□ハルジオン 7
『話したいことがある』なんて、メールを受け取った時から──きっと楽しい話じゃないってわかってた。
「憎らしいくらいに晴れてるねえ。」
待ち合わせ場所には、やたらと早くついた。
夏休みのはじまりに、二人きりで会った場所。
屋内施設にボーリング場、ランドマークのジェットコースター、結局乗れなかった観覧車。
都会のビルの谷間、けれどどこか日常を外に置いてきたような明るさがある。
ま、今の俺は──例外ってヤツだけどな。
毎日してたメールの返事が、遅くなった。
何かあったのかもしれないとはすぐ思って、だけど聞けないままだった。
今日、知るんだろう。
ゆいの出した答えを、きっと俺は知るんだろう。
前に来た時は、ただただ浮かれた気持ちだった。
木兎とゆいのことだって、もういいやって思ったし、絶対なんとかしてやるって半分決意、半分自信。
でも今は、情けないけどもう笑えない。
作り笑いの練習をして、覚悟を決めろと何度も心で繰り返した。
「黒尾くん……。」
「よ。」
待ち合わせの5分前。
現れたゆいはやっぱり眩しくて、そのことにまたギシリと音を立てる胸。
「ん、どっか入るか。」
「……そだね。」
作り笑いはお互い様──か。
無理矢理に形づくられたゆいの笑顔に合わせて、俺も笑った。
「あちぃな。」
「だねぇ。」
「なんとかなんねえのかな、これ。」
「とりあえず夏になると思うよね。」
「だよなあ。」
何事もないみたいに、交わす会話。
だけど、それはどこか空虚で、俺たちの間をすり抜けてく風のよう。
夏だ。
暑くて、だるくて、だけど眩しい季節。
ギラギラと照りつける太陽に、この気持ちは溶けて──いつか思い出になる?
そんなこともあったなって笑って、なんの痛みも悲しみも、感じなくなる?
わかんねえよ、そんなの。
だって、今はそんな風になれる気、全然しねえし。
これから告げられるであろうゆいの答えを聞く勇気だって、本当はないのに。
タイムリミットに怯えて、だけどやっぱり──逃げ出すことはできない。
「あー、生き返る。」
「ふふ、大げさ。」
「いや、マジあちぃだろ、今日。」
格好つけて頼んだアイスコーヒーのコップの表面、水滴に変わった空気が指先を濡らす。
変わっていく、ちょっとしたきっかけで。
なんだって同じだ。
二人きりで会って、毎日毎晩メールして、だけど何かがきっかけで、きっとゆいの気持ちだって変わってしまったんだろう。
俺の気持ちだけが、置いてけぼり。
だから虚しいだけなんだと、自分に言い聞かせて、
「話、聞くよ。」
自分から切り出した。
最後くらいイイ男でいたいなんて格好もつかない見栄だけど、でもそうしたかった。
「うん、あのね……。」
俯いたままで、ゆいは自分の指先をずっと見ていた。
木兎にフラれた理由、赤葦に告白されたこと、どうしたらいいのかずっと考えてたんだっていうこと。
それからあの日、俺に会ってくれた理由──ゆいの言葉を、俺は黙って聞いていた。
「前向きになりたいって思って、いつまでも引きずってたくないって。だから、黒尾くんに誘ってもらって、じゃあ出かけてみようかなって。」
「うん。」
俺がいいって思ったわけじゃないんだって、そのことにちょっとばかり傷ついて、だけどやっぱりゆいを変えられなかったのは俺なわけで──それってつまりどうにもならないってことなんだよな。
そんなことを、訳知り顔の裏で考えていた。
ここに来る前からわかってたことだ。
きっとそうだろうと予想してた。
フラれるんだってことくらい、
もう終わりなんだってことくらい、ちゃんと──心の中で準備してたはずだ。
だから、「仕方ない」って何度も自分に言い聞かせた。
最初から何もかも、「仕方なかったんだ」って。
「でも、やっぱり……。」
いよいよ、か。
