□憂鬱なスピカ 9
夏の終わりに引っ越しをした。
特別な理由があったわけじゃないけど、「何かを変えたい時はとことん変えるのがいい」なんて言葉に少しばかり感化されたりして。
住所が変わった、恋人と別れた、スマートフォンも買い替えて、ついでにアドレスを断捨離した。
だけど、仕事まで変える勇気はあるはずもなくて──今日の私も少しだけ息苦しい一日を過ごしている……
──はずだった。
「しょう、しん……。」
終業時間も見えてきたかという時刻、別室で告げられた言葉をすぐには呑み込めない。
「昇格は半年先になるけど、まずはその準備ということで部署を異動してもらうことになると思う。」
「わかりました」と答えたのはほとんど反射的なもので、正直頭が追い付かない。
「大丈夫?」には、「大丈夫です」。
「よろしくね」には、「頑張ります」。
社会人の答えはいつも決まっていて、自由なんてない。
大人になるってそういうこと、そんな風に受け入れて、諦めて、いつの間にか何も感じなくなっていた制限だらけの日々。
ブラックスーツにパンプス、お決まりのこの服と一緒。
異動、昇進、それで半年後には部下ができる。
そんなこと考えたことがなかった私には、あまりに突然の出来事だった。
仕事は嫌いじゃない。
やりがいも達成感もそこそこあるし、何より収入は同世代のそれより多い。
自分の足で立っていると思える、それが私が働く意義。
頑張ってきたという自負もある。
仕事に向かないとは思わないし、それなりに要領よくもこなしてきたつもり。
でも、私──本当にずっと頑張っていけるのかな。
片付けてしまおうと思った仕事を前にしても捗らなくて、残業を切り上げた。
電車に乗るのが面倒くさい、だからもうタクシーで帰ろうなんて考えながらエレベーターに向かう。
エレベーターを2つ乗り継いだロビー。
正面玄関を出ればすぐに大通り、タクシーは簡単に拾える。
だけど、
彼の登場は、いつも突然だ。
「ゆい!」
「えッ、」
会ってない、声も聞いてない、メールもLINEもない。
すっかりテレビの中の人、そんな風にさえ思っていた私の前に現れたハリケーン。
「待っとったで。思てたより早いやん。」
大股でホールを横切る背の高い姿に、周囲の視線が集中する。
「いやいや、待って。その前になんでここにいるの。」
「それはこっちのセリフや!何も言わんといつの間に引っ越してんねん!」
なんで知ってるのの前に、まずこの状況が居たたまれない。
「ちょ、大きな声出さないでよ。」
そこから先は、完全にデジャヴだ。
「じゃあね、侑。私、ちょっと考え事あるから。」
「いやいや、そうはいかん。」
「ちょ、待ってよ!え、冗談でしょ、ウソ。」
「ええから、ええから。はい、運転手さん出してええよー。」
タクシーに乗り込む私とその後に続く侑。
「で、どこ?」
「ウソでしょ。」
「ほら、言わんと。運転手さん困っとるで。」
ああ、ホラ。
完全にこれ、覚えあるやつ。
「なんなの、もう……。」
それで、また繰り返し。
「はあ、またええとこ引っ越したんやなあ。」
テレビ台の横にワインセラー。
初めて訪れるはずの我が家で、勝手知ったるふるまいの彼。
「ん、赤にしよか。かんぱーい!」
「………。」
カチリと鳴ったグラスから赤い液体を一口、だけどこんなのってやっぱり変。
「ねえ、なんでこうなってるのか最初から説明してくれない。」
ソファーに深々と腰かけてくつろぐ侑に、ようやくため息をついた。
ため息もでないくらい、それくらい怒涛の展開だった。
「まあ、つまりやな。」
なんだかもう、今日って本当にめちゃくちゃだ。
頭の整理が追い付かない。
突然の内示にどうしようって茫然として、ああそれで、家に帰ってちゃんと考えようって思ったんだった。
それで、ええと……だから……
「メダル取れたら結婚しようって約束したやろ!」
「………。」
それで、
「いや、なんか反応してや。」
「………。」
ええと、なんだっけ。
「ゆい、聞いとう?」
「………。」
それで、結婚。
そうだ結婚ね、って……!
「……はあああ?!そんなの聞いてない!約束なんてしてないでしょ!」
説明してよと言ったはずが、説明になんてなってない。
第一そんなの覚えがない。
侑が今ここにいることだって、私にはまったくの想定外。
それなのに──
「いやいや、覚えとるはずや。」
と、侑。
「そんなわけないでしょ。」
と、私。
こうなってしまうと何が本当で何が冗談かなんてもうわからない。
「間違いなく約束しとる。」
「いつよ、いつ!」
「そら、あの時に決まってるやろ。」
「はあ?あの時?!」
「あの時って言うたら、そらなあ……。」
「ッ待って!言わないで!言わなくていいから!」
「何、照れとうー!ゆい、赤くなっとるでえ。」
アハハと笑う侑に閉口。
「いいからもう」って言いかけた。
「あんたってどうしていつもそうなの」って。
いつだって勝手で、気ままで、私の都合なんかお構いなしで現れて、それでまた消えて。
こんなことに付き合わされる身にもなってよって。
だけど──
「……思い出した。」
何がきっかけ?
