夏目

「じゃああたし、一回家に帰るわね」
「あ、俺も寮に戻るわ」
 いつかに告げると恒一が横から口をはさんだ。
「あんたもう長袖着てるじゃない」
 あたしが家に帰らなければならないのは、通夜に正装、つまり冬服で出なければならないからだ。恒一は、ネクタイを軽く緩め袖をまくった、みんなと同じような格好をしている。あたしは今半袖だ。
「夜門限過ぎるから、外出届出しとかねえと」
 ケースにペットをしまってそれを持った恒一は、弘人にじゃあまたあとでと手を振った。
 二人で連れだって階段を下りていく。音楽室は、楽器のために夏は予算を削り取る勢いで空調を効かせる。肌寒いほどに冷たさが溢れていたそこから一歩でると、なんだか解凍されるような気がした。
 けれど、
「暑いわね」
2階に下りたところで額に汗が浮く。まとわりつくような暑さ。
「アイス食いてえな」
 怠そうに恒一が呟く。
「これから本番でしょうが」
 いろんなことを意識してしまったせいか、ひどく喉にからまった声が出た。
「わかってるよ、それくらい」
 怒ったような掠れた声だったけれど、表情は変わらなかった。いつも、恒一はあっさりと思っていることを顔に出すから、今は怒ってない。
 もしくは、今、いつも通りじゃない。
「じゃあ、またあとでな」
「ええ、またあとでね」
 お互いに短い言葉を交わして靴を履き替えた。
 校門を出ると同時に後ろで髪をひとつにくくっていたゴムを外す。何の変哲もない黒髪がぱさりと背中で音をたてた。また家を出たときにでもくくり直そうかしら。
 いつもはこの学校の生徒で賑わう山峡線の阿波由良駅方面(JRや地下鉄の桜橋方面はここから遠いのでみんなバスを使う)。テスト最終日の今日は、部活生は久々の活動に明け暮れ、帰宅部の生徒はとっくに友人と遊びに出るか、家で昼寝でもしている。半端な時間の道には、あたししかいなかった。
 準急で3駅、普通で3駅。1時間弱で家のドアを開ける。
「ただいまー」
 奥に呼びかけるとおかあさんの返事が戻ってきた。
「あら、早かったじゃない。今日は通夜じゃなかったの?」
「冬服、忘れたからとりにきたのよ」
 半袖をつまんで言うと、おかあさんは手を叩いて納得した。
「お茶冷えてるわよ。持っていく?」
「ありがとう」
 受け取ったペットボトルを豪快に煽って部屋に戻り、早着替え。だらだらする気はないから、弾丸帰宅を終えてまた駅へと急ぐ。
 夕暮れ時に家を出るというのは、いつもとちがうことが始まると心をざわつかせる何かがあると思う。フルートケースは持った。空の色が重いので傘も。水筒と楽譜のファイルと財布とタオルだけが入った軽いトートバッグを提げて、駅までの下り坂を早歩きする。
 ばん、と定期券を改札に叩きつけた音に自分で驚いた。なんであたしはこんなに気が立っているのだろう。
 土曜の夜は、日曜の夜より好きだけれど、どうやったって今夜は嫌いになりそうだった。
 まわりのひとのことを考えるのがうまくないから、いつもと違った空気のひとに接するのが、難しい。うまくできないことがあると悲しくなる。勉強はできなくても自己責任だけど、ひとが関わるとなると迷惑がかかる。
「よう」
 乗りこんだ普通電車には蒼太がいた。蒼太はひとつ隣の駅から学校に通っている。
「あんた荷物少ないのね」
「そりゃコントラバス運んでもらえるからな」
 小さな斜めがけの鞄だけの蒼太は大きく伸びをした。
「斎場があるのは二階よね?」
「そうだな。下手に準急とか乗らなくてもこの時間なら十分待ち合わせに間に合うだろう」
 どうでもいいけど、二階って駅名、ややこしいよなー。窓から景色を見て蒼太が呟く。返事を求めているわけではなさそうだった。冷えたお茶を飲んでいると、ふと頭に疑問がわいた。
「蒼太はなんで弦バスを選んだの?」
「小学校のころ、背が高かったからなー。俺はコントラバス弾くと思ってたし周りもそういう空気だったんだよ。まあ吹奏楽やる上で俺に一番合うのはコントラバスだろうしな」
 飄々とした声がさらさら流れる。
「へえ、そうなの」
「んじゃ夏目はなんでなんだ?」
「あたし、小学校卒業するまで秋田にいたのよ」
「初めて聞いたぞ」
「初めて言ったわよ。それで、小学校のころ、祭り囃しの横笛担当だったの。それだけ」
「なるほどなー」
「興味なさげね」
「そんなことはないよ。楽器歴きくの結構好きだしな。掛川は小学校のころからずっとトランペットだろ。朔は中学からで、上野と青木と佐原は高校からだな」
「いつかは小学校のときボーン吹いてたみたいよ」
 この前言ってたわ、と付け加えると蒼太は驚いた顔をした。
「なんでパーカッションなんだあいつ?」
「ボーン飽きたって」
「全トロンボーン奏者に喧嘩売っていると思うんだが」
 眉間にシワを寄せて蒼太が苦く言う。あたしもそう思う。
「鳴実も理香も李織も陽章も中学からよね」
「え? ああ、戸森と盾井と樟葉と古嶋か? 下の名前でいうなよわかりにくい。あいつら同中だしな」
「そうね。ああ、あと有人は別格よね」
 あまり有人と話したことはないからよくは知らないけど、と言うと、氷炉木と俺、結構話すぞ? と蒼太は言った。
「だって本気勢だしなぁあいつ。小学校入る前からドラム叩いてたらしいし。親父さんがドラム趣味でしてたみたいで、家にあったんだと。常に睨んでるみたいで怖いけど話すと以外とおもしろい。なんかこう、頭がよくなりそうだ」
 よくわからなかったけど、蒼太が有人を買っているということはわかった。
「西城と藍埜は中学二年から始めたらしい。西城がバスケ部落ちで藍埜は野球部落ちか」
「奏は膝のけがだっけ? 達矢は?」
「んー? あああいつ根性ないから」
「……」
「神前は小学校のときトランペットやってたろ」
「うん。……あとの50期はあまり話さないから知らないわよ」
「俺だってもともと北中組とも喋らねーよ」
 蒼太のいう北中組とは鳴実と理香と李織と陽章のことだ。あの4人はよく固まって行動していて、独特の雰囲気があるから(向こうもこっちに対してそう思っているのだろうけれど)仲は悪くないけれどまあちょっと遠い。
 二階に着いて改札を出ると凛がいた。
「家、帰ってたの?」
「うんー。それよりお腹へったー」
 相変わらず超マイペースな凛にはびっくりを通り越して呆れる。
「ちょっとくらい我慢しなさいよ」
「えー夏目さん何も持ってないのー期待外れー」
「弘人じゃないんだから。もうすぐ本番でしょ」
 不満そうな顔で凛は口をとがらせる。持ってないものは持っていないの。
「JR組来たぞー」
 蒼太があたしたちの肩を叩いて指を指す。10人弱くらいの見知った顔が、こっちにやって来た。
「あれー、いつかはー?」
「あれー、上野さん、一緒に来たんじゃないの?」
「お、國田じゃん。ソレが違うんだな。いつかも夏服だったろ?」
 会話を背中に聞いて、空を見上げる。
 ただひたすらに薄暗い、梅雨の明けきらない空だった。
「曇ってんなー」
「……雨、降るわよね」
 そしたら、彩夏と奏と恒一の心も、雨上がりと一緒にわかりやすく晴れればいいのに。



