バチェラー・パーティー

「ムッちゃんの口の中、星の味がする」
 開いたエレベーターを下りる寸前、唇に体温を押し付けながら日々人は囁いた。
 離れる間際に香った仄かなアルコールは、ディナーに辛味を添えてくれたヴーヴ・クリコだろう。流石に最近フレンチを強化したと豪語したホテルだけあって、今日のメインの真鯛のポワレは美味しかった。久しぶりに味わう贅沢は、どうしてもそれに近いときの感覚を引き合いに出してくる。
 そんなことを口元に指を当てて悠長に考えてたら、先を歩いていた日々人が立ち止まり、カードキーを部屋の前で差し込んだ。
 ムッちゃん、先にどうぞ。半身でドアを支えて普段しないエスコートをするから、らしくねーな、なんて余裕ぶって日々人を軽く小突いてやったが、どこか落ち着かないのは俺も同じなんだろう。
 部屋に入って真っ先に目についたのは、巨人のように大きな一面ガラス張りの窓から見える、無数の蛍火を連ねたような道が交差したニューヨークの夜景だった。
 パークアベニューからほど近く、タイムズスクエアも観光圏内のホテルに着いたのは今日の昼過ぎのことだ。ブロードウェイでもぶらぶら歩くのかと思ったら、お高いコースをホテルで予約したからと日々人が言うので、観光を切り上げて早めのディナーを済ませ、膨れた腹を二人で突き合いながら、エレベーターに乗り込んだ。
 天国へ向かってるんじゃないか、ってぐらい長かったエレベーターの上昇時間。
 本当は専任のバトラーサービスも付けてもらえたんだけど、断った。こういうこと、早くしたいじゃん。なんて欲の炎を瞳越しに見せられたら、壁面に押さえつけられながらの危なっかしいキスを止められるはずもなく。大きく開いた顎が怠くなるぐらいに、二つの舌が互いの思いを乗せてねっとり絡み合う。
 贅沢とセックスを天秤にかけられるなんて、どうかしてる。呆れながらも、俺は結局自由奔放な弟をつい許してしまう。
「いい値段するのに、ここのスイートルーム、予約取るの大変なんだって。セレブ気分を味わいたくて一度は泊まってみたいんだろな」
「で、どうなんだよ、セレブな気分は」
「んー、最高?」
「質問を質問で返すな」
 辿り着いた、いわゆる最上階のスイートルームってやつは、普通の客室なら二十部屋は確保出来そうな面積に三部屋だけ、というゆとりすぎる極上空間だった。大理石のバスタブやらダイニングキッチンまであって、無駄にベッドルームは二部屋。カトラリーに至るまで、食器は全てディオールだったか。
 俺が腰を落ち着けた一つのベッドは、キングサイズと言ってもいいだろう、俺たちが両手を広げて寝ころんでもまだ二人分は余る。
 このホテル自体、歴代大統領や国を越えた皇族の来賓が利用するような由緒あるものだが、それでも古びたところを一切感じさせず、モダンな内装ながらもアンティークらしい雰囲気を装飾に残し、気品すら漂っている。
「ムッちゃん、飲み直す?」
 答える暇もなく、既にテーブルの上にセッティングされていたシャンパンクーラーから、日々人がボトルを持ち上げた。例えノーと言っても無理矢理乾杯させるつもりだったんだろう。俺の返事を待たずして、ポン、と小さな爆発を起こした後、日々人がリーデル製のシャンパングラスに真珠のような泡をたてながら注ぐ。
 テーブルに着地したビンのラベルにはモエ・エ・シャンドンと書かれている。さっきのクリコといい、随分と値が張ってるシャンパン達だ。
「今日は弾けてんな」
「いいじゃん、たまには贅沢しねーと。あ、ムッちゃんはこれ一杯だけな」
「わかってる、ほら、乾杯」
 張り詰めた空気をグラス二つで気高く震わせてから、それぞれ泡を飲み込んだ。舌の上でぱちぱち、ぱちぱちを音を立て、誰かに祝福の拍手をされているみたいだった。
 職業柄、体は資本だと思ってる。
 体内に摂り入れることのできるアルコール量は、自己管理が出来てなんぼだ。
 酒は好きだけれど、居酒屋を出たすぐの何処か冷めたような路上に記憶を置き去りにする荒っぽい飲み方はやめたし、高校卒業以降はサボっていた早朝のランニングだって、こっちに来てから週4は取り入れた(たまにサボるけれど)。
