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□とるに足らないあまたのこと 1

思い出を海に捨てたあの日、拾いものをした。

部屋の中に置いておくには大きすぎる、黒いかたまり。
けれど、私はそれを再び捨てることができないでいる。

感傷?愛情?
それともただ寂しいだけ?

そんなことはわからない。
知らないしわかりたくない、今は何も考えられない。

それくらいなにもかも、私の人生は先の見えない穴ぐらの中にあった。



平日朝の下り列車。
想像したほど閑散となんてしていなくて、制服姿の学生で賑わっている。

詰め襟に半ズボンの男の子が騒ぐ横で、グレーのプリーツスカートの女子高生が熱心に参考書を眺めている。
懐かしいようでいて、すっかり忘れてしまっていた風景だった。

都心へ向かう地下鉄に荷物みたいにぎゅうぎゅうに詰め込まれて、通勤バッグを抱えて職場に向かうのが私の日常。

「ああ、会社休みたい」と思いながら毎朝目覚めて、ヨーグルトと炭酸水で無理矢理身体をたたき起こす。
オフィスに着いてしまえば、「眠い」も「疲れた」も言ってられない。
やる気のあるフリをして、明るく付き合いやすい同僚を演じながら、時計の針に身を任せる一日。

「行きたくない」と毎日思う会社生活だって、過ぎてしまえばなんてことない。
1.2時間の残業をこなして、同僚と誘い合って飲みに行く。

食べログ高評価の店の料理をインスタにアップして帰宅、「いいね」の数を数えるわけでもなくお風呂に入って眠る。
──そんな毎日の繰り返し。

世間からみたら、私はどこにでもいるサラリーマンの一人。
そこそこ小綺麗に着飾って、化粧品もアクセサリーもバッグも靴も、節約なんかが必要ない程度には自立している。

(だけど、今日は違う。)

ピンヒールを脱いで、A4サイズのバッグを放り出して、黒いスーツもネイビーのコートもクローゼットの中──それで、気がついた。

「……すっごいラク。」

会社を辞めた。
うそうそ、そんな勇気なんてないから1日だけのサボり。
「体調不良です」と電話を入れて、早起きついでに下り列車に飛び乗った。

逃避行、ほんの少しだけ。
それなのに、もう心が軽い。

私を形作るものたち、だけど私を締め付ける何か──それらから距離を置いて過す時間。

東京から1時間。
たったそれだけで景色は様変わりして、高層ビルも片側四車線の大型道路もここにはない。

二両編成の列車に乗り換えれば、気分はすっかり観光客だ。

目的の駅につく手前で、目の前に白波の浮かぶ景色が広がる。

「わ!」
思わず声を上げた私と同様、乗り合わせた乗客たちもその景色に感嘆を口にする。
高齢の団体客に外国人、大学生のカップル、車内に揃った顔は様々だ。

到着のアナウンスに席を立って、小さな駅のホームに降りる。
大勢の人が無表情で行き交う地下鉄の駅とは違う、ただ穏やかな時間がそこにあった。

自然、歩調はゆっくりになる。
鼻孔をくすぐる潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。

海岸沿いを走る道路を越えれば、波打ち際が迫る。

「いいなあ。」
答える人なんていないけど、そう呟いて空を仰ぐ。

雲の合間に覗く太陽、きらきらと朝日を受けて輝く水面。
意外に力強い波が、寄せては返して砂浜を海水で濡らす。

ざくり、と砂浜に足を踏み入れる。
ブーツのつま先が砂の色に変わるけど、気にせずに歩いた。

冬の海は人影もまばらで、けれど不思議と寂しさは感じない。
流れる海流のせいなのか空気も心なしか暖かで、閉めていたコートの前を開けた。

振り返ると道路の向こうにコンビニエンスストア。
あそこでコーヒーでも買えばよかったなと思ったけれど、戻らずに前に進んだ。

カフェが開くには、きっとまだ時間がある。
それに、朝食はいつだっていい。
昼食も、それに夕食も、今日は帰る時間だって気にしなくていいのだから。


心の中に溜まっていた澱が少しずつ晴れていくような気がする。
もっと早くこうすればよかった、もっと早くここに来ればよかった。

そうすれば少しは──小さな部屋の中で一人丸まって泣くなんて時間はもう少し短く済んだかもしれない。


「そんな時もあるさ。」
そう思えたらいいなと思う言葉を口に出してみる。

切実なはずの願いも潮風が軽くさらってくれそうな気がして。

どうかすべて連れ去って、この波と一緒に地球の裏側まで。

悲しい思い出も、傷ついた心も、いつまでも後ろ向きな自分も──ぜんぶ消えてしまえばいい。


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