□ありふれた人生を 3
綺麗に整えられた爪が、ワイングラスを摘まむ様子を見ていた。
夜景を写すガラスを見つめてから、飲み下すグリーンイエロー。
それがいかにも様になっている。
ワンピースにノーカラーのジャケット。
小ぶりのピアスが耳元からちらりと覗くのがぶっちゃけエロい。
そんな三日月の様子を盗み見ながら、この店を予約して正解だったと内心で思う。
直前まで随分と悩んでいた。
こんなとこ連れてきて、気合い入れすぎとか思われるんちゃうかとか。
あえての居酒屋、たとえばスペイン料理とかそういう賑やかな店もいい──けれど、今の三日月はその場によく馴染んでいて、先制攻撃とばかりに気取った店を予約したつもりがこちらが気後れしてしまうくらいだ。
今から20分前、紺色のコートを着た三日月が待ち合わせ場所に現れた時は、正直なところ一瞬面食らってしまった。
上品なコートにストールを巻いて、吐く息を白く曇らせる姿。
キンと冷えた冬の夜に、ピンク色に塗られた口唇が胸をざわつかせる。
デートの時に女の子が持ってくるちんまりとしたバッグなんかじゃなくて、だけど質のいいレザー。
地に足のついた装いがあまりにイイ女のそれで、「おう」と発した後うまく言葉を継げなかった。
「会いたい」と言った神戸の駅で、俺たちは初めて連絡先を交換した。
ずいぶん昔からの知り合いなのに、三日月の名前が俺の携帯電話に登録されたのは初めてのことで、けれどそれから幾度かのやりとりをして今に至っている。
少しばかり緊張した会う前よりも、今の方がどうにも力が入ってしまう。
どんなつもりやったっけ。
思わず目的を見失いそうになって、あかんと首を振った。
「治くん。」
「ん、」
ぶつかった視線に、今日という日の意味を強く意識する。
「こういうトコ、よく来るの?」
「いや、ああ……まあ、どうやろ。よくって言われるとそうでもない。」
女の子を口説くならテッパンと自分なりに思っている店だったが、今の三日月に聞かれるとどう答えるのが正解か迷う。
「ふうん。」
けれど、悪戯な視線。
ああ、これも──俺の知らない表情。
かき乱される心と同時、急に焦りのような感情が沸いてくる。
だけど、
「なあんか、」
ワイングラスを置いた三日月がふふふと愉快そうに笑ってから、眉をハの字にした。
「大人になっちゃったねえ、私たちも。」
この表情は知っている、と思った。
秋の終わりの屋上で、何度も見た顔だ。
困った様子で前髪を弄る時、ほっとした時、三日月はよくそんな顔をして笑った。
よく知った顔を見たことで安心して、ようやく言葉が出てきた。
「せやなあ、稲高の校庭が懐かしくもなるわ。」
屋上から見下ろした落ち葉、寒さに首をすくめたあの日はもう遠い。
今眼下に広がるのは、金色のネオン。
俺の知っている三日月は切りすぎた前髪を気にする向こう見ずな女子高生で、俺のほうもガキ丸出しの高校生だった。
「髪も伸びたしな。」
「ふふッ、」
目を細めて笑う仕草につられて、俺も笑った。
「えらいイイ女風やからびっくりした、今日。」
「ふうって何、風って!」
そしたら、こらこらなんて三日月が声を立てて笑って、
「いや、そうやろ。この前は眉毛も描いとらんかったのにびっくりするわ。」
「あれは記憶から消してってば!」
新幹線の車中のことを揶揄してやれば、いつの間にか──ああ、元の距離。
すねた顔が見たくてからかって、だけど本当は怒ってないことを知ってる。
俺の一番好きな、三日月との距離。
気がつけば、緊張はどこかへ消えていた。
「治くんだってさ、こんなとこに女の子連れてきて口説いたりしてるわけでしょ。」
「別にそんなこと言ってへん。」
「えー、ヤケに慣れてた!」
「三日月こそ、そのワインの飲み方気取っとるわ。」
「うっそ、そんなんじゃない!」
「アハハ。」
年齢を重ねた分だけ、駆け引きなんかを身につけて。
格好つけてみたり、気取った仕草もまあそれなりに様にはなってくる。
