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□Southern Star 1

ゆっくりとしたスピードで、坂道を登る。

古民家を改装したちょっとオシャレなパン屋さんで、食パンが評判。
厚めに切ってもらって、たまごサンドにしようかななんて考えながら歩いてた。

たまごサンド、缶詰じゃないトウモロコシでコーンスープ、トマトとレタスのサラダ。
明日のブランチにしよう、すごく夏っぽい。
そんなメニューを反芻しながら、ヒールのないサンダルで坂道を行く。


ハイヒールじゃない生活、服装だってロングスカートのワンピース。
時計もない、ブランドバッグもアクセサリーもない、今日の私。

日常のような非日常。
この街に漂うゆったりとした空気は、不思議な感覚をもって私を景色の中に誘い込む。

湘南鎌倉。
古い町並みと観光地の明るさが同居するこの街は、東京のビル群から抜け出した私をまるで当たり前のような穏やかさで受け入れてくれた。


訪れた病院の診察室で、血液検査の結果を聞いたのはまだほんの少し前のこと。
幾日も続く頭痛と眩暈を抱えながら、それでも会社を休むという考えには及ばなかった。
疲れかな、風邪かなと、そんな風にやり過ごしてしまうくらいには私は健康だったし、ストレスなんかに負けないくらい自分の心は強いのだと思っていた。

今思えば、すべては過信でしかなかったのだけれど。

「風邪ですかねえ」と内科で処方された薬はまったく効かず、もしかして原因不明の体調不良──なんて思い始めた矢先、総合病院で診断名を受け取った。
大抵の不調にはやはり原因があるらしく、いくつかの検査で示された数字は正常な値をはみ出してしまっていた。
「要静養、通院服薬のこと」と書かれた診断書を持参して職場に向かうこととなった私は、こうして医師の指示通りに「一ヶ月間の静養」という大義名分をぶら下げて大学時代以来の長い休暇生活に身を置くことになった。

大病、とは言わないまでも初めての休職。
それでも意外と不安はなかった。
目先の仕事のこともこの先のキャリアのことも、気にはならない──疲れ果てた自分に、ようやくそこで気が付いた。

年々重くなっていく責任、同僚たちとの競争、期待、嫉妬、焦りと羨望。
社会人になったばかりの頃には想像もしていなかったあれこれが、まるで硝子板の天井のようにそこにある。

そんな息苦しさの中で、大きな失恋をした。
社会人としての自分に行き詰っていたのはなにも私だけではなくて、付き合っていた恋人もどうやら同じだったらしい。

手助けしてくれることも励ましてくれることさえなかった彼は、「どうせおまえにはわからない」という仕事の愚痴を分け合える相手を見つけて去っていった。
そんなよくある失恋話が私にとって少しばかり重いものになってしまったのは、彼からダイヤモンドの指輪を受け取っていたから。

両家への挨拶を済ませて、式場を予約して、会社の上司に報告。
結婚式場への打ち合わせも何回か行ったし、新婚旅行の予約もしていた。

半年先のモルディブも夏休みに行くはずだったハワイの予定もキャンセルして、私は一人になった。
休職のうち、一週間はこの夏休みを充てた。
勤務表の上だけでも「病休」の文字を減らしたいなんて、サラリーマンらしすぎて悲哀を感じてしまうけど仕方がない。


夏休みだと思いたかった。
一カ月間の自由な休みなんだって、それくらいに構えて過ごしたい。
──こんな風に、深刻になり過ぎない自分のことはちょっと褒めてあげてもいいと思う。

旅行に行くほどの元気もないし、と訪れたのがこの街。
幼いころに両親と通った場所。
少し前に亡くなった祖母が暮らしていた家が、この坂の下にある。

狭い路地と電信柱、きちんと業者を入れていたおかげで生垣の緑も青い。
まるで子どもの頃に見たままで──「よく来たね」なんて、両親に内緒でお小遣いをくれる祖母が顔を出しそうなくらい、本当に何もかもがそのままだった。

去年あった店もいつの間にかなくなってしまうくらい、毎日のように姿を変えていく私の住む街とは、何もかもが違っている。
ここで暮らしたことのない私にも、この街は穏やかな日常をくれる。

白く霞む夏の空、風が吹き抜けていく先は海。
スーツもバッグも必要ない今日に、少しだけ軽くなった胸。

予定通りに厚切りにしてもらった食パンを買って、だけどこのまま坂の上まで歩いてみようかなと思い直す。
少し急な上り坂、その上になんという名前だったかお寺がある。

(海が見えるかも。)

ほんの15分で海岸には着くけれど、今の私に湘南の海は賑やかすぎる。
遠くから眺めるくらいでいい。

そう思いながら歩いた。


その坂道の途中で、

「わッ、」
狭い路地を加速してきた車。
避けようという意識が一瞬遅れたのは、坂道を下って走るTシャツ姿の人に気を取られていたせいだ。

趣味のランニングというには本格的な様子に、思わず目を奪われていた。
海沿いではなく街の中を走る様子をどこか不釣り合いに感じたせいもあるかもしれない。

気を取られて、車を避けようとした足がわずかに絡まる。


「ッ、」

車とすれ違う間際、飛び込んできた人影に抱え込まれたことに気が付いたのは、何秒か後のこと。


「す、すみません……。」
私を抱えた腕は、太く逞しい。

Tシャツに滲む汗。
男の人だと強烈に印象付ける力強い仕草に一瞬上げた顔を、思わず逸らしてしまった。

「ありが、とうございます。」
物慣れないフリをしたいわけでもないのに、心臓はドキドキと早鐘を打つ。

うまく喋れなくて、まるで縋りつくような仕草のままで私はただ俯いた。
何が起きたのか、自分でもわからない。

誰かに緊張するなんてあり得ない。
相手の性別が男だからって、そんなことあり得ない。
仕事だって恋愛だって、はっきりいって十分に慣れてる──そう思うのに。


夏の風を纏って現れたその人は、思考が彼を認識するよりも早く私の心へと入り込んでしまったのかもしれない。


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