□Southern Star 5
お湯からあげた素麺を氷水に通す。
「えー。俺、素麺キライ。」
いつの間にそこに来ていたのか、居間にいたはずの彼が流し台をのぞき込んで言った。
「私もだけど。」
「じゃあなんで。」
こんなやりとりをするのは、もう何度目だろう。
この家に暮らして2週間を超えたあたりからは生活も身体に馴染んで、同じくらいこの人のいる生活にも慣れてしまった。
「ふふ、コレはちゃんと美味しいから。」
「………。」
信じられないという目でこちらを見るけれど、それ以上の反論はない。
視線を受け流して素麺の水を切り、ボウルへと移した。
ほとんど毎日というペースで、彼はこの家にやってくる。
私が遅い朝食を取る時間か夕暮れ時、いつ来るとは言わないけれど大抵はそんな時間。
手袋がどうの消毒がどうのと言っていたのは最初だけで、いつの間にか当たり前のように居間に居座って食事を取り、それからどこかへ帰っていく。
この街に住む人なのか、どんな暮らしをしているのか、なんとなく生活感の薄い彼の正体は未だよくわかっていない。
いや、私たちはお互いについてほとんど情報を持っていない。
この家と出会った細い路地、私の名前──それから「サクサ」と彼が名乗った呼び名だけ。
この少ない情報の中に、「素麺が嫌い」という新しい情報が今インプットされたところ。
「はい、お待たせ。」
久谷の器に白い素麺。
新鮮なトマトにツナ缶、オリーブオイルとポン酢で味をつけて黒胡椒を振った。
「カッペリーニ風、騙されたと思って食べてみて。」
24時間のほとんどをこの家の中で過す生活、料理アプリのフォルダはいつの間にかいっぱいになった。
料理は食べるのが専門だと思っていたけれど、やってみると案外楽しい。
鎌倉野菜なんて高級品もいいけど、少し足を伸ばせば朝取ったばかりの野菜を売る店が結構あったりして料理意欲をかき立てた。
「あ、」
「ね。」
「うん。」
顔を見ればわかる、なんてやっぱり少し可笑しいかな。
「美味い」と呟いた彼に笑って、私もフォークを手に取った。
素麺のカッペリーニ風におくらと梅のわさび和え、豚バラ肉とじゃがいも、その横に麦茶。
座卓の上を彩る夏、低めに設定したクーラーの風が二の腕を撫でる。
「休暇」は、折り返しを過ぎていた。
電車を3本乗り継いで一度だけ戻った東京では、「次の検査で問題なければ職場復帰可」のお墨付きをもらっている。
夏が終わる頃には、私の自由時間も終わり。
心の締め付けを解いて少しばかり暢気に過した季節も残すところ少し。
戻る先は、ビル群。
ネクタイの代わりにピンヒール、ネイルサロンで爪を塗り直せばあっという間に日常へと帰ることになるのだろう。
最初から決まっていたこと。
それでも少し──蒸し返す夏の海辺を惜しいと思っている自分がいる。
いつまでもこうしてはいられない、そんなことわかりきっているはずなのにね。
「ねえ、今日。」
「うん?」
「人が多い感じした、何かあるの。」
空にした器の脇から麦茶の入ったコップを取り上げて、彼が聞いた。
「ああ、」
8月も終わりに近づく頃だ、幼い頃の記憶にもある。
「花火かな、片瀬海岸のほう。」
「ふうん。」
気のない反応に、次に発する言葉を迷う。
「見に行く?ちょっと歩けば見えるかもよ。」
「……いい。」
「混むから早く帰った方がいいよ」という言葉とどちらを言おうか迷って告げた一言に返ってきたのは、予想通りの答え。
花火なんて興味なさそうだもんな、とよく知らないはずの男に対して思う。
だけど、そんな印象を感じ取れるくらいには、彼を知っていると思えるから不思議だ。
「もう少し食べる?」
「ううん。」
手持ちぶさたで聞いてみるけど、どうやらもう満腹らしい。
「早く帰ったほうがいい」と私が言えば、きっと彼はそうするだろう。
だから、言わなかった。
傍にいたいなんて、バカげてる気がする。
だけど、そう──「一人になりたくない」とは違う、「彼に居て欲しい」という気持ちが確かにあったんだと思う。
