ポケットひとつ、ビスケット半分 |
ガリレオにレイプされているとでも思えばいいんじゃないのか。こんなとてつもなく病的な考えに行きついたのは数年前のことだ。そうすればきっと俺は受け止めることが出来るし、優しい気持ちにすらなれるし、もうどうだってよくなって笑えることすら出来るかもしれない、と考えた上での結論だった。 ただはっきりさせておきたいのは、俺の頭は意外と「正常」だということ。素数完全数はもちろん、円周率もある程度のところまではきちんと声に出して言えるし、毎日同じ時間に起床して勤め先の会社へ行き、上司、後輩、同期にだって異常を悟られたことはなかった。 それに俺は、ガリレオと同い年でもない。同年代で生まれた人間でもなかった。 1993年10月13日、世間一般にはドーハの悲劇と呼ぶこの日に生まれた男。ガリレオの顔は写真で見たことがあるぐらいで、面と向かって対峙したことも、本人に直接触れたこともなければ、どこかのアイドルグループのように会いに行ける距離にいる存在なんかでは到底なかった。 ガリレオ・ガリレイといえば、天文学を学ぶ上で切っては切れない著名人といえる。 1564年に生まれ、1642年に没するまで。ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並ぶ科学革命の中心人物として生きた男は、望遠鏡を一番に天文の世界に取り入れた男としても有名で、直接望遠鏡で太陽を覗きすぎたせいか、晩年は片目を失ったことでも知られている。そのおかげで太陽に黒点を最初に発見した西洋人、とまで言われることになったのだが、残されたものは「ガリレオ・ガリレイ」という名前と、光のない世界。幸なのか、はたまた不幸なのか。天と地ほどの差がある現実は、俺を少しやるせなさせる。 感傷的にも悲観的にも病的にもなったところで良いことない、ってことは知ってる。知ってはいる。知ってはいるのに「ガリレオにレイプ」なんて突飛に飛びまくった考えを、俺は未だに払いのける気持ちにはなれずにいる。 先ほどから漂う物欲しげな視線や、まどろっこしいやり取りでさえ俺はふり払えない。 「目隠しプレイって、どう思う」 どう思う、って言われても、まず第一に考えてみろ。俺たち、兄弟だからな。 そう言おうと思ったけれど、大前提の一線をとっくに跨いでしまっている俺に言える言葉でもないから、開いた口を閉じるだけで終わる。 さして気になる番組もなく、適当にチャンネルを止めたテレビ画面から視線を弟に移す。 ネクタイの端を掴みながら六畳半の片隅で折りたたまれた敷布団の上で、弟は割と真剣な顔つきのまま俺を見つめていた。 今日、珍しく弟はスーツを着込んでいる。今年社会人になったスーツ姿の弟を、直接この目で見たことはあまりない。成人式の日も大学を卒業する日も、会わなかったり、会ったとしてもカジュアルな普段着に着替えていたりするから、スーツも意外と似合うんだな、としみじみと感心するばかりだ。この気持ちは、テレビの記者会見で映ったこいつを見た時にも感じていたように思う。 実家ではベッドだったが、大学に入り、一人暮らしを始めたここでは敷布団だった。社会人になっても住み続けているのに、ベッドを買う余裕もなくて(むしろ畳にベッドも似合う気がしないので買えずにいる)、もうずっと布団生活だ。押入れにいちいち布団を片付けるスペースも足りないので、布団たちはいつでも片隅に与えられた定位置から部屋を見据えている。 そしてそこは、たびたびこの家を訪ねてくる弟、日々人の定位置でもあった。 「どこで見た」 「同期で、下世話な話を吹き込んでくる人がいるんだけど、その人から聞いた。結構クるって」 俺の放った重い溜息なんかに臆する弟じゃないから、日々人の首からはあっさりとネクタイが離れていく。俺たちのセックスの後みたいだ、と思う。全裸で、たまに着たままでセックスを終えると、さっきまで糸くずのように絡み合っていたのにたちまち好きなことをし始めてしまう。