■黒猫dance
真っ白なドイツ車のSUV。
スポーツをするわけじゃないけど、なんとなく格好いいから買った。
バッグやアクセサリーを買うのは飽きたし、だけどマンションを買うほどの覚悟もない。
そんな私の衝動買い。
初めて自分で高速を走った時は、心臓がどうかするかと思った。
けれどそれも慣れてしまったのだから、私の独り身生活も長くなったということだ。
結婚間近の彼氏と別れたなんて、まぁ世間じゃよくある話。
それでも、私にとっては一大事。
さんざん泣いたし恨んだし、ヤケ酒したり騒いだり一通りのことをやってみた。
だけど、気が付けばやっぱり一人。
遊び人の彼氏なんて今更いらないし、そのくせ誠実な男は大抵の場合売約済み。
仕事して、同僚と飲んで、一人暮らしの部屋に帰って眠る。
そんな生活にやっぱりちょっとヤケになっていたのかもしれない。
結婚資金をはたいて車を買った。
───ビルの谷間から抜け出したくて。
ドライブもスポーツも特段の趣味ではなかった私が、最初に選んだ行き先が逗子だった。
湘南ってなんか格好いいし、川沿いの街で育った私には漠然と海への憧れもあった。
それから……今日で何回目だろう。
土曜日の午後、またハンドルを握っている。
その店を見つけたのは、ただ偶然としか言いようがない。
海沿いの街道に佇む小さなカフェ。
「ランチ─15:00まで」という良心的な表示に、14時50分を示した時計を見てひと思案。
もし嫌な顔をされたら引き返そう、別に家の近所でも職場の周りでもないんだから気にすることない。
昔のドラマにでも出て来そうな小さいけど気の利いた店構え。
ドラマの記憶そのままのマスターでも出てきたりして、なんてちょっぴり期待しながら木製のドアをくぐった。
「いらっしゃい。」
カランと音を立てたのは、入り口のドアに付けられたベル。
声に誘われるようにして店の奥を見れば、そこにあったのは予想よりもずっと若い男の姿だった。
小さなカウンターとテーブル席が3つ。
ドライブ客が立ち寄りそうな時間帯なのに、人はいない。
そういえば、車2台分の駐車スペースにも他に車はなかった。
なんとなく気後れがしたけど、
(まぁ、この辺って有名なお店も結構あるし……。)
小さなお店は有名店に押されてこんなものなのかも、なんて失礼ながら思い直した。
「ランチ、まだ大丈夫ですか?」
遠慮がちを装って尋ねれば、
「どうぞ、お好きな席へ。」
店の主らしい男が応えた。
奥の窓から差し込む光を受けて、男の顔はよく見えない。
思ったより若いな、それに背が高い。
わかったのはそれくらい。
「あ、」
奥のテーブル席に腰掛けようとして、気が付いた。
窓の横にドア、その奥にあった4つ目のテーブル。
小さなテラスに一席だけ置かれたそれに思わず声を漏らせば、
「外でも結構ですよ。」
そう応えて、男が笑った。
振り返った先でぶつかった視線、今度こそはっきりと顔が見えた。
厚めの目蓋、掴みどころのない視線。
ゆるりと歪めた口元がその雰囲気を際だたせている。
それに、
「え、あ……っと。」
黒い髪を逆立てた特徴的な髪型。
(怪しい、なんかすごく……怪しい!)
もしかしてマズイ感じの店に入ってしまったのだろうか、てゆーか人がいないのってそういうワケ?!
ボラれるくらいで済めばいいけど、どうしよう!
余程警戒心丸出しの顔をしていたのかもしれない。
「ぶはっ!」
「え、何?」
「や、んな顔すんなよ。何も取って喰ったりしねーって。」
そう言って、彼はまたブハハと声を立てて笑った。
「ホラ、ランチタイムはあと2分だぜ。何にする?」
それからメニューを差し出して、私をテラス席へと案内した。
海岸までは少し距離がある。
だけど、潮風が気持ちいい、夏本番まで一歩手前のテラス。
「ホイ、おまっとさん。」
飲みかけのアイスティーの横に置かれたプレート。
サーモンと小エビのキッシュにサラダとフライドポテト。
「おかわり自由。」
と小さなバスケットに入ったフランスパン。
そこまでは想定の範囲だった。
「じゃ、食おーぜ!」
「は?!」
ドン、と音を立てて向かいの席に置かれたのはトマト色のパスタ。
ナポリタンの香りが食欲をそそった。
「って、いやいやいやちょっと!」
「なんだよ。」
「いや、何それ?まかない?ここで食べないでよ、てゆーかなんで?」
あり得ないでしょ!と向かいに腰掛けてフォークを握る彼に言い募るが、
「だって、俺もメシ食ってねーもん。」
そういう問題じゃないよと言おうとしたけど、彼はそんなことには構わない様子でフォークにパスタを巻き付けた。
もぐもぐと動く口にそれ以上言っても無駄だと悟る。
「てゆーか、」
「ん゛ん゛?」
「……そっちのが美味しそーじゃない?」
キレイに盛りつけられたキッシュよりもなんだか美味しそうに見えて口を尖らせれば、
ニヤリ、
と彼が笑った。
「食うか?シャ・ノワール特製、まかないパスタ。」
シャ・ノワール、それがお店の名前。
なんだかそのまんまだなとか、どうしてまかないはパスタなんだとか、色々思うことはあったけど───、
「美味しい。」
「ホレ」と差し出されたフォーク。
少し遠慮しながら口に入れたそれは本当に美味しくて、気になったはずのどれもこれもどうでもいいような気分になった。
「だろー?でも、俺の焼いたサンマはもっと美味いんだぜ。」
「ぶっ、サンマって!」
おかしなひと。
掴みどころのない男。
その色は、深い───とても深い、黒。
それが、私と彼、
黒尾鉄朗との出会いだった。
[back]