■黒猫dance 6
すべてを捨ててしまいたいと思ったことがある。
ブラックスーツにハイヒール。
ブランド品のバッグと時計。
ドレッサーの中に眠ったダイヤのついたアクセサリー。
都心の高層ビルで働いて、タクシーで15分のマンションに帰る。
家賃17万の1LDK、誰が泊まりにくるわけでもない部屋にリビングなんて要らないのに。
勝ち組みたいな顔をして、ビルの谷間でシャンパンを傾けてみたり。
ストレス解消は買い物か海外旅行とか、いかにも調子に乗った感じが鬱陶しいのに止められない。
ああ、こんな自分──もう要らない。
だけど、私に出来た精一杯は結婚資金を叩いて車を買ってみるくらいで。
しかも、コイツもまた無駄に高い駐車場代を消費する金食い虫だったりする。
ほんの少しの冒険。
ほんの少し自棄になって踏み出した世界。
「……鉄朗。」
抱きしめされた腕の強さに目眩がする。
背の高い黒尾にそうされると、私の身体はすっぽりと中に埋まってしまって……なんだか無償に泣きたくなる。
男の人の匂いだ、と頭の隅で思う。
土のような、獣のような──もしかしたら、それに安心するように女の心は出来ているのだろうか。
このままこの腕に抱かれて、
このまま彼の言葉に頷いて、
そう、このまま──
ドラマみたいな今夜の出来事に、身を任せてしまいたい。
「鉄朗。」
好きだよ。
私、あなたが好き。
ときめいたし、うきうきしたし、満たされたし、好きだから嫉妬した。
だけど、
「ごめん、湘南には行けない。」
厚い胸に手をついて、黒いジャケットを押し返す。
離れたくないと胸の奥が叫ぶけど、だけどそうできないこともわかってた。
「明日、会社あるし。今日ね、本当はクリーニング取りに行こうと思ってたんだ。それに、朝ごはんのヨーグルトも切れてて。」
だからどうしたってことばかりが、口を突いて出る。
顔を上げたら彼は怒っているような気がして、それが怖くて見られなかった。
「ゆい……おまえさ、」
「だから、無理なの。」
黒尾は何か言おうとしたけど、これ以上は聞けないと思った。
聞いたって、私はどうせ信じられない。
素直じゃない、
可愛くない、
中途半端に大人で、そのクセしてスマートにもなれない。
ロマンチックな言葉、ドラマチックな展開──憧れはするけど、私はその主役にはなれない。
心ごと締め付ける窮屈なスーツも、
自己満足にしかならないブランド品も、
息が詰まるような東京での生活も、
結局は捨てられやしない。
下らないと思いながら捨てられなかったものたちこそが、私。
生活にしがみついて、毎日毎日を虚しい見栄ですり減らしていく、それが私。
どこにでもいる平凡な女。
格好つけて背伸びして、それこそが私の平凡さ。
ロマンチックな恋は似合わない。
今いる場所から離れられない。
あなたみたいに生きられない。
私は──「平凡」を手放すことができない。
「わかった。」
肩をつかんだ腕が一瞬強く触れて、だけどそれきり離れていった。
ようやく見あげた先にあった顔は、怒ってなんかいなかった。
悲しそうにも呆れてるようにも見えたけど、私にはもうよくわからなかった。
「強引だったよな。仕事あるの当たり前なのに、なんか……ゆいが違う世界の人間だって見せつけられた気がして、つい無理言っちまった。」
スーツの人が行き交うこの街に、黒尾はやっぱり不似合いだ。
それで……たぶん、私と黒尾も……そうなんだろうと思う。
お似合いじゃないなんて、気づきたくなかったな。
もっと若かったらとか、
もっと大人になれたらとか、真逆の思考に揺さぶられるのは、きっと未練。
それをわかっているくせに踏み出すことも後戻りもできないのだから、やっぱり私は中途半端だ。
一歩──遠ざかる距離。
黒尾が足を引いたのだ。
サヨナラを言えなくて、立ち止まるしかできない私に向けられた口唇がわずかにゆがむ。
「俺、行くわ。」
「うん……。」
自分はどんな顔をしてるだろうかと、馬鹿みたいなことが気になる。
メイク、崩れてないかな。
服は?髪は?──なんて。
ほんの少しの冒険だったはずなのにね。
マヌケだね、私。
きっと忘れられないな。
夏が、終わる。
気がつけば、夜の風は秋のにおい。
「行かないで」なんて言えない。
けれど、「忘れないで」と願ってしまう。
ねぇ、鉄朗……。
来年の夏が来たら、少しだけ思い出してよ。
ちょっと思い出補正なんかしてくれてさ、イイ女だった的なそういうヤツ。
少しだけでいいから。
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