トイレに立ったり、水を飲んだり、背中を向けて寝入ったり。早々に日々人が家に帰ることもあった。 「ほら、試してみようぜ」 彼女が出来たときのために。 合言葉のように日々人はよくセックスの前に口にして、俺はそれを受け止める。渋々とかまんざらとか、明確な感情の方向へと振れた態度になれば、もう少しこの状況も変わって来るのかもしれないが。俺はいつでもこの言葉を聞くと土壁のように固まってしまうから、弟は好き勝手に解釈して、好き勝手に事を始めてしまうんだろう。俺の同意がどこにも明記されていない、レイプまがいのセックスを。 雑な弟が雑に広げた布団の上に雑に転がされて、ネクタイを目の上に巻かれた。結び目も雑に違いない。ごりごりとした感触が、俺のデリケートな髪事情を抱えた後頭部をいじめてくる。 さっきまで日々人の飲んでいたコーラの吐息が、唇の上を甘ったるく滑った。吐息が滑るだけで、いつまで経っても唇は落ちてこない。いつもなら適当に軽いキスして俺の体をさっさとまさぐるくせに、今日は随分とじらし気味だ。 「どう」 「どうって何が」 「目隠しプレイすると、いろいろ敏感になるって聞いたんだけど」 「どうでもいいだろ、そんなこと」 「いいかよくないかは、俺の問題だろ」 いい加減にしろよ、と恨みがましい思いをこめて日々人の股間に膝を押し付けると、星空のような暗闇の向こうで日々人が笑う気配がする。 「今日はちゃんと連絡してあるのか、母ちゃんに」 「それ今言うこと? 萎えるからやめろって。ムッちゃん、趣味悪ぃ」 「昔から何にも言わずに出て行くから母ちゃんも慣れてるけど、あれでも心配はしてるんだ。それにお前、もうすぐ日本から」 「はい、集中。ムッちゃんさ、ただでさえヤってる間、楽しそうな顔しねーから、もういい。変なことばっか考えてんだろ、いつも」 俺の服を剥きながら、日々人の声が少しだけ沈んだようだった。 数日前、日々人が訪れた時に未開封のまま冷蔵庫に放置された500mlのコーラのペットボトルは、日々人が今日取り出す直前までキンキンに冷えていた。それを掴んでいた手はいつもより冷たく、墓場の空気のようにひやりと俺の脇腹を撫でる。 キスの最中、酸素を取り込むこいつのタイミングだとか、次はどこに手を滑らせるのかだとか、そんなことばかりが脳内を埋め尽くす。それが嫌で、俺は考える。ガリレオにレイプ。俺は、あの偉大なガリレオ様にレイプされてんだ、って。 脱がされて裸になった上半身にくっついている乳首を、日々人が舌で丹念に舐める。物を詰まらせたような声が出た。 相変わらず色気ねーの。日々人が苦笑している。 ちり、と火花を散らすような刺激が経った今走ったのは、日々人がそこを軽く噛んだからだ。 さっき沈んだと思った日々人の声はもう浮上している。こいつは昔から感情の切り替えが早かった。浮き上がった声で「意外と乗り気なのはムッちゃんの方だったりしてな」なんて言いながら、俺の下着に手をかけた。 「ムッちゃん、イくの早くない」 シュ、と切れ味の良さそうな音が断続的に鳴っている。日々人がティッシュを何枚も取り出しているんだろう。先ほど日々人の手コキでイかされた体は益々無防備になり、布団の上で液体のように伸びている。いつもなら出したものの貼りつく足をティッシュで自ら簡単に拭くところだが、目隠しプレイにより視界を失った俺には、見えないものを探すのはひどく億劫だった。最中になると、宅配のピンポンすら無視するようなタイプの日々人が俺の代わりに股を拭いてくれるはずもないから、気持ち悪いものは気持ち悪いままだった。 「目隠し、もしかして気に入った?」 「気に入るわけねーだろ。っていうか、外せ」 「やだよ。いつもより反応いいから、挿れると締まりそうで気になるんだよな」 そう言ってから、ゴムとローションをいつも隠してある箪笥の開ける音がした。 イくのが早くなってる理由は、この目隠しのせいだけじゃない。 俺たちがセックスをする関係になった頃より、日々人のテクニックは確実に上達している。