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■黒猫dance 5

驚いたかと言えば、その通りだ。

都心の超高層ビルのエントランス。
日本の金融街の中枢であるこの街には、些か彼は不似合いだったから。

「すげぇトコで働いてんだな。」
エレベーターを降りた私に向かってまっすぐに歩くと、彼はそう言った。

「おまえもなんか、別人みてー。」
特徴的な逆立った髪をガシガシと掻く仕草をして、黒尾鉄朗は次にそう言った。

黒いジャケットにブラックデニム、中に着たTシャツは白。
同じモノトーンでも、この街で働く人間とはまるで違った出で立ちだ。


この場所は、私にとってこれ以上ないくらい「現実」だ。
数字と人間関係に追われる毎日、自分を偽ることさえ日常になってしまった最近。
それでも、私は仕事を手放したりしない。
理由は言うまでもなく生活のためであり、つまりそれこそがここを「現実」たらしめている。

「なんか言えよ。」
そう言われても、何を言ったらいいのかわからない。
自分でも知らなかった感情が、胸の中にある。

黙っていると、黒尾は自分から口を開いた。

「あー、だからさ。もし、誤解とかしてんなら謝りてぇし、俺はおまえを怒らせるようなことなんてなんにも……。」

「……怒ってない。」
そこで、初めて声が出た。

そう、怒ってなどいない。
自分でも不思議なほどに。

「怒ってないよ。」
もう一度言った。
確かめるように噛みしめるが、やっぱり怒りは沸いていなかった。


あの日───胸に感じた引き攣れるような痛み。
悲しさと虚しさと、そして怒りの気持ちもあったような気もする。
けれど、今はそれがない。

「なにか、飲む?」
尋ねると曖昧に頷いた黒尾の先に立って、夜のオフィス街を歩いた。

オフィス街に飲食店は多い。
ここで働く無数の人間の食欲を満たし、アルコールで高揚させ、時にビジネス、時に恋愛の手助けをしてくれる。
徒歩数分の距離にあらゆるニーズを満たしてくれる場所が揃っているのだから、やはり東京は便利な街だ。
便利で、お手軽で、その代わり少しばかり複雑。
そういう意味では、私も───やっぱりこの街に染まっているのかもしれない。


「グラスシャンパン。」
ウエイターに告げた私に黒尾は僅かに目を見開いた。
シャンパンって気分じゃないだろとでも言いたそうなそれが可笑しくて、思わず笑った。

「何がおかしんだよ。」

「ふふ、意外と顔に出るんだ。」
シャンパンじゃないだろって思ったでしょと指摘してやれば、黒尾はまた頭を掻いて、「俺はビール」とぶっきらぼうに言った。

本当に可笑しい。
湘南にいる時はいつだって黒尾のペースだったのに、ここにいると違う。
都会の喧噪と肩の凝るブラックスーツに味方されているのだと気が付いて、私は少しばかり東京を見直した。

運ばれて来た互いの飲み物に口を付け、息を吐いたのはほとんど同時だった。

「よく、ココで働いてるってわかったね。」
私が黒尾のことをほとんど知らないのと同様、私についての情報は黒尾には伝えていなかった。
東京に住んで、月曜から金曜まで働くサラリーマン、彼の認識はせいぜいそれくらいだったはずだ。

「研磨が、」

「研磨くん?」

「研磨がFacebookとか見てみればって言ったから。」
そっか、とすぐに合点する。
ビジネスツールでもあるソーシャルメディアには、私の本名も写真も勤め先も出ている。
便利な時代になったなーなんて感心して、そのことにまた笑った。

「笑い事じゃねぇだろ。連絡先も知らねーのに急に来なくなってよ。」

「そう?」

「そうだろ。だって、おまえ。」

「何?」
シャンパンの泡が、喉の奥で弾ける。
それから、黒尾が発した一言は少しばかり意外なものだった。


「付き合ってんだからな、フツーは心配するだろ。」

見たことのない顔をした黒尾が、そこにいた。
首裏に片手を当てて、俯きがちにテーブルを見つめた顔。
まるで困っているみたいに眉を寄せたその顔は、本当に見たことがない。

