■僕の女神様
最悪な気分だった。
宿題のレポートを忘れた。
「明日までだな」って昨日クラスメイトと話していたのに、忘れた。
授業の後で部活に行って、だけどいつもなら寮に帰れば思い出すのが普通。
せめて、明日の教科書をそろえる準備をしていれば、どこかで思い出したはずだ。
だけど、それをしなかった。
次の練習試合でスタメンに入れると、監督に言われてから一週間。
浮かれていたわけじゃない、むしろ練習は厳しさを増した。
着いてかなきゃって必死だった。
監督が選んでくれた、牛島さんが必要としてくれた。
だから、期待に応えたかった。
トスミスを怒られて、サーブもミスしてペナルティを食らって。
それが悔しくて、頭から離れなかった。
頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ。
せっかくのチャンス、せっかくの練習試合、このチャンスをモノにできなきゃ次のスタメン入りはないかもしれない。
だからって、宿題を忘れた言い訳になんかならないってわかってるけど。
たまたま担当教諭がうるさいタイプで、「放課後まで待つから出して帰れ」と言われたら、イヤだなんて言えない。
特待生でもない俺が、「部活があるんで」なんて言ったってダサイだけだし、それにそういう生意気を言う生徒が、一番教師に嫌われるんだってことくらいわかってる。
「補修って言っとくから」と太一が言ってくれて、「宿題忘れ」の不名誉が部内で広がるのだけはとりあえず免れた。
補修だって十分最悪だけど、宿題を忘れたことが遅刻の原因なんて知られたら、きっと余計に監督にどやされる。
イラつく。
昨日の自分に、今の自分に、ただイラついていた。
「あれ、白布じゃん。」
とにかくさっさと終わらせてしまおうと教室の机にかじりついていたところで、廊下から声がした。
「こんな時間に何してんの?」
三日月ゆい、クラスメイトだ。
──正直、見られたくない相手だった。
「宿題、忘れたんだよ。今日中に出せって言うから今やってる。」
「あー、そういえばそんなんあったね。」
少しだけ視線を動かして廊下を見た。
三日月は教室に入ってくるわけでなく、廊下側の窓から身を乗り出してこちらを見ていた。
「部活あるのに、大変だね。てか、明日でいいじゃんね。先生もうるさいよね。」
「別に、忘れたのが悪いんだし仕方ないだろ。」
俺だって、思ってた。
部活に行きたいとか、こんなん明日でもいいだろとか、いちいちうるさいなとか。
だけど、「だよな」と言えなかった。
「へえ、なんか偉いね。さすが白布って感じ。」
どうしてなんてわからない。
だけど、素直になれない。
今はただ、大事な時期に宿題なんか忘れた自分にイラついていて、それで、三日月に素直になれない自分にもっとイラついた。
「さすがとか意味わかんねーし。」
そんな言い方する必要なかったって、わかってる。
三日月に当たりたいわけじゃない、俺がイラついてるのは俺自身なのに。
「……ふぅん。」
それきりだった。
廊下を遠ざかっていく足音に、手が止まる。
顔を上げられなくて、プリントを睨んだままで、だけど足音が完全に聞こえなくなると今度は廊下が気になって仕方ない。
ようやく顔を上げたって、そこに三日月はいるはずなくて。
それなのに、立ち上がって廊下まで歩いて行って左右を確認した。
誰もいない、放課後の廊下。
三日月がそこにいた気配だって、もう見つからない。
(なに、やってんだよ……ッ!)
机に戻るけど、プリントの内容が全然頭に入ってこない。
何もかも、うまくいかない気がした。
勉強しなきゃ、部活だって先輩たちに着いてかなきゃ、ちゃんとしろよ俺!