わからない。
それは突然に、私の脳裏に甦った。
曇り空を割って差し込む光みたいに、胸の奥を照らして──浮かび上がる記憶。
あの日、
青白い光の中、私を見つめた侑の視線。
それが、よみがえる。
「!」
今また、見つめ合った視線。
先に目を逸らしたのは、侑の方だった。
「……お、覚えとるやん。」
一瞬で、耳まで赤く染まった顔。
それを隠すように片手で顔を覆った彼に、解けていく記憶の糸。
二人過したあの夜、侑が告げた言葉。
──あんな、ゆい……
『俺が帰ってくるまで、少しだけ待っててくれへんかな。』
まどろむ中で、確かに彼の声を聞いた。
どんな甘い囁きよりも、まっすぐに胸を打つ声。
『俺、ゆいのこと好きやねん。だから少しだけ、俺のこと待ってみてくれへんかな。』
その言葉に、私はなんと応えたのだろうか。
「あ、つむ。」
──確かに恋をした。
あの日、私たちは。
思い出に寄り添って、互いの傷を癒すみたいに抱き合って、
だけど、あの瞬間は──懐かしいだけじゃなかった。
「……あかん、顔が見れんわ。」
突拍子もなくて、強引で、勝手気ままに私を振り回す侑。
その彼が、素顔を見せたあの夜。
それを、覚えている。
扉をこじ開けようと押し寄せる波に、胸が震えた。
ああ、確かに恋をしたと──この身体が覚えている。
「俺な、イタリアに行くねん。」
散々に「恥ずかしい」、「死ぬ」とのたうち回った後で、グラスのワインを飲みほして侑が言った。
「イ、タリア……。」
「移籍の話。リーグ終わってからやけど、どうかって。」
オリンピックでの活躍からしばらく後、イタリアのプロリーグから移籍の話が届いた。
所属チームもそれを歓迎しており、詳細はまだというものの渡航はほぼ決定しているらしい。
「すごい、ね。」
素直にそう思った。
スポーツのことは正直よくわからないけど、海外リーグに挑戦するというのはどの競技でもきっと名誉でかつ険しい道なのだろうとは想像がつく。
現実感のない響きに曖昧に返事を返すけれど、侑の目は真剣そのものだ。
「ありがたいなとは思うよな。」
けど、と一呼吸おいてから私を見る侑は、もう照れたり恥ずかしがったりはしていなかった。
「けど俺、ゆいと離れたない。」
まっすぐな視線が、私を見つめている。
「……俺な、あの時ゆいに置いてかれる気がしてめちゃくちゃ焦ってん。」
伸びてきた指先は、迷うことなく私の手を取って。
厚い手のひらに包まれると、それだけでほっとする気がするから不思議だ。
「バリバリ仕事して金稼いで、格好ええな、ゆいめっちゃええ女やなって。それに比べて俺はって……だから、必死になって追い付こうって思てん。」
「侑、私は……。」
そんなんじゃないよと言おうとした私の手を侑が引いて、腕の強さに驚く間もなく背中を抱かれた。
すぐ近くに、侑の呼吸と心臓の音を感じている。
「メダル取ったからってゆいに何がしてやれるわけでもない。けど、俺は強くなったし、ゆいのこと……今は自信もって好きって言える。」
あの頃と変わらない、体温の高い侑の胸の中。
けれど、あの頃よりもずっと逞しくなった腕が私を強く抱く。
「なあ、ゆい。もう一度……俺のこと、好きになってくれへんかな。」
私たちはもう、あの頃とは違う。
子どもじゃない、無邪気でも純粋でもない、責任や常識や色んなものに雁字がらめになった大人。
だから、好きなだけで一緒にいられるわけじゃない。
だけど、
ううん、だからこそ──今の私たちだからこそ、始められる恋もあると思えるから。
「もう好きになってるよ、侑。」
何度でも、恋をする。
笑い合った青空、泣いた冬の日。
茜空の再会、夜にまた君を想う。
触れあうたびに欲張りになっていく想い、今度こそきっと、離れるなんてできない。
運命?
違う、そんな無責任な言葉じゃなくて。
私たちは選択する。
覚悟と──そして、希望をもって。
「ゆい、俺と一緒にいて。」
頷くだけで、世界は変わる。
大人だってほら、魔法は使えるから。
黒い服を脱いで、高層ビル群を飛び出した。
自分のための服を着て、新しい靴を履いて、行けるとこまで行ってみようか。
「トマトだね。」
「トマトやな。」
「あと何かな。」
「色々あるやろ。」
「色々って何。」
「フッフ、それは行ってのお楽しみや!」
誰かのために生きてみるのもいい、それが愛する人なら。
毎日の献立を考えて、シャツにアイロン……あ、そこはジャージか、アイロンいらないじゃん!
なんてね、物語はつづく。
だって、なにもかもまだ始まったばかり。
人生は上々、いつだってケースバイケース。
終わらない夢のつづきを、あなたと二人で。
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