俺が言ってやらないから、こいつ自身が気づいているかどうかは謎だ。 学べば学んだだけ、日々人は頭がよくなる。優れた学習能力が備わってるから、結果行きつく先はこうなるだろう、と俺はいつも思ってた。 最初はキスだって下手だった。愛撫もしなかった。手コキもたどたどしかったし、フェラは俺ばかりに強要してきたのに。 「あー」 布団の上に戻ってきたらしい日々人が、音を零す。続いてまた切れ味のいい音が一つ続いた。 マジかよ。声にはしないが勝手に音になりそうで、ぐっと堪える。堪えるのが精一杯だった。 日々人が俺の股を拭いている。流石に丁寧じゃなかったけれど、それでも拭いてくれていることに変わりがない。一通り拭き終わると、日々人は俺を四つん這いにさせた。ローションをつけたぬめりのある指が、内壁を割って押し入ってくる。この感覚からすると、一気に二本、指をまとめて挿れているかもしれない。痛くはないが、肺を握り閉められているような違和感はあった。その違和感をからかうかのように、日々人の指は滑らかに動く。 にゅ、にゅちゅ。いろいろな液体がうるさく鳴いている。鳴く度に、堪え切れなくなった口から声が溢れてしまう。 「ここ、だよな。ムッちゃんの気持ちいいとこ」 「ん、ん、っ」 「正直、今日のムッちゃんの感度ヤバい」 猫が引っ掻くような感じで、日々人が器用に前立腺を刺激した。引っ掻いたと思えば、次はニキビを潰すような勢いで押されて、刺激の違いに踊らされる腰。自然と足の先は無駄な力が入り、手は布団を掴んでる。 最初の頃はこれを見つけることすら出来ずに終わってたのに、いつの間にか日々人に見つかってしまっていた。その時の俺は、終始丸裸にされたような気分を味わっていたように思う。実際服も下着も取っ払って丸裸だったんだけれど。 弟には見せたくない姿、っていうのはあるものだ。他人に対しても隠し事の一つや二つ持っているのは当たり前だし、兄弟だからこそ尚更隠し事が増えていく。 いつの日だったか俺は、性器を突っ込んだままのこいつに「恥ずかしい」とだけ伝えたと思う。どうして言う気になったか、もうはっきりとは覚えてない。連日のバイトで疲れていたような気もするし、日々人は大学受験を目前に控え、あまり顔色は良くなかった。それでも俺たちは、この六畳の狭い畳の上でセックスをした。 何が、とは言わなかった。でも日々人は「今更」とさみしげに笑って、その日ばかりは電気を消してカーテンを閉めた。 「なぁ、今日泊まっていい」 「勝手に、しろ」 「それじゃあ今日は、一回でやめなくてもいいんだ」 「まだ挿れてもねぇのに」 「ムッちゃんも俺も、まだ若いから。出来るだろ」 切羽詰まったように熱い吐息を俺の背中に押し付けられて、全身を走る血液が沸騰しそうになる。 ゴムの入った正方形のアルミ袋をびりびりと破る音が、テレビで流れるバラエティの下卑た笑い声と重なった。ゴムをつけ終えたのか、勢いよく日々人の性器が穴に突っ込まれて、思わず背骨がしなる。巻き付いてくる日々人の腕はもう冷たくなかった。 「ん、っ、う、は、あ」 バックでする時、こいつは一度俺の体にしがみつく。数秒、もしかしたら数分。動かず、ただじっと、しがみつく。タイミングの違いがあれど、する前に固まる俺と同じように、日々人は最中にこうして固まるのだ。 やがて日々人は無言のまま、動き出す。ゴム特有の引っかかりが腸壁で擦れた。潜んでいた汗が豪快な出し入れに呼び起こされて、肌を覆う。 「あ、あ、っ」 「はは、予想通りってやつ?」 よく締まってるよ、ムッちゃん。柔らかな声で言う。暗闇でしかないはずの視界に、ありありとあいつの笑顔が浮かぶようで、きつく目を閉じ、下腹部に意識を集めた。 四日ぶりのセックス。穴自体は使い込まれているものの、四日もあればやっぱりある程度はもとに戻ろうと体は命令する。先端が最奥に辿り着く度、肉をえぐるような痛みを覚えているのは、四日という間に元通りになりがる俺の体のせいなんだろう。 