それはほんの偶然だった。
怒りで我を忘れそうになった女を止めるべく、あいつより少しだけ冷静だった俺がヤツの両脇に腕を入れて持ち上げ、落ち着けと後ろから声を潜めて囁いた。
「まだダメだ」
「ひゃんっ」
びくっと囁いた方が竦むもんだから、持ち上げてた腕が緩んで、ヤツの空を掻いてた足が付いてしまった。
つうか、なんだ、今の声――!
「ばッ、バカ! 耳元で喋んないでよー!」
どがんッと杖が俺の脳天を直撃する。
‥‥んにゃろ、いってぇ。
「挑発に乗る馬鹿を止めてやった礼ねーのか、礼は!」
「あのまま突っ込むワケないでしょ、馬鹿バカハゲ!」
「ハゲてねえ! んな口ばっか立つから男ができねえんだよ!」
しまった。
どうして毎回毎回余計なコト言っちまうんだ。
ああホラ、ただでさえ静かに怒ってた目の前の女の顔がおっかなくなってる。
こうなると自然に治まるか誰かに止められない限り、テンポ良く返してくるあいつに墓穴を掘り続けるばっかりだ。
「どんな恋愛しようがあんたに関係ないでしょー!」
「ロクでなしに捕まったヤケ酒に付き合ってやってんだろーが!」
むに、と練った麦みたいに柔らかい頬っぺたをつまむ。
こいつも一応女だからな、拳骨やビンタやら蹴りをくれてやるワケにゃいかないから、軽く小突くかつまむくらいにしてやってる。
剣士が女相手に本気で喧嘩できっかよ。
そうやってこっちが手加減してやりゃ、こいつは遠慮なく髪を引っ張ったり爪を立て、揚句、足でがつがつ俺の腹を押しやがる。
こっちはヤツの顔くらいしか攻撃できねーってのに!
それも全然力入れてねーんだぞ!
「頼んでないわよ!」
「頼まれたってもう付き合ってやるか! 男が欲しいなら色気つけろ、イ・ロ・ケ!」
「うっさい脳筋! あんただって女の子と続いたためしないじゃないの!」
「お前は続くどころじゃねーじゃねーか! 取っ替え引っ替え惚れる男替えて、本気で惚れたことなんてねーんだろ」
「ちゃんと惚れてるわよ! でもっ、振られたら諦めるしかっ、ない、じゃないぃぃぃ」
じわ、と藍玉の瞳が瞬く間に潤んで海が広がっていく。
「えっ、ちょ、おま、今? 今泣くな! 戦闘中だぞ?!」
俺、なんのスイッチ押したー?!
今?!
今泣くな!
「家庭があるなんて聞いてないわよぅ、魔法の話が出来る人なんてそうそういないのよ? 見つめ合って笑い合えたら、この人って思うじゃない、可愛い奥さんと子供が迎えに来るって、うっかりお付き合いの提案をしようとした私なんなのよぉ、声に出そうとしたジャストのタイミングって、浮かれてた気持ちが奈落に落ちたわよ、余計な恥かかなくて、もう私のルフの導きありがとうってゆーかっ、結婚してるなら良いカオするんじゃないわよぉぉぉぉ」
あーあーあー。
目からだばだば涙溢れさせて一気に喋っから、ひきつけおこしたみたいになってんじゃねーか。
鼻水まで出て、さっきの色っぺー啼き声はどーした。
ホンっと、色気のかけらもねぇヤツ。
しかも妻子持ちときた。
年上好きってのは知ってたが、お前より上って普通結婚してる奴のが多いだろうに、全然懲りねえのな。
わんわん泣き喚くこいつの気が済むまで待ちの体制な俺に、あのー、と些か間の抜けた呼びかけをする、第三者。
‥‥これから戦おうっての、忘れてた。
「剣士のお兄ちゃんは慰めたりしないの? 泣いてる女の子とやり合う趣味無いんだけどー」
すっかり戦う意思を失くし、得物を仕舞ってる対象者が頭の後ろを掻いていた。
「こいつは気が済みゃ勝手に泣き止むからいーんだよ」
「君は彼女と付き合わないの? 付き合えないの?」
「はァ?」
やめてくれ!
こいつはナニを言い出すんだ!
彼女って、今泣き喚いてるこいつの事だろ?!
「君さぁ、彼女に惚れてるみたいじゃん。君も子供じゃないんだからさあ、好きなコ弄めしてないで抱き締めるなりちゅっちゅしてみたら? さっきイイ声出させてたし。じゃ、痴話喧嘩に付き合う義理はないから、ボクはこれで!」
「――誰と誰が痴話喧嘩するってのよぅ、私なんて、私なんて‥‥どーせ、痴話喧嘩する相手もいないわよぉッ、ばかああぁ」
すっかり逃げ態勢万全で今にも立ち去りそうな対象者に、ぐしぐしと涙を乱暴に拭った女は、杖を構えると魔法を発動させた。
お得意の水が発動し、でっかい水の塊が対象者の頭上に出現すると、重量を以て対象者を押し潰した。
今、首曲がんなかったか?
うわあ、えげつねぇ‥‥
「喧嘩するほど仲を深めた人なんていないわよ、いつも、いっつもその前に‥‥うわあぁぁん」
あああ、本格的に泣き出しやがった。
ノびた対象者と、泣き疲れたこの女の二人を抱えて王宮に戻るなんて、御免だぜ。
早いトコ泣き止んで対象者を運んでもらいたい。
「しょーがねー、ホラ、来い」
手ッ取り早く泣き止ませようと喚く女を引き寄せた、ら。
「あんたの汗くさい慰めなんていらないわよ、ばかああ」
ぐっちゃぐちゃになったカオの。
ぐっちゃぐちゃになった成分を。
思いっきりオレの服で拭いやがった!
「あっ、てめ、鼻水付けんな! ばっちい!」
存分に服を汚したヤムライハは、さっきよりも幾分さっぱりしていた。
一瞬でも憐れんだオレの良心を返しやがれ!
20120703