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□とるに足らないあまたのこと 2

格好よく海に投げ捨てるはずだったプラチナのリングだけれど、結局それはできなかった。

思い切りが足りないから?逆に格好悪いから?そもそも上手に投げられる自信がないから?
理由はきっとそのどれもで、リングは未だコートのポケットにある。

フリマサイトで売ったっていい。
質屋さんとか貴金属の買い取り店とか、選択肢はいろいろある。

だけど、そうはしなかった。
「売る」なんて行為じゃ、きっと気分は晴れないって思った。
まあつまり、感傷的な理由ってヤツ。


結婚式を済ませた相手の「浮気」が発覚したのは、挙式からほんの二週間後のこと。
婚姻届を出そうと言っていたまさにその日に、彼が朝帰りをしたことですべてが明らかになった。

情けないのは、それだけじゃない。
本当は──気づいていた、彼の気持ちが私じゃない誰かに向かっていることに。

不安に思いながら、まさかと頭で打ち消して、違和感を抱えたままでウエディングドレスに袖を通した。
同僚からの拍手に応えながら、友人からの祝福の言葉を受けながら、それでも消えなかった違和感。

だったらどうしたらよかったのという疑問に対する答えを、私は未だ持っていない。
けれど、その事実は「結婚式を挙げた相手と別れる」という現実をより惨めなものにするには十分な演出だった。

浮気男が頭を下げて謝るなんていうのは、世間の幻想なんじゃないだろうかと私は思う。
一度気持ちの離れた男は冷たい。
「おまえのせいだ」と罵る彼にただ泣いて縋るしかできなくて、「話し合おうよ」と言った精一杯の言葉は「面倒くさいし意味がない」と切って捨てられた。
「私ってそんな性格だっけ」とようやく思えたのは、彼を失ってから随分と経った後だった。


もう一年なのか、まだ一年なのか。
未だにうじうじと一人で泣いているくせに、同僚や友人の前では元気なフリをしてしまうのだから厄介だ。

心配をかけたくないだけなのかただの見栄なのか、もうわからない。
だけど、友達だってそんな話いつまでも聞かされたって困るでしょう。

両親に言えば悲しむのは絶対だし、友達に鬱陶しいなんて思われたくない、会社では使えないヤツだって思われたくない。
そんな風にして笑っているうちに、もう──自分がどんな人間なのかもわからなくなって。

残ったのは、「疲れたな」ってただそれだけ。


「……なにかいいことありますように。」

出会いとか仕事とか、なんでもいい。
少しくらいはいいことがないとやっていけない!そんな気持ちで手を合わせた神社で──見つけた。

『返納、ご供養はこちら』の文字。
お守りやお札の返納はよく聞くけど、ご供養?ああ、でも針供養って聞くよね。

そこから先は深く考えなかった。
用意された封筒に指輪を入れ、ご供養と書かれた箱に納める。

お賽銭と共に、手を合わせた。
それで、終わり。

ぜんぶ置いていっていいよと、言われた気がした。
ほっとして、肩の荷が下りた気がして、何も変わってないのに少しは変わったような気分になった。

さよなら、昨日までの私。
今日からは少し元気になれるといいね。

嘘笑いじゃない笑顔に、きっとなれるといいね。


だけど、あの時の自分は、きっとまだ感傷的な気分だったんだと思う。

「彼」が私の前に現れたのは、その日の晩。
神様の思し召しなんかじゃ、絶対にない。

だって、彼の登場は──


「いっそ空腹を楽しむか。」
帰ってきたビルの谷間、地下鉄のコンコースは家路を急ぐざわめきで満ちていた。

軽くなったはずの気分が沈みかけるのをなんとかこらえようと、空想へと意識を飛ばす。
ブーツの裏の砂浜の感触、挨拶を交わした外国人観光客の笑顔、石段の向こうに見た夕日。

マンション前の大通りを行き交う車のスピードに少しばかりうんざりした。

だけど、まだ大丈夫。
おなかはすいてるけど、ビールだけ飲んで寝ちゃおう。
それで明日はしゃーないけど会社に行って、帰りはマッサージとか行っちゃおうかな、なんて。

歩行者用の信号が青に変わる。
同時に踏み出した足、すぐそこにあるマンションの部屋を見上げた。


その時、

「……ッぶな!」
腕を引かれてよろめいた身体が、どすん!と何かにぶつかる。
その目の前を、猛スピードで走り抜けていったバイク。

「前、ちゃんと見てないと危ないよ。」
ドキンドキンと激しく打つ心臓の音が、急速に意識を現実に引き戻して、

「す、みません……。」
振り返ったそこにあったのは、背の高い男の視線。

黒いマウンテンジャケットが首までをすっぽりと覆って、少し長めの前髪の下から見下ろすのは切れ長の瞳。

(でかっ。)
それが、第一印象。
だけど、あんまり威圧感はない。

「すみません、ありがとうございました。」
ぺこりと頭を下げて、もう一度彼を見た。

「いいけど、」
若いなあ、大学生くらい?それが、第二印象。

「失礼します。」
敬語くらい使えっての、年下じゃん。
それが次の印象で、それで終了のはずだった。

「あ、信号変わっちゃう。」
向き直った通りの向こうで青色がチカチカと明滅する。
走りだそうとした腕を、

「待ってよ。」

「え、ちょっと……!」
また引かれた。

「無理して渡ったら危ないよ。それに俺、話があるんだけど。」

捨てた指輪の代わりに、神様が寄越した大きな拾いもの。
ううん、神様の思し召しのはずがない。

そう、だって彼の登場は──あまりにも突然で、強引で、脈絡がなかった。

私の人生に存在するはずのない人物。
触れ合うはずのない日常を生きていたはずの彼。

彼──角名倫太郎は、突然に私の目の前に現れて、なんの遠慮もなしに私の日常へと入り込んだ。


人生初めてのズル休みの夜、こうして私たちの奇妙な関係は始まったのだ。


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