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放課後の教室に1人、机に突っ伏してスマートフォンを見つめる三日月を見つけたのは、本当に偶然だ。
武田先生に呼ばれて、合宿のあれこれを相談した帰り、さっきまでは大地と一緒だった。
「あ、」
「どうした?」
「や、古文の暗記の宿題。教科書、教室に置いたままだ。」
「マジか、取り行ってこいよ。」
そんなやりとりのすぐ後で、急ぎ足で向かった教室。
そこに、三日月がいた。
3年の2学期、受験生なのはみんな一緒だ。
進学クラスの教室は当然ながらガランとしてる。
その中で、三日月は一人。
「三日月?」
入り口のところで声をかけた。
ふい、と持ち上がる視線。
「どーした?予備校、今日は休み?」
「ん──。」
返ってきたのは曖昧音で、そんな反応が気になってしまった俺は三日月の机の傍に寄る。
ラインのトーク画面。
マズイかなと思いつつ、ちらりと目に入ったのはクラスメイトの女子の名前。
「チカ、彼氏と喧嘩したんだって。」
「お、おう。そうなんだ?」
唐突に三日月が言ったのは、多分ラインの内容。
「めっちゃむかつくーって言ってて、今文句すごい。」
突っ伏したままで画面をなぞる指が、文字を打ち込んでいく。
「そ、か。」
「でもさー、多分仲直りするよね。」
「あ、うん。そうだな、するといいな。」
友達の話に付き合ってラインしてただけって、やっぱ思えない。
こんなトコで一人、それにいつもの三日月じゃない。
昼間の教室では普通に笑ってた。
授業中だってヘンなとこなかった。
だって、俺はいつも───三日月を見てるから。
って、コレ!知られたらヤバイな。
うん、だからヒミツな!
「喧嘩するのってさ、」
ふいに吹き込んだ風の冷たさに、身体が震えた。
身震いする俺とは対照的に、三日月はじっと画面を見つめたままで、
「相手が自分を好きだって、わかってるから……だもんね。」
ため息のようにそう言って、手の中の携帯を伏せた。
自然、俯きがちになる視線。
その表情を知りたいと思うけど、ここからじゃ何も見えない。
「三日月?」
机の前にまわって、しゃがみ込む。
だけど、そこにあった三日月の表情に慌てた。
「……喧嘩だって羨ましい。」
潤んだ瞳、涙を耐えるみたいに震える睫毛。
真っ赤に充血した目蓋から───今にも零れ堕ちそうな雫。
「な、泣くなよ。」
思わず言った俺に、
「……泣いてない。」
三日月が顔を伏せる。
「ゴメン、そうじゃなくて。」
涙を見せまいと伏せられた顔に、胸の奥が揺さぶられた。
「そうじゃなくて、だから……。」
困らせたくなくて、戸惑って、言葉を探すけど上手く見付からない。
どうしよう、だって三日月が泣いてるのに。
違うんだよ、そういんじゃなくて。
面倒とか、話したくないとかじゃなくて───心配なんだ。
三日月が泣くの、俺は心配なんだって伝えたいのに。
「三日月。」
名前を呼んだ。
「三日月、俺。」
言葉はやっぱり出てこない。
三日月の悲しみが乗り移ったみたいに、ひどく胸が苦しい。
だから、手を伸ばした。
柔らかそうな三日月の髪に。
何も言えないならいっそ、三日月の気持ちが本当に乗り移ればいい。
苦しいとか、悲しいとか全部俺に預けて、それで三日月が楽になったらいい。
そう思った。
両手で髪に触れれば、すっぽりと納まってしまう小さな頭。
ドクンドクンと跳ねる心臓の音を聞きながら、俺はもう一度名前を呼んだ。
「三日月。」
そうしたら、今度はスラスラと言葉が出た。
「三日月、俺……なんか気の利いたこととか言えなくてごめんな。でもさ、話聞くよ。そんで一緒に泣くとか、怒るとか、そういうのなら俺にもできるから。」
三日月、俺は三日月のこと心配だし、何か役に立ちたい。
だから───
「ふふっ。」
祈るように告げたはずの言葉に、返ってきたのは笑い声で、
「菅原が泣いてどーすんの。」