まさに死刑宣告、とっくに処刑台の上にいる俺にはもうどうにかなんてできない。
「光太郎の、友達だし……そういうの、よく、ないなっ……て。だから、」
そう言ってから顔をあげて、けどまたゆいは俯いて。
「だから、ね。」
言いよどむ、言葉。
「もう、会えない?」
「……ごめんなさい。」
それで、終わり。
本当に終わり。
本当の本当の終わりだ。
良かったんだと思う。
思うことにする。
ゆいは木兎の元カノだし、付き合ったって気まずくなるかもしれない。
俺はずるいヤツだけど、ゆいはいい子だからそういうのが気になるって言って、だから──「俺が好きになった子は優しい子でした」、それでいい思い出。
そう思えばいい。
そう思うのに、「それじゃあな」ってゆいを帰してやれなかったのは、俺の未練だ。
暑い暑い夏の日、蜃気楼みたいな恋。
その──思い出が欲しいと思った。
「なあ、やっぱりアレ……乗らねえ?」
「えっ、」
戸惑う視線。
当然だ、この前会った時だってゆいは避けてた──観覧車。
だけど、
「最後の思い出、ってヤツ。ダメか?」
ずるい言い方だと思った。
そう言えばゆいは断らないって、わかってて言った。
でも、いい。
あと少しだけ、少しの間だけでいいから、ゆいを独り占めしていたくて。
だから、ずるい男でもいいと思った。
「はい、次の方!行ってらっしゃいませ─!」
案の定、ゆいはNOとは言わなくて、だけど順番を待って並ぶ間も二人はずっと無言だった。
お構いなしの明るい声に見送られて、二人でゴンドラに乗り込む。
──15分。
一周分のこの時間だけは、二人きり。
元いた場所に戻る時は、今度こそサヨナラの時間。
たった15分、それでも二人きりの──最後のデート。
「ビルばっかだな。」
わずかに揺れるゴンドラが、空へと昇っていく。
窓の外を眺めれば、東京の町並み。
「もう少し上がれば、なんか見えっかな。」
向かい合わせに腰掛けて、互いに視線を外に向ける。
「なあ、どっちの方?梟谷。」
強引に誘ったわけだから、気まずいのなんか仕方ない。
だけど、やっぱり反応がないのは寂しくて、ゆいに質問を向けた。
「どっち、かな。」
「あ、あれ、サンシャインじゃね?てことは、あっちの方か。」
「……そうかも。」
作り笑いさえ、ゆいの顔にはもう浮かばない。
それを正面から見ることはできなくて、ちらりと横目だけで確認した。
こんなことをして、俺はゆいを傷つけているのかもしれない。
俺の未練だけで、二人っきりになろうなんて間違ってたのかも。
「あ、スカイツリー。」
「おっ、マジだ。」
だけど、ゆいの声に、仕草に──俺はまだ、こんなにも。
「行ったことある?」
「ううん。」
「ま、俺もないけど。」
こんなにも胸が苦しい、息が詰まりそうなくらい、こんなにもゆいが愛しい。
だけど、もう言える権利さえなくて、
「何メートルだっけ?」
「えっと、634?」
「あ─、そだったよな。」
そんな会話で、15分を浪費していくだけ。
「お、てっぺん……。」
──残り7分半。
何か言うべきか、それとも言わないべきか。
「ありがとな」とか格好つけたら、少しはゆいの記憶に残るかな。
そんなことを考えて、
だけど、
「半分、だな。」
告げた言葉に、
「う、ん……。」
頷いたゆいの、瞳から──こぼれた涙。
(え、)
その意味を計りかねて、だけどゆいから視線をそらせなくなる。
「ッ、ごめん。」
「お、おい……。」
なんで泣いてるんだよ。
なんでそんな顔するんだよ。
なんでそんな風に、なんでなんで──
「泣くなよ。」
「ごめん。」
「や、悪い。そうじゃなくて、」
口に出せなくて、
「ごめん、黒尾く、ん……。」
だけど、なんでだよって何度も思って。
「ゆい、」
「ご、め……ッん。」
だって、そうだろ。
なんでって、こんなの──期待する。