「今日、特に暑いから、人も多いかもね。」
「なんで暑いと人が増えるの。」
「えー、そういうもんじゃない。雰囲気的な?」
他愛もない会話をポツポツと交わしながら、縁側の向こうの空を覗いた。
白く薄い雲が靡いている。
夏休みの絵日記にに塗られたブルーとは違う、だけどこれが日本の空。
湿度に煙る薄青の夏空を見上げて、私は目を細めた。
どれくらいそうしていたのか、
ドンッ、と空砲の音。
「始まるね。」
「ふうん、そういうもの?」
「うん、今のが合図で……って、行ったことないの?花火大会。」
驚いて尋ねたら、彼が首を捻る。
「……俺、人混み嫌いだし。」
「えー、本当に?まあ、私も高校大学以来行ってない気するけど。」
あの頃は夢中になってあちこち行ったなあなんて、懐かしい思い出に笑う。
「なに笑ってんの。」
「うーん、なんか色々思い出して。」
着慣れない浴衣を着て足にマメをつくったり、それでも彼氏に褒められたくて無理して毎年着てったり、そういう夏休みって懐かしい。
「ねえ。じゃあ、海水浴とかは?」
「海は嫌いだ。」
「えー、じゃあキャンプ?」
「行かねえって。」
「じゃあ何してたの、夏休み。」
「嫌い」とか「行かない」とか「イヤだ」とか、この人の大半は否定で出来ている気がする。
じゃあなんだったら好きなのって、聞いてみたかった。
「……部活。」
そこに、返ってきた答え。
「部活、かあ。」
「うん、部活。だいたいそう、ずっとやってたから。」
目が合った。
表情の少ない目の奥を読み解こうとするけど、難しい。
だから、聞いた。
「部活、好きだった?」
「嫌い」で埋め尽くされた彼の中にある「好き」を知りたいと思った。
「……どうかな。」
少しの沈黙の後、彼はそう言って──
「けど、今よりは楽しかったのかも。キツくてもしんどくても、なんか……あったような気する。」
わずかに揺れる空気。
彼の視線が見つめる先がどこにあるのか、それが少しだけ見えそうな気がした。
「そっか。」
「うん。」
何も言わない、何も言えない、それ以上は。
不可侵の聖域、きっと──彼がここにいる理由はそこにあると思った。
「ねえ、俺さ……。」
見つめ合ったままの視線はそらされることなく、深い黒が私を見ている。
息を吸う口唇、太い喉の上下する動き、瞬きの奥にある漆黒。
忘れかけていた何かを思い出すような感覚が、背筋を這い上がって、やがて吐息になる。
声一つ、指先の動き一つで、変わる。
今ここにある何かが変わる、それを意識して──
バババッ、と仕掛け花火の音で我に返った。
「……帰る。」
「え、」
「もう帰るよ。」
「あ、うん……。」
その音に現実に引き戻されたとでもいうように、彼は私から目をそらしてのそりと畳の上から立ち上がった。
花火大会はまだ始まったばかりで、海岸沿いは大層な人手だろう。
道路だってきっと渋滞してる。
だけど、いつも通り走ってここに来た彼にはあまり関係ないのかもしれない。
硝子の引き戸の閉じた玄関。
脱ぎっぱなしだったスニーカーをつっかける大きな背中を見ていた。
遠くに花火の音。
「じゃあ、」
クセのある髪が振り返るのを見上げる。
その瞳の奥──そこに見つけた気がした。
重なりそうになる直前、そらされてしまった感情の余韻を見つけた気がした。
そっと、なぞるように。
消えかけた感情をもう一度、なぞるように。
「道……たぶん混んでるよ。」
告げた言葉が、合図になった。
バンッと夜空に開く大輪の音を聞く。
「じゃあ…帰らない……!」
大きな手のひらが背中に触れた瞬間、鼻いっぱいに広がったのは乾いた汗と柔軟剤の香り。
昼の暑さを未だ残す夜の始まりに、触れた熱。
絡み合った細い糸を引き寄せるように、そこにあると確かめるように触れ合う腕、胸、首筋に滲む汗。
間近に迫った黒に吸い寄せられて、顎が上がる。
そのまま瞳を閉じれば──
身構えたそこに触れたのは、ひどく優しい口づけ。
この人のキスは、臆病にも思えるくらい優しい。
蕩けるような甘い熱の中で、それを知った。
[back]