□憂鬱なスピカ 6
「ホラ、水。それから着替え。ポカリとどっちにする?」
コンビニに寄ってスポーツ飲料と栄養ドリンクを買った。
できれば服を買いたかったけど、あいにくコンビニで買えるのはTシャツと下着くらいのもの。
違和感、だけど既視感。
前に侑がこのソファーに座ったのは、もうひと月以上前のことだった。
「……水でええわ。」
酒と胃液の混じるにおいに「どれだけ飲んだの」と栄養剤を渡してやる。
「そんなに。けど、効いたわ。」
焦点の合わない瞳で真っ暗なテレビ画面を見つめて、吐き出すように侑が言う。
「あんなに酔っ払って、ロクなことになんないんだからね。」
優しくしてあげればいい?
だけど、そうする理由が私にはない。
ずっと昔の恋人で、今の彼の生活なんて知るはずもない。
そんな根拠のない優しさに、どれほど意味があるのだろう。
「全日本代表、深夜のご乱行!とかさ、そういうの書かれたらどうすんの。最近多いじゃん、週刊誌のやつ。」
勢いよくミネラルウォーターを飲み下す侑に少しほっとして、私も隣に腰掛けた。
「フッフ、なんやそれ。」
ため息のような、笑い声。
それから──
「それに、全日本代表やなくて、"元"代表や。」
テレビ画面を見つめたままでそう言って、侑はまた一口水を口に含んだ。
こともなげに告げられた言葉に、咄嗟に言葉を返せない。
「これ、飲んでええの?」
そんな私に構う様子もなく、侑は茶色の瓶に入った栄養剤を振ってみせた。
「あ、うん。飲んどきなよ、効くかわかんないけど。」
「え、効かんの?」
「知らないよ、そんなの。飲んでみたらわかるんじゃない。」
「いい加減な話やな。」
金属製のキャップを開けてから匂いを嗅いでみせ、「うわ、これあかんやん」と言ったものの、結局一息にそれを飲んだ。
「飲んだらもう寝なよ。明日何時に起きるの?あ、土曜だから練習休み?」
「よう覚えとるね。」
「あんなことがあれば、普通覚えてるでしょ。」
「大変だったんだからね」とため息をついて見せれば、侑は喉の奥で小さく笑った。
「……聞かんの?」
「え、」
そう尋ねられる前に、少しだけ沈黙があった。
アルコール独特のにおいと、近くに感じる体温。
黙って、それを感じていた。
「何を」と返しながら、何のことかはわかっている。
そんな私の方を、侑は振り返りはしなかった。
彼の視線は、相変わらず何も写さないテレビ画面に向けられている。
「代表落ちたって言うたやん。なんでとか、聞かんの?」
「あ、うん。別に……。」
気にならないと言えばウソになる。
だけど、私から聞くなんてできなかった。
だって私、侑の今を知らない。
だから、無責任なこと言えない。
「ハハ、関心ないか。そやんなあ。」
乾いた笑い声はまるで泣き出しそうで、「バカ」と頭を小突いてやった。
「そういうんじゃないってば。だけど、聞いたらなんか言わなきゃでしょ。」
すると、
「ゆいらしなあ。」
そう言って、ようやく侑はこちらを向いた。
「けど、頑張ってとか大丈夫とか、そういうんはもう聞き飽きてん。言われるんも疲れるしな。」
侑は泣いてなんて勿論いなくて、だけど口唇を歪めて笑う姿。
「大丈夫だよ」と抱きしめたであろう、私じゃない誰かを思う。
そのことに、わずかに胸が軋むのを感じた。
「聞いてあげてもいいよ。」
「ほんま?」
「うん、だって話したいんでしょ。何も言わなくていいなら聞くくらいできる。」
「優しいやん。」
そう言って、私の肩に頭を預けた彼。
その髪を、そっと撫でてやった。
「もしかして限界なんかな、思てな。」
近くにあった体温が、今は肩に触れている。
アルコールのせいで火照った侑の身体、それが触れている。
──全日本代表に選出されるセッターは4人。
社会人1年目で初めて代表に選ばれてから、侑がその枠から外れたことはなかった。
2年前からは正セッターとして国際試合でも活躍してきた。
それが、この春の選抜では招集が掛からなかった。
ワールドカップの開催年度、その出場を熱望していた彼としては想定外の事態──。
「トレーニングも練習もみっちりやっとるし、試合で結果も残してきたつもりや。けど、なにが……あかんかったんかな。」
