のこと。
突然で強引で、私の人生には存在しないはずの異分子。
だけど、あの日「お邪魔しました」なんて頭を下げて帰っていった彼になぜかほっとした。
「ありがとう」とか「お邪魔しました」とか、たぶん当たり前のこと。
それを口にする彼にほっとした。
きっと、私の生活が──「当たり前」から遠ざかってしまっていたから。
恋人はいつか心変わりするかもしれないし、取引先は信用したら負け、先輩は悪意を向けてくるのが当たり前、毎日の暮らしの中で、いつの間にかすり減ってしまっていたこころ。
自分を信じることを忘れてしまっていた私にとって、彼は──とても美しく見えた。
少しばかり尖った大学生、シニカルに笑う顔。
そんな彼を綺麗だと思った。
もう会うことはないだろうと思っていた彼が私の前に現れたのは、まさにその時。
「え、うそ。」
マンションの入り口脇の壁にもたれて座り込んだ黒い髪、あの日と同じ黒いジャケットを着た角名倫太郎は、私を見つけるとぐっと膝を伸ばして立ち上がった。
「やっと帰ってきた。」
言いながら彼が向けたのは笑顔で、
「待っちゃったよ、すごくね。」
「寒かったあ」なんてごく自然な様子で口にながら、ぽかんとなった私の背中を押した。
「早く入れて、もう凍えそう。」
「や、ちょっと。待ってよ、どういうこと?!」
「いいから早く早く。」
寒いのは事実だし、私だって早く部屋に入りたい。
だけど、なんで?なんでここにいるの?
なぜか彼に急かされるようにして部屋に入って、「暖房入れていいよね?」と尋ねる彼に頷いた。
「いいけど……。」
そこで、冷静さが戻ってきた。
「なに、忘れ物でもした?何もなかったと思うけど。」
概ね妥当な問いかけだったと思う。
だって、彼がわざわざここに来る理由なんてそれくらいしか思いつかないし、私たちが再会すべき理由はもっとない。
だけど、
「あ、ううん。そうじゃなくて、」
言いながら彼は背負っていたリュックを下ろしてごそごそと中身を探った。
「はい、これ。この前はありがとう。」
「え……。」
服と同じで真っ黒のリュックの中から取り出されたのは、可愛らしいラッピング。
お菓子かなと中身を予想しながら受け取って、ああなんだか──尖ってた気分がもう、溶けてくみたい。
「あ、りがとう。」
わざわざいいのにって思ったし、びっくりした。
だけどやっぱり──嬉しいよね。
「……可愛いな。」
「え?」
小さく聞こえたつぶやきに顔を上げる。
「なんでもない。」
彼は一度首を振って、
「やっぱりなんでもなくない。ゆいって可愛いね、すごく。」
私の目を見てそう言った。
「は、え?はあ??って、いやいやいや……!」
「何言ってんの!」とか「うわ、照れてる自分恥ずかしい」とか「からかわれてるに決まってんじゃん!」とか、絶対赤くなってるであろう顔が居たたまれなくて、逃げ出したい。
だけど、彼の手が──私の手首に触れて、それでまた目が合った。
「俺と付き合ってよ、ゆい。」
「……。」
何か言わなきゃと思って、でも言葉が出てこない。
頭の中はむしろ言葉でいっぱいで、言いたいことやら思うことやらはたくさんあるはずなのに、どうしてか一つも言葉にならなくて、
「え、なんか言ってよ。」
苦笑いして首を傾げた彼にようやく言えたのは、
「なんで……名前知ってるの。」
「そこかよっ!」
アハハと声を立てて角名倫太郎は笑った。
笑って、また笑って、それから、
「やっぱり可愛いなあ。」
切れ長なその目をすっと細めてみせた。
「テーブルにダイレクトメール置いてあったでしょ、それ見たんだよ。それで、答えはオーケーでいい?」
なんの冗談だろうってやっぱり思う。
からかわれてるに決まってるって。
私、そんなに物欲しそうな顔してた?
年下の男が家に来たからって、別にそんなの期待なんてしてないのに、もしかしてそういう顔してたのかな?
ああ、ほらまた……。
マイナスに引っ張られていく思考。
海に投げ捨てたはずの思い出が、また私を苛んで──後ろめたさばかりが強くなる。
「か、からかわないでよ。」
強がりで口にした言葉は、情けないことに震えてしまっていた。
「なんで?からかってないよ。」
「うそ。」
「嘘じゃない。」
「だって、」
「ゆいは俺が嘘つきだって言うの?」
そうやって責められる言葉を向けられると、言い返せなくなってしまう。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。」
口を噤んだ私に今度は眉を下げる彼。
──まるで恋人同士みたい。
喧嘩して、感情的になって、だけどすぐに後悔して、後はただ無くしたくなくて。
いつか誰かとしたそんなやりとりを思い出して、泣きたくなった。
泣いて、縋ってしまいたい。
目の前にいる誰かに──誰か?そう、角名倫太郎は私に向かって手を伸ばして、
「ねえ、ごめん。」
そう言って抱きしめた。
「ごめん、怒った?」
抱く腕は逞しくて、厚いジャケット越しだというのにまるで彼の体温を感じているような気分になる。
「ゆいと付き合いたい、だから嫌いにならないで。」
誰かに傍にいて欲しい、好きだと言ってもらいたい。
抱きしめて、キスして、それで一緒に眠りたい、朝が来ても一緒にいたい。
ずっとそう思っていた。
だけど出来なくて、安易な恋に流されてはいけない気がして、いつだって演じていた。
平気なフリ、強いフリ、気にしてなんていないフリ。
「ねえ、」
頬に触れた手のひら。
外の寒さなんてもう感じない、あたたかい手のひら。
「ダメ?」
じっと見つめる視線をまっすぐに見返すと、
「ッ、」
今度は口唇に熱が触れた。
少しかさついた口唇が触れた後、べろりと私の口唇を舌がなぞる。
「ゆい、俺とキスするのイヤ?」
ゆい、と名前を呼ぶ声が頭の奥にある思考を忘れさせる。
本当はまだ癒えてない傷とか卑屈さ半分の後ろめたさとか、今は忘れてしまえと思った私は──ずるい大人なのかもしれないけど。
「……イヤじゃない。」
「ほんと?」
ふっと彼が笑う気配がして、口付けが深くなる。
深く入り込んだ舌が絡み合う唾液で滑る、体温と吐息、すぐそこにある気配。
求める腕に応えるようにして、彼の背中に腕をまわした。
「ふはっ、なんか……。」
角度を変えて何度もキスを繰り返した後、顔を近づけたままで彼が笑った。
「欲情しちゃった。」
ごつんとぶつかった額に私も笑って、彼の髪を撫でれば──それが、合図になる。
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