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「#エロ」のBL小説を読む
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□Southern Star 8

新しい靴を買った。

季節変わりのデパートはいつもウキウキするけど、この季節はちょっと特別だと思う。
長い冬が終わって、春が来る。
モノトーンの季節からパステルカラーへ、ショウウインドウを眺めるだけで華やいだ気分になる。


夏の終わりに職場に戻って、異動願いを提出した。

前職に未練はないかといえば、正直なところそうでもない。
入社以来ずっと続けてきた仕事で実績だってあったし、続ければ次のポストも見えてくる。

だけど、「疲れたな」と思った自分を許した。
競争するだけが仕事じゃないし、少しくらい休んだっていい──人生は長いんだから。

新しい仕事はそれだけで新鮮で、けれど慣れないことばかりの毎日。
競争をやめた分だけ新しい忙しさに追われて、毎日が駆け足で過ぎていく。

付き合う人が変わった、着る服が変わった。
今まで作らなかった料理をするようになって、そのせいかちょっとばかり太った私は絶賛ダイエット中。


私だってまだ変われるのだと、気づかせてくれた時間を思う。

夏の日、日常を飛び出して過した街。
海のにおい、湿った空気の中を通り抜けていく潮風、畳敷きの床に寝転んで見上げた天井。

穏やかな時間の中で何かを得て、何かを捨てた。
今はまた息苦しい都会の中だけれど、不思議と心は軽い。


その思い出の中に──たたずむ人がいる。

名前さえ知らないままで恋をした。
そう、恋をしたのだと今ははっきりと自覚している。

1つの恋を失って──自信とかプライドとか、あるとも思っていなかったものが自分の中に存在していたことを初めて知った。
ボロボロだったなあと思えるのは今だからこそ。

傷ついて、悲しみと強がりの中で出会った人がいる。
その人といれば、振り返ってばかりの過去を忘れられた。

誰かが傍にいることがこんなにもほっとすることだなんて、彼に出会わなければ私は知らなかったかもしれない。

その人に求められて、この肌に触れられて、恋をした。
彼を欲しいと思ったし、明日も会いたいと、傍にいて欲しいと願った。

結局それは叶わなかったけれど、だけど構わない。
あの日、あの時、恋をした。

その思い出が今日も──私を生かしてくれる。


「う、わ!」
春色の靴が入った紙袋をぶら下げて歩いた駅、地下鉄へと続くコンコースで足を止めた。

天井まで届く巨大なポスター。
それだけでもかなりの迫力だけど、「ワールドリーグ開幕!」の文字が躍る紙面を染める赤。

鮮やかな真紅のユニフォーム。
両手でボールを構えた二人の男が、「日本の二大主砲」の文字を挟んで真っ直ぐに正面を見据えている。

しばらくの間、それに見入っていた。


「佐久早聖臣」、それが──「彼」の名前。
たった一度だけ、二人で過した夜に彼が教えてくれた。

便利な時代とはよく言ったもので、翌朝跳ね起きて出ていったまま戻らなかった彼のことなら、調べた検索エンジンが事細かに教えてくれた。
「バレー男子代表 佐久早聖臣選手 欧州移籍を発表」と書かれた記事は2年前の日付で、「どうりで背が高いわけだ」と一人納得したもの。

有名人じゃないと彼は言っていたけど、なんとなく「スポーツ選手なのかな」くらいには思っていたから、案外あっさりと受け入れることができた。

ひと夏の恋、それでいい。
相手が有名なスポーツ選手っていうのは、むしろちょっとオイシイ。

胸の奥をのぞき込めばきっと切なさを見つけることもできるけど、そんなことはしたくない。
あの日に感じた小さな幸福を抱きしめていたいから。


「ワールドリーグかあ。」
バレーってあんまり見たことなかったけど、テレビ中継とかするんだろうか。
もしそうなら見てみようかな、なんて少し先の未来を想像しながら歩き出す。


世界のどこかで羽ばたく彼に、東京からエール。
いつも不機嫌で、どこかふて腐れて、だけど本当は優しい彼に──届くはずのないメッセージを送る。

もうしばらく訪れていない鎌倉の家に、「行ってみようかな」と思ったのはその日の出来事がきっかけだった。



思い立ったら動かずにいられないのが性分で、次の週末には湘南へと向かう電車に乗った。

リュックサック姿の観光客、真新しいトレンチコートに身を包んだ女の子、重そうな紙袋に東京土産のお菓子を詰め込んだ家族連れ──休日の電車は、平日のそれとはまったく違う雰囲気で賑わっている。