 何より俺には贅沢したい、という欲求がない。だからフォアグラ、キャビア、なんていう高級食材は好まず、無駄に部屋数のある借家を除けば、私生活は至って質素。
 でも日々人に言わせれば、ムッちゃんはいろいろ我慢してるようにも見える、って。
「それ、サラリーマン時代の癖?まあ今もJAXAのサラリーマンだけどさ、ここまで来たら我慢するもんなんて何もないのに」
「でもお前だってあるだろ、そーいうの。習慣づいたもの、ってのが」
「ああ、ムッちゃんのとはちょっと違うけど、爪をつい短く切りすぎるってのはあるかもな。ボール握るためだったけど」
 アルコールのせいで普段よりいくらか緩く日々人が笑って、俺のネクタイを解きにかかった。
 気付けば先に飲み干した日々人のグラスは、ベッドサイドに追いやられている。
「はい、だめ、もう没収」
「何でだよ、まだ残ってる」
「こら、取り返そうとするなって、しかも寝ながら飲むから、ほら、シーツに零してる」
 俺の手にあるシャンパングラスが強引に日々人に奪われていく。舌に残る余韻に酔い痴れて、あまりの名残り惜しさに唾を飲んだ。
 そういう顔は、普段からして欲しいんだけど。そう言って細く薄いグラスに残っていたシャンパンを空にし、茶化すような顔つきで日々人がこちらを覗き込できた。
 食後のデサート感覚か。
 そんな風に斜めから構えた感覚で日々人の欲に気付いたのは、日々人の唇と重なったそこから雪崩れ込むようにやって来た芳醇で華やかな香りが、鼻腔を駆け抜けた瞬間だった。
「ん、」
 日々人の粘膜と混じって、生温くなったシャンパンが口の中に押し寄せる。通過した食道がびりびりと焼きついて、思考の通り道でさえもが停止していく。
 深爪した指は皮膚を引っ掻くことはなくても、食い込むことはあった。太ももに焼け跡のように点々と残る指の形は、ある意味キスマークより痛みが確実に残るせいでたちが悪いと思う。
 けど何か好きだよな、男も女もだけど、所有物を主張するの。初めて赤いそれを見つけた日の日々人は指の形に自分のものを重ね合わせてから、まるでアポの体のように愛おしげに撫でてきた。
 日々人の指は無垢だ。ボールの投げ込みのせいで所々が歪んでしまい、決して真っ直ぐで広告に出てくるような美しい手ではないけれど、アクセサリーなんかに飾られなくても、とても綺麗だ。
 解けたネクタイを宙に放り投げたその手が、今度は指に熱く絡みついてきた。途端ぞくり、と背中の産毛が総立ちになって、思わず馬鹿なことを咄嗟に口走ってしまう。
「装飾品、何も身に付けないよな」ってもう随分と前から知ってることを、今更。
「指輪とか腕時計も嫌いだから、まだしたことない。ブランドも興味ないし」
「首輪を嫌がる犬、って感じか」
「ワン、って吠えて良いことあるなら、犬になってやるよ」
「バカ、その前に飛んでったネジ拾え」
 こういう時、兄弟だな、と思う。
 公の場には普段からスーツで出かけることが多いために、服へのこだわりは元々なく、アクセサリー類も身につけるのは腕時計ぐらいだったけれど、それだって癖だ。しなくていいなら身に付けなかった。
 誰だっていろいろなものから目をそらして、気にしたくないときもあるだろう。
 例えば。実の弟とのセックスなんてものとか。
「良かった、まだちゃんと勃ってる」
 心底幸せそうに笑って、熱く脈打ってるペニスを下着の上から突ついた。
 こんな豪勢な場所を貸し切ってまでやってることは、あの借家でやってたことと少しも変わりがなくて呆れてしまう。もしホワイトハウスに二人で住むことが出来たとしても、変わらずセックスだけはするんだろう、と馬鹿な話だけれど確信に近いところで思う。
 服を脱がせ合う。前まではもどかしくて煩わしい時間だったのに、今となってはこの時間が楽しいんだって日々人はいう。パンツ一枚のまま関節的で奥底の欲をじわりじわりとあぶり出すような愛撫をとことんやられると、いざ入ってきたときには気が狂るうし、必要以上にイくから嫌なのに、その時の顔がたまんない、って言われるのだからどうしたものか。