顔を上げたのは、泣き笑いの三日月。
「え、あ!そうだけど、っていや!そういう意味じゃないべ!」
「え、どういう意味?」
「……ッ、ソコ突っ込むなよ。」
なんだ、コレ。
急に恥ずかしいな。
はー、どうすべ。
ていうか本当、焦る。マジで。
間近にある視線に、急に二人の距離が意識されて慌てた。
だけど、
「でも、なんか……ありがと。」
はにかむ視線に、跳ね上がった心臓。
体温が上昇したみたいに、かぁッと全身が熱くなる。
「あのね、」
「お、おう。」
三日月が笑った。
相変わらず瞳は涙で濡れていたけど、だけどちゃんと笑ってた。
「失恋したんだ、私。」
「えッ、あ……マジ、か。」
正直に言えば、そうかなって思ってた。
でも、やっぱりちょっとびっくりして、それから納得して、それで───ますます傍にいてあげたい気持ちになる。
「最近、ずっと冷たくて、」
「……うん。」
「多分ダメなんだろうなーって思ったけど、」
「……うん。」
「話し合おうって言ったらさ、メンドクサイって言われちゃった。」
アハハと三日月の乾いた声。
それは全然笑い声にはならなくて、結局───嗚咽に変わった。
「辛いよ。」
震える声が、告げて寄越した。
「うん。」
三日月の髪に触れたまま、俺は頷いた。
どうか悲しみをこの手で吸い取れますように。
そう願いながら。
「寂しい。」
「うん。」
「まだ……。」
「うん?」
「まだ……好きなんだもん。」
「そ、っか。」
鼻をすする音と、ズキンと痛む胸と。
それから、俺たちは互いに黙ったままでしばらくそうしていた。
「あッ!」
声を上げたのは俺。
ポケットに突っ込んだ携帯が震えた。
「ヤベ、大地だ。」
部活、すっかり忘れてた!
慌てて立ちあがったら、ジンと足が痺れて「イテテ」なんて顔を歪めるハメになる。
それを見て三日月が笑って、
「ごめん、私のせい。」
「違うって。」
だけど、その笑顔に───もう涙はなかったから。
そのことに、ほっとした。
「ごめんな。俺、部活行かないと。」
「うん、私こそゴメン。」
「そこは謝るなよ。」
って言ったら、
「じゃあ……ありがと。」
って、頬を染めて寄越された言葉。
ずっと秘めていた想いが、溢れ出しそうになる。
「三日月!」
「え!」
三日月の腕を引いて立ちあがらせて、それから大きく両手を開く。
「ホラ、ぎゅうって。」
「え、あの……ちょ、っと!菅原?!」
抱き締めた、目一杯。
おかしいかなとかは、その時ばかりは思わなかった。
抱き締めたいって思ったし、伝えたいって思ったから。
「俺、傍にいるから。」
「あ……。」
すっぽりと腕に納まる細い身体から、確かに伝わる体温。
それを大事に大事に抱き締める。
「な?」
「うん……。」
スン、と鼻をすする音がした。
だけど、
「ヨシ!ちょっとは寂しくなくなったか?」
腕を解いて顔を見れば、三日月は泣いてなんていなくて、
「うん、大丈夫。」
照れたみたいに笑う顔に、安心して、嬉しくて、また胸が熱くなる。
「部活、だよね。」
そう言って眉を下げた三日月に、
「そうだ、ヤッベ!」
また慌てるけど、
「電話、する。」
駆けだした教室の入り口で、足を止めた。
「うん。」
「今日、部活終わったらかける。」
「うん。」
「明日も、かけるからな。」
戸惑いとか気まずさとか、そんなものはもうどこにもなくて、
「うん。」
ただまっすぐに、そこに続く───想い。
今日も明日も、電話するから。
毎日電話して、教室でもたくさん話して、三日月の一番傍にいる。
寂しいとか悲しいとか、もう言わなくていい。
俺がさ、三日月と一緒に笑うから、もう泣かないでいい。
口に出すのはちょっと照れくさくて、それにものすごく勇気がいるけど、だけど伝えたい。
だから、きっと言わせてほしい。
「俺は、三日月が好きだよ。」
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