ボックスシートに腰掛けて窓の外を眺めながら、膝の上でバッグを抱えた。

荷物なんてこれ一つ。
夜には東京に戻るつもりだし、半日限りの現実逃避。
新しい靴を履いて、新しい自分で、あの日の思い出に会いに行く。


言わずと知れた鶴岡八幡宮、荏柄天神社に鎌倉宮、忘れちゃいけない高徳院の大仏さま!
1ヶ月も時間があったのに一度も訪れることのなかった観光スポットを頭に描いて、「帰りに鳩サブレを買えば完璧」なんて、気分はすっかり旅行者だった。

JRから乗り換えて3駅、二両編成の電車に揺られてやってきた祖母の家。
窓を開けて空気を入れ換えてから、オシャレなカフェでも探しに行こうかなと思っていた。

ランチタイムにはまだ早い。
海辺を散歩するのもいいし、あの畳に横になってスマホでお店を探すのだって楽しそう。


通りの向こうに海の気配を感じながら歩く路地。
海岸までは少し距離があって海は見えないけれど、キラキラと光る波間を想像すればそれだけで心は浮き立った。

その足が、向かった先──。


「えッ……。」

古い石造りの門に背中をもたせて座り込む、大きな黒い影。
ウインドブレーカーを引っかけてうずくまるようにしている「その人」は、視線を下に向けたまま、こちらには気付かない。

ドクンドクンと何かが跳ねる音。
自分の心臓の音だと数秒後に気付いて、胸の前で手を握った。


「……ねえ、」
目の前に立って声をかければ、ようやく視線が持ち上がって、

「何してるの。」
それから、首にかかったイヤホンを外す仕草。

視線が合って、それから不機嫌そうにしかめられた眉。
懐かしい仕草に思わず笑いがこみ上げてきた。


「……遅い。」
笑った私にますます眉間のシワを深めた彼が言って、

「遅いんだけど。」
もう一度、そう繰り返した。

「うん、ごめん。」
だけど、笑った。

だって、こんなのやっぱりおかしいじゃない。
おかしいに決まってる。

「……なんで笑ってんだよ。」
抗議の視線を隠そうともしない彼だけど、だけど笑うなっていう方が無理だ。

「ここであなたに会えたらいいのにって、思ってたから。」

──だって、まるで奇跡みたい。
こんな風に願望が叶ってしまうなんて夢か奇跡か、ちょっと出来過ぎだよって思うから。


不機嫌目いっぱいだった表情から、ようやく眉間のシワを解いて、

「まあ、謝るなら許してあげてもいいよ。」
大げさにため息をついてみせてから、彼はそう言った。

尊大な言い方がいかにも彼らしくて、「らしい」と思った自分が可笑しくてまた笑う。
知っているようでよく知らなくて、だけど知らないはずなのになぜか知っている──そうだね、最初からずっとおかしな関係だった。

だけど、

膝を伸ばして立ち上がった彼に吸い寄せられて、見上げた視線。


「会いたかった、ずっと会いたかった。いなくなるなんて聞いてないし、もう一生会えないかもって思ったらめちゃくちゃむかついた。むかつくし、見つけ出して絶対文句言ってやるって思ってたよ、絶対許してやるもんかって。」

その視界が真っ暗になって、

「だけど、謝るなら許してやってもいい。だから……。」

──もういなくなったりするなよ。

抱き締められた胸の中、彼の言葉を聞いていた。


「うん、ごめんね。」

「反省、してるの?」

「うん?う─ん、ええと……じゃあ、ハイ。」

「……じゃあって何。」
なんて、途端にまたふて腐れた声に変わるのだからまた笑わずにいられない。

嬉しくて、楽しくて──幸せ、なんてちょっと安易な言葉かな?
だけど、それ以外思いつきそうにない。


「聖臣。」
彼の名前を呼んだ。
あの夏の日、彼が教えてくれた名前。

抱き返した広い背中がビクリと一瞬跳ねて、

「ッゆい……!」
私の名前を呼んで、強く抱く。


「会いたかったんだよ、本当。だけど会えないかと思った……!」

「うん。私も会いたかったよ、聖臣。」
もう一度名前を呼べば、ようやく詰めていた息を吐いて、彼は腕の戒めを解いた。

「聖臣に会いたかった。」
確かめるようにもう一度告げれば、再び重なった視線がこちらを見る。
眉の間に刻まれていたシワはもうなくて、代わりに雄弁な瞳が私を見返していた。

あれから何があったかなんて、今は聞かなくてもいい。
どうして帰ってこなかったのとか、あの時「来週、東京に帰るよ」って言ったよねとか、そういえばどうして日本にいるのとか、今はいい。
そう思えるくらいに、彼の瞳は雄弁だった。


「ただいま」かな?それとも「おかえり」?
どっちもいいね。


ここが二人の帰る場所なら──それがいいよね。


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