 やわやわと這いずる手に、今日初めて甘ったるい声が喉を突き破った。
「ちゃんと感じてるならセーフか。ムッちゃん酔い過ぎると鈍くなるから」
「それはお前もだろ」
 ベッドに腰掛けた日々人のファスナーを寛げ、僅かにスペースを作ってやるだけで、勢いを保ったまま日々人のそれが現れる。躊躇いなく口に含んでやったら、ん、と鼻から抜け落ちた声は艶っぽい。
 カウパーと唾液を丹念に根元近くまで塗り広げていたら「上手くなったよな」と日々人が髪を撫でてくる。フェラをしてやると、必ずそうだった。
 女の子みたいに長くもなく、滑らかでもない俺の髪は昔から相変わらずの癖っ毛だ。自慢どころか寧ろコンプレックスの賜物なのに、日々人はあの指で撫でる。
「っ、ムッちゃんの何がいいか、ってひとつひとつがムッちゃんっぽくていいんだよ」
 くるくるの癖毛とか、昔はなかった髭とか、俺より細い骨格とか。太すぎない筋肉とか。他にもあるけど、でもそのどれかひとつでも傷付いたら、俺も一緒に傷付くんだろうな。
 そんなふざけたことを言うから、イった日々人の精液を残さず飲んでしまった。
「え、ムッちゃん、まさか飲んだ?無理しなくていいのに。吐く?」
「もういい、飲み込んだ後だ」
 シャンパンの方がよっぽどマシなのに、と日々人は手の甲で俺の口元を優しく拭った。デザートにしては苦すぎるそれは、喉の奥でまだ熱く粘膜と絡んでいる。
 じゃあ口直し、と称してお高いモエのボトルをそのまま口に含んだ日々人は、体重を預けるようにしてベッドに押し倒し、シャンパン入りのキスをされた。飲みきれなかった液体が顎を伝う。溺れそうだ。
 口を離せば、日々人の顎に溜まった雫がダウンライトの下で一番星のように寂しく光っている。都会の夜景なんかよりよっぽど本物らしく、信用できる光だった。
 日々人の頭を掴んで引き寄せて、べろりと雫を掬う。突然のことに驚いてる日々人の顔はちょっと間抜けだったが、それもすぐ持ち直して、ふ、とおかしそうに笑う。
「どう?」
「しょっぱい」
「だって暑いし。ムッちゃんも、汗かいてる」
 でも美味い、とも思った。
 尖った乳首を、先を窄めた舌で押さえ付けるようにこね回す。上ずる声が更に理性を麻痺させていく。
 散々遊んで唾液まみれになった乳首を後にして、日々人の指が割れ目をなぞるように下り、汗で湿った入口を何度もいたずらに押した。下腹が壊れそうな圧迫感と共にやって来る快感を知ってしまった体は、それ以上を求めて腰が蠢く。
 早く。たまらず言った。既にイきそうになる直前までペニスを弄られてたから、喉はカラカラで、掠れてた。きっと足の指は猫の手みたいにぎゅうと丸まっている。
 日々人が笑った気がする。決して見下すようなそれじゃなく。日々人がセックスの時に見せる笑顔は酔ったように甘ったるく、水晶玉みたいな瞳には善がる俺しか映ってなくて、何となくそれが切ない。
 ローションを塗りたくり、入ってきた指は一気に二本。もう俺の位置を覚えたっていう前立腺を含めて、生かさず殺さずの微妙な強さで穴の中をぐちゅぐちゅとかき回す。閉じかけた両足を、ぐぐ、っと日々人の手が押し返した。
「あ、あッ、あ、もっ、と」
 強請ると日々人のペニスが肉壁を裂くようにして奥まで入ってきた。いろんなところが千切れそうになる。でも気持ちが良い。
 ゆるゆると温存される律動が歯がゆくて、子供のように日々人の体を手繰り寄せた。隙間もないぐらい。これ動きにくいって、苦笑した吐息が耳たぶを舐める。
 細部までデザインされた繊細な天井が、揺さぶられる視界の中では色とりどりのラインでしかない。
「ムッちゃ、ん、イく?」
「ん、ん、イく、っ」
 イく瞬間は、いつも時が止まるような気がする。体の外側と内側が一緒になったまま、それが零コンマ以下の世界でも、不可能が可能になった気がする。