だけど、変わらないものだって案外多くて──
ほんの少しの仕草が気になって、三日月の言葉の中に答えを探して。
こそばゆいような心のむず痒さに、照れくさい気分になる。
あの日の切なさと大人になった分の少しの余裕と、いくつになっても変わらない自分の性分とに笑い出したくなる。
「でも、ええか。」
「なに?」
「”女の子を口説く場所”やって、自覚あるんやろ。」
逃げられるかなと思って踏み込んだ一言を、三日月は柔らかな視線で受け止めて、
「私も結構、頑張ってきたつもり。」
そう言って笑った。
二人、笑った。
「眉毛、ちゃんと描いてるもんな。」
「ネイルだって昨日塗り直したんだからね。」
「ほんまに?えらい気合いやん。」
「そうだよ。この前のリベンジ。」
変わらない三日月が嬉しくて、新しい三日月を知りたくて、気がつけば自然とグラスを重ねていた。
「俺の今日の予定では、」
カードの請求書で胃痛を起こしそうな伝票にサインして、二人して階下へとエレベーター。
チャンスを伺う俺の前で、三日月の手がスマホの伸びる。
「八丁堀のバルで飲み直して、カルパッチョとアスパラのチーズソース。」
「え、なにそれ。うまそ。」
「でしょ。」
セオリー通りの筋書きをあっさりと破って捨てて笑う三日月に苦笑する。
「ロビーでちゅーして、タクシーでもう1回のはずやったのに。」
「あはは。でも、食べたくなるでしょ。」
白紙撤回に消沈気味の俺の横、タクシーに乗り込んだ三日月は楽しそうにレビューサイトの写真を眺めている。
「酔っ払いめ。」
「えー、治くんも頑張って追いついて。」
なんて、さっきまでの気取ったイイ女「風」はどこへやら。
すっかりほろ酔いの顔で上機嫌──だけど、手を握っても三日月は嫌がったりはしなかった。
「ちゃんと家、帰るんやで。」
「ふふー、大丈夫ですよー。」
「あかんわ、やっぱり送ったる。」
「平気だってば。」
二軒目に入った店でまたグラスを重ねて、多少足元の怪しくなった三日月と深夜の道でタクシーを探す。
「平気……。」
ため息のように呟かれた言葉に、ドキリとなった。
きっかけなら願ったりだが、別に狙ったわけじゃない。
それでもきっと、繰り返される──何度でも。
何度でもかき乱されて、臆病になって、だけど大胆に──先送りしたはずの予定は、深夜の交差点でまた俺の手の中。
「三日月、」
「う、ん?」
ひと気のない交差点で見上げる瞳。
それをじっと見た。
「……ちゅーする前に言うとく。」
両腕で引き寄せた身体は素直に俺の胸に納まって、けれど瞬く視線が「あの日」を思い出させて頭の奥がキシリと痛む。
それでも、もう行き着く先なら決まっているはず。
腹を括ってしまえば、案外真実が見えてくるものだ。
揺らめく三日月の視線──遠いあの日、新幹線のホーム、それに今日も、「なんだ、同じやんか」と気付いた自分にちょっとは成長したなと思ったりした。
明るくて賑やかで、だけど黙っていれば澄まして見える。
そんな三日月が視線の奥に隠した臆病な本心。
そういうとこも可愛ええなって、ほっとしてから思った。
なあ、三日月。
もうなんも怖がることなんかないで。
不安になる必要もない。
ぎゅっとしてもう離さんから、それでええやろ。
だから、ほら。
もう振り返らずに、今だけを見て欲しい。
「三日月、好きや。」
ああほんま──昨日までなんてもうどうでもええわ。
合わせた口唇はアルコールの薫りを纏って、
「好きや。だから……もう逃がさへんで。」
けれど、確かに思いを返してくれた。
好きや、三日月。
三日月が好き。
奪いたい、この腕の中に閉じ込めたい、それで思いっきり甘やかして、もうどこにも行かないように。
祈るように抱いた背中を三日月の手のひらがそっとなぞって、それが──二人の約束になった。
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