「次は俺が目隠しするからさ、ムッちゃん、頑張ってよ。ほら、いい、って言って」 「うるせ、黙って動いて、ろっ」 「気が紛れるだろ、ムッちゃん、痛いの我慢してるんじゃねーの」 鬱陶しいと思う。痛いだけで終わらないセックスに。気持ち悪い、とはっきり言えたら良かった。 大きな音を立てて、日々人が腰を俺に打ち付ける。 その日の夜、散々喘がされて眠りに落ちた俺は、喉の渇きを覚えて夜中の十一時ぐらいに起きた。日々人はくたくたの掛布団を俺から全て剥ぎ取り、赤ん坊の産着のように布団を巻き込んで寝息を立てている。 最中のどのタイミングだったか忘れたが、取り外されて畳に広がっているネクタイを横眼にテレビの電源を入れると、今日の夕方、ここより三十キロほど離れた街で女子大生が男に強姦されたという物騒なニュースが流れていた。幸い命は助かったらしい。しかし暴行された跡も複数あり、今は病院に運ばれているのだという。 痛ましすぎるニュースの内容も、アナウンサーの声色もひどく淀んでいるのに、今時の子らしくプリクラの中の彼女の顔だけは満面の笑みってやつだった。 プリクラは不自然極まりなく、彼女の隣は切り取られていた。 そんな彼女の隣には更に俺の知らない誰かがいて、彼女は楽しいと思ったから笑ったんだろう。友達かもしれないし、なかなか男前な彼氏かもしれない。 ポケットの中にはビスケットが一つ。 どうしてだろう。懐かしいフレーズが唐突に頭をよぎる。ポケットを叩くとビスケットは二つになるんだっけか。もう一回叩けば、またまたビスケットは増えていく。 それってビスケットが割れただけなんだろ、と小学生の頃、日々人は母がおやつとして出してきたビスケットを真っ二つに割りながら言ったことがある。 まあ、そうだろうな、普通は。だけど子供なら誰でも知ってる不思議なポケットだ。某有名な猫型ロボットも持っているように、そういうポケットがあったっていいじゃないか。 当時、幼い俺は意外とロマンチストだった。だからポケットのことも信じていた。UFOだって心の奥底から信じていられたし、ブラックホールへ身投げするような勢いで宇宙の知識を深めていった。 初めてガリレオの存在を知ったときは、この人は超人を通り越して神様なんじゃないか、って思った。だから、日々人にこう言ってやったんだ。 『誰だって何だって、信じていれば、その通りになるんだ。欲しいものを手にしたきゃ、信じなきゃダメだ』 俺の言葉を聞いて、あの時日々人はどんな顔をしたっけ。もう思い出せない。俺には、思い出せそうにもない。 知りもしない、プリクラの中だけの彼女のことを考える。 彼女は不思議なポケットを持っていただろうか。誰かといると楽しさを分け合うために叩きたくなってしまう不思議な不思議なポケットを。 何度でも叩いて、いつかビスケットが粉々になってしまっても、それすら見えずに「楽しい」と笑えてしまえるような、摩訶不思議なポケットを。 病院のベッドの上で目覚めた時、彼女はポケットなしで笑えなくなってしまわないだろうか。 蛍光色や派手な柄をバックにしたシールの世界で、またちゃんと笑えるんだろうか。 「ムッちゃん」 「悪い。起こしたか」 下着一枚の格好をした日々人が不機嫌極まりない顔を直すこともなく、上半身を起こす。振り向く俺の背後には、明かりのない深夜の六畳間にはきつめな、ワールドワイドを匂わすテレビの光。日々人の眉間のシワが眩しさで一際深くなる。この時には既にニュースも明日の天気予報へと移っていた。 「星が今日はよく見えるそうだぞ」 天気予報士の言葉丸パクリの台詞だった。日々人は特に返事をすることなく、もう温くなっただろうコーラのペットボトルに口を寄せる。筋張った喉が、煽るためにピンと張った。 「どうせこんな都会じゃ、二等星まで見えたら良い方だろ」 「木星はマイナス二.九等級だ」 「どうしたの、ムッちゃんから星の話してくるとか珍しすぎる」 「お前が宇宙飛行士になったっていうのに、何も用意出来てねぇからな。