 ああ、なんだろな。何でもっと空っぽになれないんだろう。折角気持ち良いのに、何故かセックスの間中、こんなことばかりを考え続けてしまう。集中力が足りないんじゃねーの、って前に日々人に笑われたこともあったはずだ。
 しばらく中で動いていた日々人が突然ぴたりと止まり、あ、と声を上げる。
 ごめん、ゴムつけんの忘れてた。
 そうやってわざと忘れることを知っていたけれど、俺はずっと指摘出来なかった。


 俺が贅沢を感じたのは今日以外に一度、昔付き合っていた女性の誕生日に高級ホテルのスイートルームを用意した日のことだろうか。
 柔らかな牛フィレがメインのフレンチフルコース、宝石のようなベリーが散りばめられた二段重ねのバースデーケーキを堪能した後は、部屋の中に事前にセッティングされたテーブルの上のシャンパンで、どこを切り取っても現実的で酔いも醒めそうな都会の夜景を前に乾杯をする。夢見がちな彼女だったから、無い頭を絞りに絞って考え抜いたバースデーデートは「ありがとう、南波くん」と大きな瞳をきらきらと輝かせ、手放しに喜んでくれたっけ。
 だけど結婚を念頭に入れて大切にしてきた彼女でさえも、あちらの浮気が発覚して、特にケンカすることもなく俺のもとを去ってしまった。
 昼ドラで見かけるような修羅場もなく。あんなに好きだったのに、背を向けた彼女に縋ることもなくて、確かに落ち込みはしたけれど深酒に走ることもなく、ひどく、あっさりとした別れだった。
 今思えば、どうしてこんな惨めな失恋話を、過去まともに向き合ってさえ来なかった弟に話してしまったんだろう。
 久々に出張のため帰って来た日々人の顔は、心なしか少しやつれていて、たまには兄らしく労ってやろうと思っていたのに。
 酒の席の雰囲気に飲まれたから。珍しいハワイのコナビールを置いてある店に当たり、ボーダーラインを越える六杯目に手を出したから。理由はいくらでも並べられる。だけどそのどれもが正解じゃないことも、わかっている。
「なあ、ムッちゃん。来月の俺の誕生日のプレゼントは、ムッちゃんの時間でいいよ。その代わりその日の時間は全部貰う」
 押し潰されたように低い声だった。まるでこの世の終わりのように、日々人は口を真横に結び、俺の声を待っていた。たっぷりの時間をかけて。
 弟は約束を破ったことがない。
 宇宙へも。月へも。どんなことをしても、叶えようとする強い意識が、周囲を巻き込み、一番良い流れへ自然と彼は導かれていく。そうやって日々人が当たり前のように俺を幸せにしようとするから、いつの間か一緒に流されていた。
 幸せは、いろんなものを鈍らせる。見えないふりが上手くなる。
 あの時だってそうだ。香り。仕草。鍵をかけたように減る口数。思い起こせば終わりのサインなんてものは、彼女から少しずつ溢れていたのに。
 ねえ、南波くん。私、一度でいいからスイートルームに泊まってみたい。いつもの無邪気さを捨てた、固い声だった。小さな拳はかわいそうなぐらい震えていた。
「フランスでは、シャンパンを飲むことを、星を飲む、なんて洒落たこと言うんだって。何かちょっとした縁担ぎっぽいよな。星を飲めるぐらいの力があったら、宇宙も月も軽く行って帰って来られそうだろ」
 シャワーを浴び、俺より先にベッドルームに戻っていた日々人は、残りのボトルをシャンパンクーラーで再び冷やしていたらしく、新しいグラスを並べて注いだ。
 俺と日々人が取れた休みは二日間。特に日々人は明日の朝一の便で帰るから、早く寝ないと身体がキツイ。早く寝るには、何も考えられなくなるぐらい疲れきってしまうのが一番良かった。多分この場にピッタリと当てはまる答えがあるなら、それはセックスなんだろう。さっきから一回じゃ終わりそうもない気配が華やかなアルコールに混じり、停滞している。
「縁担ぎって、お前は何も心配する必要ねーだろ。あっちでだって上手くやれてんだから」
「まあでもこういうのは、気持ちの問題だし。ほら、ムッちゃんも。ちょっとまだ温いけど」
 風呂上がりで湿った指先からグラスを受け取った。乾杯もなしに一気に煽ると、肩に掛けっぱなしだったタオルが、池に着地した水鳥のように静かに落ちた。
