坊っちゃん
夏目漱石
*ルビあり*
親譲りの
無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど
腰を
抜かした事がある。なぜそんな
無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が
冗談に、いくら
威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と
囃したからである。
小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな
眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす
奴があるかと
云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
親類のものから西洋製のナイフを
貰って
奇麗な
刃を日に
翳して、
友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の
甲をはすに切り
込んだ。
幸ナイフが小さいのと、親指の骨が
堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし
創痕は死ぬまで消えぬ。....
*ルビなし*
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮くらしていた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だめだ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙みょうなおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍いっぺんぐらいの割で喧嘩けんかをしていた。ある時将棋しょうぎをさしたら卑怯ひきょうな待駒まちごまをして、人が困ると嬉うれしそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間みけんへ擲たたきつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付いつけた。おやじがおれを勘当かんどうすると言い出した。
その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清きよという下女が、泣きながらおやじに詫あやまって、ようやくおやじの怒いかりが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖こわいとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒ゆいしょのあるものだったそうだが、瓦解がかいのときに零落れいらくして、つい奉公ほうこうまでするようになったのだと聞いている。だから婆ばあさんである。この婆さんがどういう因縁いんえんか、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。....
引用元
青空文庫「坊っちゃん」夏目漱石 著