□ありふれた人生を 1
ほんの少しの仕草が気になる。
その仕草の意味を考えると眠れなくなって、次の日笑う姿にほっとして。
もっと話したいのに、なんでか無口になる不思議。
名前を呼ぶ声に胸の奥がぎゅっとなる──人を好きになるってこういう感覚なんやって、あの子に会って知った。
「髪、」
「ん?」
初めてここで会った時は、まだ暑さの残る9月。
始業式に見かけた時は長かった髪がいつの間にか短くなっていて、その姿にここ数日妙に不機嫌だった片割れの理由を知った。
「結構伸びたやん。」
「そうかなあ。まあ、前髪はちょっとマシになってきたかも。」
拗ねたみたいに口唇を尖らせて前髪をいじる様子を見ていた。
それが可笑しくて吹き出したら、「笑わないでよ」とへの字に曲がる口唇。
だけど、本当は怒ってないことを知ってる。
知ってる。
それがわかるくらいには、三日月と一緒の時間を過している。
湿度を含んだ夏の空気はもう遠くて、今は風が吹けば思わず首をすくめたくなる季節。
屋上から見下ろした校庭脇の木が、茶色くなった葉を地面に散らしている。
三日月ゆい。
その名前を最初に聞いたのは、侑の口から。
1年の終わりの頃やったかな、同じクラスのその子と付き合うことになったって自慢げに話してきたのが最初だ。
それからはしょっちゅうその名前を侑から聞くことになったし、自然に顔を合わせることも増えた。
2年に上がってクラスが別れてもそれは変わらなくて、行事のたびに一緒にいたり、練習試合の応援に来ているのなんかを見かけるとそれが少し羨ましいような気もしてた。
家に帰ればいっつもスマホを眺めて、夜に電気を消した後まで消えない画面のあかり。
まあ、とにかく「そういう」こと。
三日月ゆいは侑の彼女で、俺にとっては顔見知り。
それだけだった。
──あの日、この屋上で会うまでは。
あの日、まるで似合わない新しい髪型で気まずそうに俺を見た三日月。
「どうしよう」って思って、だけど気になって、気まずさなんか一瞬でどこかへ消えてしまった。
あれからもう何度も、ここで三日月と会っている。
約束してるわけじゃない、第一会う理由がない、説明できない。
だけど、気がつけば初めて会ったこの場所に足が向いている。
会うたびに三日月はいつも似合わない髪型を気にして、俺はそれをからかった。
──なんで、別れたん?
聞いてみたいと思ったことは何度もある。
知りたくて、だけど聞けないままでもう随分と時間が経ってしまった。
三日月は侑のことはなんにも言わなくて、侑は侑でいつの間にか何事もなかったみたいに振る舞うようになっていて。
それなのに「知りたい」なんて言えないとなんとなくプライドとか見栄に似た気持ちが俺に口を閉じさせた。
「あー。午後の体育、本当ムリ。」
「なんで?」
「えー、持久走だよ?超ヤダ、ムリ、サボりたい。」
いつの間にかまるで友だちみたいに話すようになって、
「体育、苦手なんや?」
「体育っていうか持久走がムリ。」
話すたびにこうやって三日月に関する知識が増えていく。
こうしている理由は曖昧なままで、だけど時間を重ねて──そう、いつの間にか。
「治くんにはわかんないか、スポーツ得意だもんね。」
「んー、まあな。ランニングとか毎日やし。」
「えー、しんど。」
「はは、三日月は嫌そうな時ほんまええ顔するなあ。」
俺と侑とどっちが三日月のこと知ってるんかなとか、最近はそんな風に思ってしまうのだから質が悪い。
「なにそれ。」
「せやから、ホラ。ほんまにイヤやーって顔。」
多分よくないことなのだと、自覚はしている。
侑の「元カノ」、そんなん友だちだって十分気まずい。
──だけど、会いたい。
それがどういう意味なのかなら、とっくに自覚はしていた。
自覚して、けれど踏み込む勇気がなくて。
「………。」
いつだって、手前で言葉を見失う。
「治くん?」
「ん、ああ……なんやったっけ。」
誤魔化すみたいに眼下に目をやって、
「お、1年も長距離や。」
浮かびかけた気持ちに蓋をする。
侑のせいで切った髪。
自分で切ったくせに似合わないと落ち込む様子が可笑しくて、一生懸命前髪を撫でつける仕草に笑った。
笑えば拗ねる横顔に胸がかき乱されるようになったのはいつからだろう。
指が綺麗とか睫毛が長いとか、曖昧だけど確かにある何かを見て見ぬ振りするには、俺は三日月を知りすぎている。
──何考えとう?
聞いてみたい。
俺のこと、どう思っとるの?って。
どんなつもりでここに来て、どんなつもりで俺に会うてるの?って。
だけど、聞いてどうする。
聞きたいと思う理由、それが問題だ。
向けられる笑顔や気を許されていると思う仕草、それに期待する。
そのたびに侑の顔が過ぎって、途端に足踏み。
侑のもんやったから気になるのか、侑のもんやったから踏み出せないのか。
考えるほどにわからなくなって。
その答えを三日月に求めるのは間違っていると思うのに、それでも、三日月の仕草に、言葉に、答えを探してしまう。
「あ、もう予鈴鳴っちゃう。」
「………。」
明日、また会える?
明後日も、その次もここで会える?
もう冬はすぐそこで、そしたら屋上なんかには三日月も来なくなるかもしれない。
約束は何もない、連絡先も知らない。
いつ終わってもおかしくないこの関係。
それを「終わらせたくない」って言ったら、三日月は──困るんかな。
行く先を想像して言えなくて、チャイムの音に急かされるようにしてその場を後にする。
「じゃ、ね。」
「……おう。」
心臓の裏側を引っ掻くみたいな痛み、最近はずっとこう。
手を伸ばせば救われるのか、その逆か。
苦しい。
渦巻く思いが息を詰まらせて、苦しい。
「三日月、」
呼びかけた声に振り向いた視線と目が合って、少しだけ怯んだ。
いつもなら、ここで終わり。
ハッピーエンドもバッドエンドもない、とりあえずのto be continued。
いつもと何が違ったのかなんて、わからない。
きっと何も違わない。
だけど、もう。
黙っているなんてできなくて──
「好きや。」
カラカラに乾いた喉は、北風のせいなんかじゃない。
迷って、願って、何度もため息、それでたどり着いた答え。
それを告げた。
冬が来て屋上に来られなくなっても一緒にいたい。
三日月の髪が伸びるまで、それで伸びてからも一緒にいたい。
なあ、俺はもう三日月のことたくさん知っとるよ。
皮肉屋なくせに案外素直とか、気丈なくせに寂しがりとか、俺は知ってる。
やから、せやから──。
「治くん……。」
俺を見る三日月の黒目が揺れて、小さな声が名前を呼んで。
冬が来る手前のあの日、曖昧な距離を手放した。
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