5893回、好きと言う |
拾ったものは、オーロラに反射する空っぽの貝でもなく、砕け散った珊瑚でもなく、生きている人だった。 青と蒼との間に引かれた水平線。人が生まれ落ちたときからあったから、人じゃない何者かが引いたんだろう、今日は極太のマジックで引いたように濃く、真っ直ぐだ。だけどこれも絶対じゃない。 雨が降る前には水でぼかしたようにあやふやになってしまうからね、そんな日は必ず折り畳み傘を持って出かけなさいな。亡くなるまで現役の海女だったばあちゃんの口癖だった。 しかし律儀に守っていたのも、俺が高校に上がるまでの話で、大人になった今、折り畳み傘を持ち歩くことも減り、多少の雨には動じないようになってしまった。かといって突然の雨を防ぐことは出来ないので、何処かの店の軒下まで濡れながら走ることも多々ある。 島の沿岸部にある、沿岸漁業が主の漁港を中心とした小さな港町。俺はここで産まれた。 コンビニはない。ファミレスもない。飲み屋はあるけど、それこそ都会によくある低価格重視のチェーン店を想像したら大間違いで、どちらかといえばさびれたスナックみたいな雰囲気。 町内の学校は公立中学校までしかなく、子供は15の歳で住み慣れた町を出ることになる。近年稀に見る若者不足らしく、ここの町長はずっと毛のない頭をこねくり回しているけれど、町を歩いてもすれ違うのは年寄りばかりだから当然の悩みかもしれない。 心臓と波長を合わせるように響く波音だけが付き纏う。人の吐息を忘れるような、むせ返るほどの潮の匂いが俺の鼻腔を満たした。 都会の人の耳にも目にも触れられず、この町はやがて海に還るのかもしれない、と。静かに深緑と群青の狭間にある海底へ町自体が深く沈んでいくような、そんな突飛した妄想をしてしまうのも、ぎらつく太陽に炙られ続けて、体内の水分が絶え間なく汗となって蒸発しているからなんだろう。頭が完全にイカレるのも時間の問題か。 (暑っついな) 塩気の混じる風を浴びながら汗を拭う。 かもめが防波堤に座る俺の頭上を旋回している。柔らかそうな白い翼が空を切る。ナイフのように一瞬かもめがちかりと光ったように見えた気がしたけれど、それはたった今視界を遮った、唾の広い麦わら帽子がよく似合う男の汗だったのかもしれない。落ちた汗はたちまちコンクリートの防波堤に吸い込まれて行った。 「ずーっと見上げてると、首痛くなるよ」 「その前に暑くて死ぬだろうな、俺は」 「ハハッ、ごめん。お待たせ。ついでにこれがあんたの分」 そう言って無理矢理被せてきたのは、男のものと全く同じデザインの麦わら帽子だ。 男の手が真上から強引に押し付けてくるから、癖っ毛でうねりぎみの黒髪がぎゅっと圧縮されていく。 反対に、男の髪は稲穂のように真っ直ぐで、てっぺんだけがツンと空を向いた、小金色の髪型だった。今は麦わらに隠れているけれど、爽やかな短髪は男にとても似合ってる。 「あ、そうだ、ほらこれ、返す」 防波堤を平均台にしてふらふら歩いていた男が、俺から五メートルほど離れたところから投げ放った影が、リバウンドすることなく綺麗に手の中に収まった。見事なコントロール。 昔、ちょっとだけやってたんだ。自信ありげな顔で振り返ったかと思いきや、三本の指で掴んだ丸い空気を手首だけでクイッと投げるフリをする。 野球やってたのか。これでも不動のエースピッチャー。 男が白い歯を見せて笑ったところに、ブォン、獣の唸り声のような突風が吹く。バランスを保つよりも何よりも男は真っ先に麦わら帽子を押さえてやり過ごしている。別に買ってこいって頼んだものじゃないのに、俺も男と同じようにしてそれを押さえてるのは自分でもちょっと意外だった。 お前は俺になんて言って財布を借りたんだっけな。