■エース!
最悪と言ってしまえば、それまでの出来事だ。
だが、諦めることができない。
あの日から、彼女は俺の心の中に───住みついてしまっている。
『スマ──ン!ボールッ!!』
顧問に呼ばれていくつか話をして、体育館に戻る途中だった。
開いた扉の向こうから叫ぶ声。
部員の誰かが叩き込んだスパイクが、勢いよくバウンドしてこちらに向かって来た。
地面を蹴って、腕を伸ばす。
バチンと音がして───ボールは俺の手の中に収まった。
『ぎゃあ!』
蛙をつぶしたような声がすぐ後ろで聞こえて、
『す、スミマセン。ありがとう……!』
振り返れば、そこにあったのは蛙の声とは似つかわしくない……女の姿だった。
すらりと伸びた手足、白い肌、栗色の柔らかそうな髪。
初めて見る女だったはずなのに───なぜか、ずっと以前から知っているような感覚を受けた。
どこかで会っただろうか、制服を見れば同じ学校なのだから確かにそうかもしれない。
だが、やはり見覚えがないなと首を傾げた。
『ゆい!』
それが、彼女の名前らしい。
呼ぶ声に振り向いて、それから俺に頭を下げると彼女はその場から走り去った。
背中で揺れる髪に───不覚にも見とれた。
それからだ。
「牛島さん、何見てるんですか?」
「なんでもない。」
「えっ、まさか女の子?!」
「そんなわけないだろう。」
気が付けば、彼女を目で追いかけている自分がいた。
今まで見ようとしていなかっただけで、探そうと思えばその姿は2・3日に一度は見かけることができた。
昼休みの学食、移動教室の合間、部室へと向かう渡り廊下で足を止めれば、友人と連れだって歩く彼女を見かけることもある。
わかっていることは、「ゆい」という名前と……1つ下の学年だということ。
これは最近になって玄関の靴箱で彼女を見かけたことで知った。
「牛島さん、もしかしてあの子のこと気になってます?」
一瞬だけ、目が合った気がした。
だが、その瞬間は横にいた後輩に話し掛けられたことですぐに過ぎ去ってしまう。
「何のことだ。」
「や、だって……。」
「何も見てない。」
「えーでも、」
「見てないと言っているだろう!」
いっそソイツに尋ねてみれば、彼女の苗字くらいわかったのかもしれない。
だが、聞くことができないままに───いや、それを聞かなかったせいで……俺は今、「最悪」な状況に遭遇している。
ターミナル駅の前、並んで歩く男女の姿。
チェックのズボンにブレザーを着た背の高い男と───見間違えるはずもない、男の横を歩いていたのは確かに彼女だった。
彼女が男と歩いていた。
「最悪」としか言いようがないのは、その男が……俺のよく知る男だったことだ。
「ゲッ!」
あからさまに顔を歪めて、俺を見たその男。
それはこちらのセリフだと言ってやりたくなる。
本当にコイツと付き合っているのか?
だとしたら、即別れることを提案する。
コイツのことはよく知っているが、質の悪い男だ。
しょっちゅう女子生徒に囲まれているし、キャーキャー言われて喜んでいる、そんな男だぞ。
こんな男と付き合ったりしたら、絶対にロクなことにならない。
そう思って発した一言は、事態を思わぬ方向に展開させた。
「最悪」、それ以上に悪い状況を表す言葉───それを今、俺は懸命に探している。
「及川、貴様。彼女と知り合いか?」
同じ学校の女生徒が誑かされそうになっているのだ、聞いて悪いことではないはずだ。
「ハァ──?!」
しかし、当の及川はこれ以上ないほどの迷惑顔で俺を見て、
「え、ゆいちゃん。もしかしてこの人と知り合い?」
などと彼女に話しかける。
当たり前だ、俺たちは同じ白鳥沢の生徒でおまえの方こそ何の関係もない部外者だろう。
「あ−、うん。同じ学校の……先輩。」
「それは知ってるけど!いつの間に知り合いになっちゃってるの?ダメダメ、絶対ダメ。」
何が「ダメ」だ。
それこそこっちのセリフもいいところだ、おまえのような男と付き合うなど彼女が不幸になるだけ───。
と、そこまで思って気が付いた。
俺は……この女のことが好き、なのか?
辿り着いた結論に愕然とするのと、及川の口から衝撃的な一言が発せられたのは、ほとんど同時だった。
「だから白鳥沢なんか行くんじゃないって言ったでしょ、お兄ちゃんは許しませんよ。」
………!
な・ん・だ・と!!!
「いや、そこ徹くんに関係ないでしょ。その前に知り合いってほどじゃないし、顔知ってるってだけだから。」
どこかで会った気がしていた。
ずっと前から知っているような、そんな気がしていた。
それは───彼女が、及川の……妹だからだったのか??!
「……バカな。」
「えー、誰がバカだって?超失礼なんですけど!はー、なんでこんなトコで見たくもない顔見なきゃなんないかなー。」
相変わらずよく口のまわる男だ。
いや、待て!
だが、しかし……
「ま、待て、及川……!」
「及川」の名前に同時に振り返ったその顔───それは、確かによく似ていた。
しかし、もうその時……俺は後戻りできないところまで来てしまっていたのだ。
及川ゆい。
彼女のことを───今更忘れることなど、俺にはできそうにない。
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