「付き合って、る?」
一口分だけ減ったビールグラスを握る彼の、指先を濡らす雫。
見慣れない景色だと思うのに、不思議と心は揺れない。

「おまえなぁ……!」
そんな私の態度に苛立ったのか、僅かに気色ばんだ黒尾にまた意外な気持ちになる。

「ゴメン。」
謝罪の言葉は、すぐに口から出た。
同じくらいすんなりと、次の言葉も出た。


「じゃあ、別れよ。」

「はぁッ?!」
確かに、付き合おうと言われた。
キスしてセックスして、週末を一緒に過ごした。
恋人のように、感じていた時もあった。

だけど───

「恋愛で悩んだりしたくない。それに、別にあなただって相手が私である必要はないでしょ?」
それが、正直な気持ちだった。


自覚はある。
拗くれてしまった恋愛観が過去の失恋に起因していることなら、ちゃんと。
それに、私だってできるなら───純粋に愛を信じて生きたかった。

「結婚しよう」とかつての恋人に言われたのは、二人で過ごす幾度目かの記念日だった。
ホテルの高層階にあるレストランでプロポーズされて、アクセサリーを貰った。
連休に互いの実家に挨拶に行って、結婚式場を見に行った。
どこにでもいるごく普通のカップルのごく普通の幸せ。

だけど、予約した式場は打合せが始まる前にキャンセル。
理由はしごくシンプル。
彼の、結婚する気がなくなったのだ。

彼と私、若い起業家と金融ウーマンという取り合わせはそう珍しいものではなかった。
実際、私たちはクライアントの主催するパーティーで知り合った。
けれど、お金は人を変える。

大手のベンチャー企業に事業を売却し、大金を手にした彼の前に開かれた───華やかな世界。
もっと遊びたい、もっと自由に生きたい、そう願う彼を止める手段を私は持っていなかった。
そうなることが自明であることは、とても残念なことに、お金を扱う職業に就く私には身に染みてわかっていた。
私は───お金のにおいに敏感になりすぎている。


「あの店、3,000万か……もしかして5,000万くらいするよね。」
それを「ポンと買った」と研磨くんは言った。
シンガポールは税制優遇国で、投資家や起業家の中には実際に移住する人も多い。

ネットトレーダーか学生起業家か、わからないけれどお金の出所はきっとそんなところだろう。
あの女の子だって、地元の子には見えなかった。
そう思えば、今の黒尾の格好は六本木辺りが似合いそうにも思える。

「女の子にモテるっていうのもわかるし、だから怒ってない。」

「………。」
別に隠し立てするほどのことじゃない。
とっくに乾いた思い出話をしてそう言えば、彼はテーブルを見つめて黙り込んだ。

「いい男だって意味、だよ?」
泣いた。
泣いたし、怒ったし、何度も何度も悩んで苦しかった。
だけど、それは前の恋のこと。

今の私は、まるで抜け殻。

運命の恋なんて、ない。
特別な誰かなんて、いない。
恋というゲームは、より多く愛した方が負けるのだ。

「だから、降りる。ヤキモチとか疲れるし。」
夜の闇のように、包み込む腕。
内心の読めない笑顔が、返って人を惹きつける。
触れてみればもっと───穏やかで、暖かくて、時折覗かせる無邪気さにまた虜になる。
黒尾鉄朗は、そんな男だ。

だからこそ、

「好きになっちゃ、いけない人。」
きっと、私では手に負えない。
平凡で狭量な、この私には。

その気持ちは、諦めに似ていた。


「……ッざけんな!」
ガタン、と椅子の倒れる大きな音がした。

「ちょっと!」

「うるせえ!」

「うるさいのは自分だってば!」
すみません、と周囲に頭を下げる私の腕を、黒尾が引いた。
テーブルの上には、泡の消えたビールと1万円札。

「離してよ!」

「離さねぇ!」

「いい加減にしてってば!」
ぐいと腕を引いて夜の道を歩く背中に訴えるが、黒尾は聞く耳を持たない。

「ねぇ!どこ行くつもり?」

「帰るんだよ!」

「帰るって!」

「うるせぇ、湘南に決まってんだろ!」

「はぁッ?!湘南って、あなたね……!」
腕を振りほどこうと広い背中を睨んだはずだった。
はずだったのだ。

それなのに、

「名前呼べよ!」

「は?」

「なんなんだよ、さっきから!ちゃんと名前で呼べ、俺は……!」

「ていうか、そっちだっておまえとか!」
振り返った黒尾と言い合いになって、それで次の瞬間───


「ゆい……!」
あの厚い胸に抱き込まれていた。

「ちょ!」

「いいから。」

「よくない!」

「いいから、ゆい。」
その声は、まるで魔法だ。

「ゆい。俺の名前、呼べよ。」

「て、つろう……。」
気が付けば、口唇から零れていた名前。
言葉にすればまた───引き寄せられる黒の引力。


「ヤキモチとかなぁッ……こっちのセリフなんだよ。」


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