バレー選手としてのキャリアが、折り返しに差し掛かる年齢。
所属チームでも代表入りは当然と期待されていただけに、上層部の落胆は大きかったらしい。
「チーム勝ってたじゃんね。」
「なんや見てくれてたん。」
パーティー会場で会った時は「試合なんて見てない」と言ったけど、トーナメントの結果くらいは知っている。
「活躍しとったやろ?」
「や、そこまで見てない。」
「って、見てないんかい!」
クックと笑って、肩の上に乗っかった頭が揺れる。
「疲れたなあ、て。けど、辞めるわけにもいかんし困ったわ。」
「そりゃそうでしょ、チームもあるんだし。」
感じていた重みが消えて、侑が顔を上げる。
「けど、期待に応えられんの、辛ない?」
すぐ近くにある視線が、私を見ている。
「つら、そう……だよね。まあ、私なんか期待に応えるどころか、ちゃんとやっても上司に呆れられたり詰められたりしてるけど。」
「え、パワハラやん。」
「そうだよ、マジむかつく。次の人事異動で絶対飛ばしてやる、アイツ。」
そんなつもりもなかったのに、思い出したら本当にむかついてきた。
その顔が可笑しかったのか、侑が吹き出して、
「ッはは!おもろいなあ、ゆい。」
「全然面白くないよ、大変なんだから。」
それから、さっき私がしたみたいに──今度は侑が私の頭を撫でてくれた。
「でも……強なったね。」
目を細めて笑う、顔。
こんな表情をするようになったのだと、私の知らない侑がそこにいる気がした。
「少しはね。」
傷つくことがあると、いつも泣いていた昔の自分。
今は違う、傷ついたって立ち直れることを知ってる、涙を堪えて笑うことだってできる。
だけど、その分──いつの間にか、心に纏っていた鎧。
息苦しいほどに、大人であれという鎧は心を締め付ける。
「でも、甘えたい時もあるよ。だから、」
──わかるよ、多分。
世界と戦うなんて、私には縁のない話。
私はこの東京にたくさんいるサラリーマンの一人で、少しも特別なところなんてない。
だけど侑は、高く険しいところで戦っている彼は──きっともっと、張り詰めてるんじゃないかって思うから。
「本当に限界だって思うの?」
「なに?」
「侑は今の自分、本当にもう無理って思ってるの?」
厚みのある目蓋がゆっくりと閉じて、それからまた開く。
「思わん。」
「だと思った。」
「決まっとるやん、俺やぞ。誰だと思うとるねん、天才セッター様や!」
あの頃の笑顔で笑う、あの頃とは違う侑。
彼は、強くなった。
あの頃よりも、もっと。
鍛え上げた肉体、研ぎ澄まされた心、世界を向こうにまわして戦うだけの自信。
それを、持っている。
「俺を選ばんかったこと後悔させたるわ、アホ!」
「アハハ。」
二人、笑った。
額を寄せ合って、高校生だった頃に戻ったみたいに──ただ笑った。
「けどさ、」
こんな風に触れるのは、ルール違反。
そうわかっている。
「一つ、安易に元カレと会うべからず」、「二つ、彼氏以外を部屋に入れるべからず」、「三つ、酒の勢いで男と寝るべからず」──刻んだ年の分だけ、学んだ恋のべからず集。
どれもロクなことにならないと、文明開化の時代から相場は決まっている。
だけど──
「少しくらい休憩したって、神様は文句言わないよ。」
押しつけた額、すぐそこにある視線。
それは焦点が合わないほど近く、今にも睫毛同士が触れ合いそうなほど。
その瞳を見た。
「神様の意見なんて、どうでもええわ。」
まっすぐに返される視線。
くっついていた額が離れて、今度は焦点が合った。
「ゆいは?ゆいは……許してくれるん?休んでもええよって、言うてくれる?」
行き着く先は──いつから決まっていたのだろう。
「いいよ、言ってあげる。」
戦って、戦って、傷ついて、それでも立ち上がって、頂を目指して。
肉体を武器に、心を盾に戦って、前に進み続ける。
そんなあなたを応援してる。
だけど、もし。
もしも疲れ切って、今は立ち上がれないという時があるなら、
「休んだっていいよ、侑。」
──そして、二つの口唇が重なった。
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