風の勢いに負けじと叫んだ。それだけで汗が皮膚を破って顔を出す。だって今日は、空に悠々と浮かんだ太陽がハリセンボンに見えてしまうような、酷い真夏日だ。 「喉が渇いたから何か飲み物買いたい、だっけ」 「で、これは」 「麦わら帽子」 「で、肝心の飲み物は」 「もちろん、それも買ったよ」 海近くの商店から帰ってきたときから左手に下げていた、入道雲のように真っ白なビニール袋。そこかは取り出したペットボトルをまた投げようとするから、俺はすぐに腰をあげて近付いた。 ペットボトルは俺たちみたいに汗をかいていて、男の少し焼けた健康的な肌の上を滑っている。 受け取ろうと伸ばした手は空振った。代わりに頬に押し当てられて、気持ち良いだろ、と目を細めていたずらに笑う。 とにかくよく笑う男だった。でもカラッとした夏を思わせるような笑顔が男にとても似合ってる。 「そうだ、あんたの名前は」 「いまさら?」 「うん、今更だけど。聞かなくてもいいかなって思ったけど、やっぱり呼びにくいよ」 「別に何でもいいぞ、適当に呼べよ」 「えー、マジで。何それ、なんか合コンみたいなノリじゃん」 「人生にはそういう楽しみ方もあるってもんだ」 「まあ、知り過ぎると手も足も出なくなるから、こういうのもアリなのかもな」 結局その後、俺には「ムッちゃん」というあだ名がついた。数字は何が好きって聞かれて、6、って言ったらそうなった。 もちろん俺にも同じようにバトンが回ってくるわけで。特に深い意味もなく麦わら帽子の影から覗く鷲色の瞳を見ながら頭に浮かんだ音をそのまま声にした。 「ヒビト」 「理由、聞いちゃダメ?」 「理由も何もない。お前はヒビトだ」 「うん、俺、今からヒビトね」 ヒビトは笑顔と同じぐらい口も動いた。ちょっと移動する間に誕生日がいつやらとか、血液型は何だとか、聞いてもない情報をこっちの頭に突っ込んでくる。人との距離感が測れない奴なのかと思ったらそうでもないようで、自分のことはよく喋るくせに俺のことはあまり聞こうとしない。 果てには、ムッちゃんのことは聞かなくてもわかってる気がする、ってけろっとした顔で不可思議なことを言い放つ始末だ。 「会ったばかりだろ」 「フィーリングってやつ?」 「合コンじゃあるまいし」 「それを望んだくせに」 人の財布を投げて寄越したりとか、唯一の荷物である大きなデイバッグが三ヶ月前に買ったという割にボロボロだったりするのに、根っこの部分は案外繊細なのかもな、と前を歩きながらも時々俺の歩調を確かめるように振り返るヒビトを見ながら思う。 排気ガスを振りまきながら、一台の白いカブが走り抜けていく。本当にそれきり、車も走らなければ、人とも出会わない。 「こんな田舎町に何でわざわざ」 「俺、金なしの旅人なんだよ、自分探しの旅の途中で、いろんな町うろついてる」 「一体いくつにもなって、そんな青春みたいなことやってんだ、母ちゃんが泣くぞ」 「お、それは当たり。実際見たことはないけど、影で泣いてるだろなあとは思う、今年で29だし」 金はどうやって稼いでるんだ、って聞いたら日雇いのバイトである程度お金が溜まったらまた次の町へ移るんだよ、っていう。 大体一ヶ月ぐらいかな。あ、大学は出たよでも22になっても、やりたいことなんて見つからなかった。大半の奴はそうだって、わかってる。自分でも馬鹿だなって思うんだ、こんなことやってるなんて。でもずっとこんな風に町を転々としてる。 「基本的に貧乏だから空腹で倒れることも良くあるんだ、だからムッちゃんに拾ってもらえて、ラッキー、って思って。ここに来る前の町で最後に見たテレビでさ、乙女座が一位だったから」 「何日前の」 「一週間前の」 「信じてるのか」 「良いことだけは」 あ、とヒビトが声をあげた。