ほら確か今日から木星の」 「今日はいいや。そういう話。それよりほら、ヤろう」 「まだやんのかよ」 「何も用意してない、っていうんなら朝までヤろうよ」 星も、月も、地球の存在も忘れてしまえるはずもないだろ、お前は。昔の俺たちだって、忘れたことなかっただろ。今のお前は、昔と何も変わってない。街明かりのない場所で作られる夜を、いつも欲しがっているくせに、日々人はそんな夜にセックスをし続けたいという。 腕を手繰り寄せられた。今度触れるのは子供体温みたいな熱い手だった。体に収まり、コーラ臭いキスをする。コーラの甘さを引き継いだような手つきで、日々人が早々に俺の萎えた性器を握った。お返しとばかりに日々人のものを俺も掴んでやる。日々人の眉がに、苦しそうな歪みが出来た。こいつが気持良くなってるときの顔は、兄の俺でも悔しくなるぐらい色っぽいんだ。 「さっき俺が声かけるまで、ムッちゃん、なんか歌ってなかった」 「そうだったか」 「なんだっけ、ビスケットの歌だっけ。タイトル忘れたけど」 「お前はあれだ、叩くことに夢中になりすぎて、ビスケット粉々にしそうで怖いよ、俺は」 俺は兄弟でセックス出来てしまう、お前が怖くて仕方ないんだよ。 木星から近い順に、イオ、エウロパ、ガニメテ、カリスト。1610年にガリレオが発見したこれらは特別に「ガリレオ衛星」なんて名前がついている。木星を周回軌道する衛星は60以上にものぼるけれど、ガリレオ衛星だけは格別に大きい。 ここの望遠鏡なんかなくても、双眼鏡さえ持っていれば誰だって見えるのよ。 シャロンはそう言って、咳を切らしてやって来た俺たちを迎えてくれた。俺が二十二の時。日々人は十九の時だ。 これと全く同じセリフを以前聞いたのは、更に六年前の十六の頃。あの時も隣に日々人がいた。行こう行こう、とせがむ日々人に無理矢理連れて来られたんだった。 ただ六年前の俺たちと違うことは、兄弟でセックスをするようになったということだ。親には当然言えるはずもなく、シャロンにだって言えない危険なお遊びをしている。 ドームの隙間から星に手を伸ばすように伸びている望遠鏡の標準は月や、彼女と同じ名前の惑星だったりするのだが、その日は珍しくバウムクーヘンみたいに年輪を重ねたしましまの木星が眼前に迫っていた。 木星は六年に一度、相互食が起きる。ガリレオ衛星同士がむしゃむしゃ食べ尽すようにしてお互いを隠し、日食や月食のように地球に住む俺たちの前から姿を消すのだ。 シャロンが入れてくれたハーブティーを飲む俺の前で、日々人が双眼鏡を覗いている。シャロンの夫である金子進一さんが使っていたという双眼鏡が、日々人を宇宙へとトリップさせていた。 六年前のあの日、シャロンは自分の双眼鏡を俺たちにくれた。すでにあまり二人そろって天文台に顔を見せることがなかった俺たちの、油のない関係性にシャロンは気づいていたのか、わざわざここに来なくても、双眼鏡があれば二人で見られるでしょ、とその日もせきを切らしてぜーぜーと肩で息する俺たちに渡してきた。もちろん俺たちはシャロンのくれた双眼鏡よりも性能の良い望遠鏡を持っていたし、シャロンもそのことは知っていたはずだ。 双眼鏡は二つの目で唯一遠くを覗ける道具でもある。宇宙望遠鏡や、パラボラアンテナ六十以上からなるアルマ望遠鏡のように宇宙の深淵は覗けなくても、ガリレオは自らの手で二十倍の倍率の望遠鏡を生み出し、宇宙の真理を求め続けたときのものと同じ光景が見てしまえる。 自分の目を失ってまでガリレオが求めた宇宙は、今やその二十倍クラスのありふれた双眼鏡で事足りた。技術の進歩とは、時に無情だ。それこそ利便を求めた人間がポケットを叩きに叩きまくって生み出された産物なんだろうし、ガリレオよりもっと先の宇宙を見られるようになったんだから、天文史上としては幸せな話でしかない。 シャロンおばちゃん。ガリレオの目は星に食べられたのかな。自分が見つけた衛星たちみたいにさ。 