「ゆい。」
「……うん。」
「ゆい。」
手を伸ばす。
「……うん。」
伸ばせばすぐに、触れる髪。
それに、触れる。
触れて、撫でて、涙を溢れさせたゆいの顔をのぞき込んだ。
「ご、め……ッ。」
つぶやきが、嗚咽に変わる。
「いいって。いいよ、ごめんな。」
滑り込んだゆいの隣。
「ゆい、ごめんな。泣いてるの、俺のせいだよな。」
小さな頭を腕に抱いて、震える背中に手を伸ばした。
「ちが、う。私……も、会えないって思った、ら……。」
──ああ、なんて悲しくて愛しい言葉だろう。
それで、わかった。
ゆいの涙の意味、ゆいの気持ち──多分、間違いじゃない。
俺が追い詰めたんだよな。
勝手に熱を上げて、勝手に好きになって、木兎の元カノだってわかってるのに、かまわずに追いかけた。
それが、ゆいを追い詰めてた。
だけど、
「けどさ、ゆい。」
腕に抱いたゆいの頭の向こうに並んだビルが、蜃気楼に揺らめいて見えた。
「けどさ、ゆい……そんな風に泣かれたら、俺はおまえを諦められねえよ。」
ガタンッ、
ゴンドラが地面に着いたのはちょうどその時で、「いや待て、気まずいだろ」と思ったけど、こんな光景はもしかして日常茶飯事なのか係員は特に表情を変えるでなく、扉から降りる俺たちを見送る。
乗った時とはまるで逆で、ゆいと俺の手は──しっかりと結ばれたままだった。
「なんか買ってくるか?」
木陰のベンチ、クソ暑いけど離れたくない。
肩を寄せて、ゆいの手を握って、流れる汗もかまわないままで。
「だい、じょぶ。」
「ん、そっか。」
泣き疲れたゆいの髪を、また撫でてやる。
「顔、あげろよ。見たい。」
そう言ってみると、
「でも、今……絶対顔ヤバイ。」
深刻な雰囲気に不似合いな答えが返ってきて、可笑しい。
だけど、ようやく頬の筋肉が緩んだのは、そのおかげかもしれない。
「いいって、見たい。」
「ヤダ。」
「大丈夫だって。」
宥めれば、ようやく持ち上がった顔。
真っ赤になった目の下、濡れた頬を指の腹で拭ってやる。
「ん、ちゃんと可愛いって。」
「ウソ。」
「ウソじゃねえよ。」
ウソじゃない、本当の話。
どんなゆいだって可愛いし、泣きはらした目は痛々しいけど──だけど、愛しい。
「あいつ、さ。」
握った手は、お互いに汗で湿っていた。
「木兎はさ、そんなことで気まずくなるヤツじゃねえよ。」
ゆい出した答え、「木兎の友達とは付き合えない」──その意味をようやく理解する。
「俺も付き合い長いからよく知ってるし、ゆいもわかるだろ。」
「どう、かな……。」
「保証するって!」
怒るかなあとは、本当はちょっと思ってる。
だけど、わかってくれるってことも、ちゃんと知ってる。
俺の友達で、それにゆいが好きになった相手。
明るくてまっすぐで、友達想い、よく知ってる。
「俺から言うし、心配すんなって。」
「うん」と返ってきた声は、まだ少し震えていた。
けどさ、大丈夫。
きっとうまく行く。
木兎もわかってくれるし、気まずくなんてならない。
ゆいはまた笑えるはずだし、俺がいくらだって笑わせてやる。
それで、もっとお互いを知って、好きになって、離れられくなって──以心伝心、もう誤解や傷つけ合うなんてしたくないから。
世界一、大事にする。
手を離さなくて、よかった。
諦めなくて、よかった。
ゆいの気持ち、ちゃんと聞けてよかった。
「なあ、ゆい。」
真夏の太陽は高く、まぶしく俺たちを照りつける。
忘れられない思い出は、今はキラキラと色をかえて──
「好きだよ、ゆい。」
始まりの一日。
最高に盛り上がる毎日の、その一日目。
つまりさ、これからもずっと──ゆいがすっげー好きってこと。
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