¶¶¶



掛川

 神前が、トランペットのケースを抱いて歩いていた。短さで浮いた前髪の下で、伏せた目が泣きそうだった。佐原は、黙って隣を歩いてくれた。西城は、いつも通りのようだけど、あまり眠れなかったみたいだった。
 後ろで騒ぐ男子の空気の邪魔はしないように、淡々と歩いた。
「佐原」
「ん?」
「後ろで喋ってくれば?」
「いや、いいよ。先導しなきゃだし」
 相変わらず、優しかった。佐原は地図とにらめっこしながら集団を導いていた。地図を覗き見たが、駅から少し遠いらしい。
 車ばかりが走る田舎道だった。ほとんど人と擦れ違わない。
「彩夏」
「なに?」
「暑くない? 大丈夫?」
「大丈夫だけど」
「そっか、俺だけなのかな」
 額の汗が、その言葉が本当なのを示していた。佐原は暑がりだし寒がりだ。夏はよくハンカチで汗を拭っているし、冬はワインレッドのマフラーに顔を埋めて震えている。ついでに春は似合わないマスクをして鼻をすすっている。
「着いたら水、飲んどきなよ」
「わかったよ、ありがとう」
 いつも佐原が言うようなことを言ってみた。けれど、柄に合わないからか、ひどく違和感のある発音になってしまった気がする。
 ぽつ、と雨が降ってきた。傘のなかにトランペットケースを収めるため、神前と同じようにケースを縦にして抱える。横で、佐原も長いトロンボーンのケースを抱えた。
「あ、ごめん、ありがとう」
「いいよ」
 傘をさすためにちょっと立ち止まっていたのを、また歩き出す。あっという間に雨は本降りになって、視界がどんどん煙っていく。


 このまま、ここ一帯が水没すれば、どれだけ苦しいのだろう。

 思考は沈んで、いつのまにか息をするのを忘れていた。


「彩夏」
 ぱしゃんと、目の前で水が跳ねた。拾い上げられたような気がした。
「どうしたの?」
 私はまだ、呼吸が出来る。生きている。
「なんでもない」
 私は今から、死んだひとに会いに行く。














































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