そう思うのに、もう何もかも手遅れになるような気がした。
三日月のことだって、きっと──。
クラスメイト。
明るくて賑やかで、俺がちょっとくらいイヤミを言ったってヘコたれない相手。
「ウケる」とか笑って逆にイジられたりするすると、本当は少しドキドキする。
だから──こんなダサイとこ、見られたくなかった。
とことん情けない気持ちになって、だけどプリントだけはさっさと終わらせないといけない。
集中力を取り戻そうと、深呼吸した時だった。
「しーらーぶ!」
呼ぶ声に、ハッとなった。
反射的に見た廊下に、笑顔の三日月。
いなくなったんじゃねーのかよ、だって怒らせたって思ったから。
三日月がそこにいて、俺の悪態なんか気にしないみたいに笑ってる。
それだけで──まるで奇跡みたいに思えた。
「白布少年よ。」
まっすぐに教室に入ってきた三日月は、ためらう様子も見せずに俺の席までやってきた。
少年ってなんだよと、いつもなら言い返すところだ。
だけど、今は声が出なかった。
「なんだよ」も「ごめんな」も出てこない。
「いつも頑張ってる白布少年に、これを授けよう。」
にっこりと歯を見せて、三日月は笑った。
「じゃね、ファイト!」
机の上に紙パックを置いて、それきり俺に背を向けた。
「バイバイ」と手を振る三日月は、もう廊下に出ている。
俺はただ、それを呆然と見てた。
「マジ、かよ……。」
だって、こんなの予想してない。
絶対嫌われたって思ったし、何もかももう最悪だって思った。
今日の部活だって自信をなくしてた。
だけど、
「イチゴミルクって何だよ。」
ひとり言。
おまけに笑いがこみ上げてきて、誰もいない教室でニヤける俺はたいがい変人だっただろう。
心が、軽くなっていく。
紙パックのイチゴミルク。
休み時間やなんかに三日月が飲んでるお気に入り。
ピンク色のパッケージ。
冷えたパックにストローを刺して、一口。
甘い液体が、ごくりとノドを伝って胃に流れていく。
「あっま!」
思わず声が出た。
あいつ、いつもこんな甘いの飲んでんのかよって、ただそれだけで笑えるくらいもう気分が軽い。
甘い甘いミルクに、ほんのりとイチゴのフレーバー。
俺の趣味とはまるで違うそれが、意外とイケるかもって今は思えた。
ストローをすすりながら、紙パックの下に敷かれていた紙をめくる。
飲み物と一緒に三日月が置いてった、メモ。
最初から気づいていたけど、なんて書いてあるのかってドキドキして今まで見られずにいた。
二つ折りにされた、ルーズリーフの切れ端。
可愛らしいメモ用紙なんかじゃないところが、いかにも三日月らしい。
『頑張ってるのカッコイイけど、頑張りすぎたらイカンぜよ。でも、応援してるよ!』
ブルーのペンの走り書き。
だけど、それは──魔法のコトバ。
(ぜよってなんだよ……!)
「ッ、」
だけど、ヤバイ。
これは、多分ヤバイやつだと思う。
だって、すげー心臓がうるさい。
さっきまで冷えきっていた指先までも、なんだか熱い。
顔が笑う、心臓がうるさい、それでどこもかしこも熱い。
こんなのって──毒だ。
甘い甘い毒、凝り固まっていた頭も指先も動き出す、まるでドーピング。
「おー、白布早かったじゃん。」
片付けたプリントを職員室にダッシュで提出、部室で着替えてから体育館に向かう。
一番最初に声をかけてくれたのは、太一だった。
「おう、サンキュな。」
そう言ったら太一が目を丸くして、だけどそれを無視して監督の元へと走る。
「すみませんでしたッ!」
覚悟して勢いよく頭を下げるけど、怒鳴られはしなかった。
「アップしてさっさと入れ」ってそれだけ、なんだか拍子抜けだ。
紙のパックは教室のゴミ箱に捨てた。
だけど、メモは大事に取ってある。
部室に置いたバッグ、俺だけの秘密のお守り。
駆け出す足は不思議なほど軽くて、さっきまでの自分が嘘みたいだ。
「賢二郎ー、おつかれ。アップ取るなら付き合うヨー。」
なんて、コートの中にいた先輩の声。
「あ、あざす。」
戸惑うけど、レギュラー定着を目指すなら先輩たちとのコミュニケーションは必須。
頭を下げたら、天童さんが「あれ」と眉を上げた。
「え、」
「んー。」
「な、なんですか。」
「言ってイイ?」
天童さんは不思議な人だ。
独特のリズムというか、クセのある性格というか、とにかく2年の俺にはまだよくわからない人だった。
だから、少しばかり身構える。
「あ、ハイ……。」
思わず眉間に力が入って、だけど──
「昨日までと全然顔が違うネー。何かいいコトあった?ていうか、顔赤くない?あ、もしかして──。」
「ま、待ってくださいッ!」
ひといきにまくし立てられて、一気に顔に火がついた。
「待って、なんで……ソレ。いや、なんでもないです、なんでも……!」
「賢二郎、顔赤すぎー!」
ブヒャヒャと大声で笑われて、ますます慌てるけど「うるせえぞ、覚ィ!」と監督の一声が天童さんを止めてくれた。
照れる、照れる、むしろ顔熱すぎて燃えるかも。
だけど、
「イイ顔してんじゃん、賢二郎はそんくらいのがいいヨ。」
ストレッチの体制で背中を押す天童さんに、そう言われた。
この人、怖い。
すげー怖い。
ていうかなんで?!どこまでバレてんだ?!
ああ、それでも──
なんだか俺、やれる気がする。
はじめてのスタメン入り、牛島さんへのトスを任される最初の試合。
先輩たちと並んでコートに立つ。
自分を信じて、臆せずに──なんだか立ち向かえるような気がしてきた。
勉強との両立だって、きっと頑張れる。
それに──
「天童さん。」
「んー?」
「今日、後でブロック見てもらえますか?」
「ん、イイヨー。賢二郎頑張ってるもんね、太一と一緒に自主練しよっか。」
きっとうまく行く。
だって俺、頑張ってる。
初めて自分を認めてやれた。
それで、だから、つまり──
「練習試合見に来てよ」って、三日月に言おう。
俺のデビュー戦、おまえに見てほしい。
きっと胸を張って、俺はコートに立つから──!
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