 ガラス窓に日々人を押し付け、口内で漂ったままのシャンパンを口移す。シャワールームから出たときには、エアコンが効き過ぎて寒いと思ったのに、剥き出しにされた皮膚たちが直接触れ合ってしまえば逆に熱いぐらいだ。俺より体温が高いところは昔から変わらない。それが飛び移るようにして身体の芯が熱を持った。
 こんなとこでキスをすると、獣のように強かなビルやネオンの光に向かって、このまま二人で落ちてしまいそうだ、と思う。日々人がうんと小さい頃は高いところが苦手で、泣きじゃくっていたのに、今じゃあわざわざ選ぶところが、足元が竦むような高層ホテルの最上階だなんて、ちょっとだけ笑えた。
 口の中で星が生き急ぐように騒いでいる。辛口のはずのに、甘くてしょっぱいそれを大きく出っ張った喉仏が、やけに大きな音を立てて生々しく動いて日々人の体内に消えた。わざと下唇に一度吸い付いてから、そっと離す。タイムズスクエアで瞬く黄金色の一粒を植え付けたらこんな風になるんだろう、日々人の瞳の中でちらちらと燃える欲はひとときだけ夢を見させてくれる。そうして一晩のうちに、跡形もなく消えると知っていながらも、俺は日々人とセックスがしたかった。
 崩れるようにしてベッドに身を預けた。こういうとき二つあると便利だ、真新しいノリの効いた匂いは心地良い。
 シャワーを浴びた意味なんてなかった。酔っ払いになると無意味なことでも進んでやれるから不思議だ。
「なあ、日々人。前に話した浮気された元カノの話、覚えてるか」
 日々人の上に跨って見下ろすと、清々しいぐらい興奮しているのが察知できた。同時に何かに怯えていることも、痛いぐらいにわかった。
 お気に入りの指が腰を掴み、きつく肉に食い込んでいるから、それも痛い。
「あれには続きがあってな、ちゃんと結婚したらしーんだ、浮気相手だった男と。俺と付き合ってるときに既に子供がお腹の中に居て、その子が一歳になる頃に、結婚式も挙げたって」
 日々人。こんなタイミングで言うのもあれだけど、今付き合ってる子、大事にしろ。多分、お前は上手くいく、保証人は俺な。わかんねーけど、その元カノの話聞いたらそんな気がするよ。
「幸せになれよ、日々人」
 日々人の代わりに笑ってみる。
 無理にでも笑うと、意外と何とかなった。そうやって仕事でミスした後輩を励ましてきたし、自分を奮い立たせてきた。これも立派な癖だろう、サラリーマンは俺の適職だったんだなと今更思う。
 あの真っ新な指に指輪の跡が現れ始めたのは、もう何ヶ月も前の話だった。ロシアから帰ってくる度だ、その変化に気付かないはずはない。洞察力は俺の方が優れているし、どうせ日々人のことだから、跡なんてすぐ消えると思ってたに違いない。意外と跡っていうのはしつこいものなんだ。太ももに残った指跡が、何日かけてなくなるかなんて、お前は知らないだろう。
 だけど跡は、いつか消える。
 日々人の子供が生まれて火星にでも行く頃には、悲しい失恋話なんて日々人の頭の中から消えて行くことも知っている。
 俺だって日々人が与えてくれた優しさを、新しい彼女が出来てしまえば、追いやられるようにして全部忘れていくんだろう。
 ただ、お前が言うように、絶対があるとするなら。
 ニューヨークの狂気じみたこの夜景と、海のような星の味と、傷になってしまった胸の痛みだけがいつまでも俺の中で持て余されるんだと思ったら、今度は上手く笑えなくなった。
 日々人が腕で世界を拒むように顔を覆った。あのときの彼女の拳のように、小さく震えていた。
 ムッちゃん。俺の名前を呼ぶ声は、宇宙の淵から聞こえてくるみたいだ。
「彼女が、妊娠したんだ」
 なあ。今、お前には何が見えるんだろう。
 馬鹿みたいに手放しで喜ぶ俺が、見えているだろうか。


終、
2013.09.16
※バチェラーパーティー=独身男性最後のパーティー
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