日々人に聞こえないように、耳打ちでもするような声で言う俺を、シャロンはゆっくりとした動作で見てきた。彼女の色素の薄い、それこそ木星の色にも似た瞳が、暗がりの中で浮かんでいる。 ふふ。ムッタはやっぱりロマンチストね。昔も今も、あなたの目はいつだって星空の色をしているもの。進一さんも。視力を失った世界だって、星空の色だわ。ガリレオは星空を見続けるあまりに、それに憧れてしまったのかもしれない。そう思った方が、光のない世界にも、星の光が生まれて、ずっと笑っていられそうじゃない? 春の夜は肌寒い。綿毛のような色をしたカーディガンの上を細い彼女の手が、頼りなさげに滑る。 俺の目が見ているものは実の弟の勃起したペニスです、なんてあまりにも情けなく、シャロンに言えるはずもなかった。双眼鏡をもらったのに一度も二人でそれを使ったことがない、とはもっと言えなかった。 お、イオがエウロパを食べてる。 日々人の微かに掠れた声が、シャロンと俺の間を風に乗って滑り抜けた。心の中までをも駆け抜けていくようだった。 セックスをしたい時だけ、日々人は部屋にやって来る。 きっかけはなんだったろう。多分俺の部屋に遊びに来た日々人と酒を泥酔近くまで飲んだことがあって、そのまま持て余した若さと勢いと性欲をぶつけるように、なし崩しにやってしまったんだっけか。俺はまだ彼女がいなくて、日々人は別れたばかりで。日々人のやけ酒に付き合うつもりで飲んでいたはずが、ひどいしっぺ返しにあったもんだ。立て続けに四発分突っ込まれた俺は三日間ぐらい腰が痛くて、友達にこの時ばかりは不審がられたな。 日々人は何も見えてない。良い意味でも、悪い意味でも。昔も、そして今も。 男の、しかも兄である俺とヤりながら、何度も気持ち良いという。またヤりたいという。ヤり足りないともいう。日々人の目が見えているなら、普通思うはずもないことを、お前は言う。 どうせ見るなら、星だけ見てりゃいいのに、どうして。 「ひ、びと。目、隠せ」 ゴムは在庫が尽きた。だから俺の中は生のペニスが出たり入ったりを繰り返して、精液とか汗とかがミックスされている。 日々人の汗を受け取った頬を動かして告げた言葉に、真上に覆いかぶさる日々人は張りつめていた気を少しだけ緩めて微笑んだ。まるで親に許しを得た子供のような笑みだった。 「やっぱり気に入ったん、だ」 「ハマるわ、これ。いいよ」 何もかもが見えなくて、何一つ見えないはずなのに見たいものだけが見える気がして、いい。 抜かずに転がってたネクタイを探し出し、日々人は俺の目を覆う。再び、ガリレオの知る夜がやって来る。 日々人が動き始めた。肉と肉が激しくぶつかる。痛いはずなのに痛みがどうでもよくなる。その軽快な音に合わせて、俺の頭の中には、またあのビスケットの歌が流れ始めた。 だけどこの歌の最後は、とんでもない意外性を秘めている。 「は、欲しいな、俺も」 「なに?」 「いや、もっと激しくしろ、って言ったんだ」 俺もこの歌の主人公みたいに、こんな不思議なポケットが欲しい。 持っているように歌っていきながら、ただの願望だなんてあんまりだ、と子供の俺は思った。でも、日々人にそんな気持ちを味あわせるのも違う気がして、こいつに最後の歌詞は教えなかった。 俺だってもっと夢を見させて欲しい。 そうすればガリレオにレイプされなくて済んだ。日本を離れるお前に、ビスケットぐらい贈ってやれた。お前に「おめでとう」と素直に言ってやれたんだ。 次に会う時、俺たちはセックスをしないだろう。お前は立派な宇宙飛行士になって、ガリレオの見えなかった世界を本物の目で見るんだろう。大きな家に住んで、可愛い犬でも飼って、可愛い奥さんと絵にかいたような幸せな生活、ってやつを営めばいい。 俺はいつまでもポケットを見つけることが出来ず、下手な笑顔をしたまま、今日々人に触れるこの手でビスケットを真っ二つに割るだろう。 ガリレオが知る、作られた夜の下でただ一人。 今日の部屋の空気はひどく、澄んでいる。 終、 2014.01.23 |