途端俺の前から姿を消したものだから、急いで防波堤を降りる。 どうやら細いコンクリートの平均台を踏み外して滑り落ちたらしい、運動神経良さそうなのに。 キャップの閉まってなかったペットボトルの中身を浴びても「やっちまった」なんて一言で済ませて、けらけら笑っている。 一位とか最下位とか関係なく、どんなことがあってもヒビトは笑ってそうだ、と半ば呆れ気味に、ヒビトにつられるようにして笑ってしまった。 初めてヒビトと会ったのは、昨日のことだ。 何となく寝付けなくて、夜の海に向かった。テレビで見るようなテーマパークやアミューズメントパークがなくても、五分もあれば砂浜に辿り着くところはずっと気に入っていて、寝付けないとこうして海に一人出かけることがある。 まだ一時も回ったばかりで、流石に朝早くから仕事する漁師のおっちゃん達ともすれ違うことはなかった。 見た限り吸い込まれそうなほど深い闇色の海と、磨かれた真珠のような満月と、俺だけしかここにはいなくて、贅沢な貸し切りに浮かれ、ちょっとした映画俳優気取りでゆっくりと海に向かって歩く中、次第に鮮明になる一つの影があった。 それが人間の男だと気付いた場所は、さざ波の裾から五メートルも離れていなかったように思う。 くたびれたジーンズを踝まで捲り、逆光が生み出した影を背中に塗って、ただ、男は立っていた。 思わず、立ち止まってしまう。 目の前は半月の月明かりと、黒い海が何処までも横たわるだけで、俺と、そして男を邪魔するものは何もない。当たり前の光景であるはずが途端、世界から切り取られてしまったように一際輝いて見えたのは、振り返った男の顔が、俺と目があった途端、悲しげに歪んだせいだったんだろうか。 ゆるりと視界の中で影が揺れる。男が音もなく、崩れ落ちた。大きく寄せた波音に阻まれてしまったせいだと今ならわかるのに。俺はひどく慌てて駆け寄った気がする。軽く動転していたかもしれない。男に触れると頬がひんやりと冷えていた。だけど手のひらで閉じ込めた空気がやがて熱を持った。そんなことが、悪夢から目覚める時と同じぐらい安心した。 「ムッちゃん、俺に向かっていきなり“お化けじゃねーのか”って言ったよね」 「聞こえてたのか」 「もちろん」 「まさか腹が空き過ぎて倒れるとか、漫画とかドラマの世界だって思うだろ、普通は」 「って思うよな?俺も経験するまではそんな気がしてたけどあるんだ、これが。だけど運はいいみたいで、意外と誰かに助けてもらえる。ムッちゃんみたいな、お人好しに」 「別にお人好しじゃねーよ、目の前で倒れた奴見捨てたら、なんか、ほら、後味が悪いだろ」 俺から見たら充分それってお人好しだよ、それって。言葉尻が掠れたと思ったら、ヒビトが立て付けの悪い窓をガタガタと力任せに開けたところだった。 結果、お化けでも何でもなかったヒビトは、俺が呼びかけると「お腹空いた」と打ち寄せる波に紛れて呻き、何かくれ、と言わんばかりに焦点の合わない瞳でずっと見上げてくるので、放っておいてもよかったのに、昔からいろいろと拾う癖があるらしい俺は、とうとう今回は人を餌付けをしてしまった。わざわざ家に帰っておにぎり作ってやった時には二時を回っていて、眠気は強くなかったにしろ、正常な判断が出来ていたのか怪しい。 ヒビトは獣のように大きめのおにぎり三つを軽く平らげると、今度は浜辺で堂々と寝転がって爆睡。何度呼びかけても起きない上に、こんなところに放置することも出来なくて、ヒビトの目が覚めるまで付き添うようにして久々に朝日を拝んでしまった。こんなの、大学のサークルの飲み会以来だった。おかげで髪はばりばり、体は磯臭くて、シャワーを浴びてもまだ海の中に体を浸けているようだった。 →next |