泡沫のポラリス(2)

 毎年、必ずあの日だけはシャロンに会おうよ。
 約束を取り付けてきたのは確か日々人だった。子供ながらに後先考えもせず、いつかの天文台からの帰り道、それも千切った綿をばら撒くようにして雪の降る、冷たい夜に誓った。
 昔から肝心なことは言わないくせに、誰もが言い淀むような心の奥の泥だまりみたいなものには、躊躇いもせず手を突っ込み、簡単にすくい上げて声にする。それが日々人の美点なんだろうけど、そのせいで友人も多ければ敵も少なからず作る奴だった。
「お前が言ったんだぞ、シャロンに心配かけないようにしよう、って」
「悪かったってば。でも今日はシャロンに会わない訳にはいかないし、油断してたんだ」
 今日だって目の近くに傷を作っているせいで、シャロンに余計な心配をかけている。大きいと格好悪い、と日々人が嫌がったせいで、わざわざはさみで小さくしてくれた、左眉上の絆創膏。それでも見る側にとったら痛々しい代物だ。
 息を指先に吹きかける間も、雪が地球を無菌にするような冷たさで落ちてくる。
 星があれば寒さも忘れられるのに、と日々人が少し腫れた目を伏せて、雪だまりを勢いよく跨いだ。
「なあ、もう、いいんじゃねーのか。別に無理してこの日に来なくたって、シャロン元気そうだし。会おうと思えば会えるよ、いつでも」
「うん、そうなのかもな。でもムッちゃん、俺思うんだけど」
「何を」
「一人で星を見てるとさ、どうしてかわかんないけど、怖いっていうか、寂しいときがあるよ」
 冷て!と日々人が叫んだ。凍りかけていた水溜りに油断していたずら半分で足を突っ込んだら破れてしまったようだ。立ち止まり、スボンの裾を眺めながらむくれる日々人に、行くぞ、と促すと、続きだけどさ、と俺の背中に向かって話しかけてくる。
「ペルセウスとかしし座の流星群とか、たくさん人が星を見てる瞬間はあるのに、何で俺は一人で見てるんだろう、って」
「日々人、昨日何か観ただろ?」
「うん、フランダースの犬。母ちゃんが借りてきてたから一緒に観た」
「影響されすぎなんだよ、お前は。あ、泣いた?」
「泣いてねーよ、ムッちゃん!こんなんじゃ泣かないって、もうガキじゃねーし」
「ばか、ガキだろ、少なくとも俺よりは」
「だけど、人じゃなくても、犬でもさ、隣に一匹いて良かったな、とは思ったよ」
 日々人との約束は、大人になってしまえば、守り続けることすら不可能なものが多かった。
それは約束したときの俺たちが世間知らずで、信じていれば物事が全て上手くいくと思い込んでいたガキだったからだ。
 しかし、そのひとつひとつを今でも俺はずっと忘れられずにいる。
 成長するに連れて確かめ合うこともなくなったのに、時々何も言わずに見つめてくるその目だとか、物言いたげに開きかける口だとか、臆病なパーツたちを繋ぎ合わせればいくらだって、それぞれの中で約束がしこりになっていることを、嫌というほど理解させられた。
「ムッちゃん、まだ起きてる」
 日々人のノックはいつも軽い。指の第二関節で叩く癖があるからだ。声が聞こえてくるよりも早く日々人の存在に気付き、俺は辞書をめくる手を止める。相部屋だった俺たちの部屋はいつしか別々になり、ノックする習慣が身についていなかった弟に義務付けたのは俺だった。
 そして大抵律儀にノックするときは、野球の試合で負けただとか、父に叱られただとか、気分が上手く浮上出来ない時だったりする。
 なに、と返事をしたにも関わらず、日々人がドアを開ける気配は一向になく、もう一度だけ返事をして、それで何も言わないようなら無視を決め込もうか。そう思いかけたときだ。
 明日、なんだけど。
 動揺は指先に現れ、薄いページがくしゃり、とヨレる。
「何だよ」
 不思議なことに、声はつとめて冷静だ。だけど日々人はそれ以上会話を続ける気はないらしい。時計の長針がひとつ分進むぐらいの、たっぷりの沈黙を作り上げた後、何でもない。淡々と放った日々人は部屋の前から遠ざかっていった。部屋に入ってドアが閉まる最後の音まで、俺は逃がすことなく聞き続けた。
 ただ一言「わかってる」と言うべきだったこともこの時わかっていたのに。それを言えなかったのは、明日という日が俺の中で大きくなりすぎていたからに違いない。



 高校一年に上がってから俺の世界はぐんと世界が広がった。地元の人間が少なくなり、地方から集まってきた新たな顔触れに安堵のようなものを感じて、交友関係を以前にも増して大切にするようになった。
 シャロンの家に一人で通う回数も減り、つられて日々人と顔を付き合わせて話すことも減ったように思う。
「なあ、南波。放課後は暇?裏手の高台でバレーボールやるんだ。受験勉強の息抜きだよ、推薦と専門受験組が中心だけどさ、結構大人数なんだよ、何でもさ、ほら3組のめっちゃ可愛い野球部のマネージャーやってた子が来るんだって、サッカー部のメンバーだった奴らはほぼ来るぞ、笑えるだろ。お前だって、前に可愛いって言ってたじゃん」
 迷いはあった。でもそれはほんの一瞬で消えた。野球部のマネージャーだったという可愛い子は、噂によると既に好きな人がいて、それはサッカー部の男じゃない、と一ヶ月前に知っていたし、別にバレーボールが特別好きでもない。
 俺が好きなもの、って一体何だっけ。そんなことを考えていたら思いきり空振って、バウンドした雪玉みたいなボールが額にぶつかった。
 こんなとき、シャロンに相談したらどんな答えをくれるんだろう。
「もっと下におろして、ムッタ」と胸に手を当て、笑って教えてくれるんだろうか。
 玄関を開ける前に携帯を覗く。すっかり日付けは午前様。よく補導されなかったなと思う。警察が見張ってないルート、そういう悪知恵だけはみんなしっかり働く。
 鍵をできる限り静かに開けて、まさに忍び込むようにして僅かな隙間から体を滑り込ませた。でも俺の思考が正常に働いていたのはここまでだった。
 足元に転がっている整頓が為されていない日々人のスニーカーや、微かに開いたままの日々人の部屋のドア、そして昼間の太陽を引きずり降ろしてきたかのように、赤々と燃えるヒーターの光が、ベランダの磨りガラス越しに見えた瞬間「やっぱり」と思った。
 日々人は、行った。
 たった一人で、シャロンに会いに。小惑星が見つけられた、この日に。
 俺が約束を守らなくてもきっとあいつは一人で会いに行くんだろう、って心の何処かで思っていたのに、いざ目の当たりにすると弟の出来すぎた人格が、俺に見えない何かを見ている目が憎かった。
 立派に底冷えした、猫でも飼ってるんじゃないかってぐらい傷だらけのフローリングに足がべったりと貼りついている。俺の言うことはきいてくれそうにない。気付いたときにはもう、日々人はベランダの窓を開けてこちらを見ていた。ひどく、傷付いた顔で。俺に言いたいことがたくさんあるくせに、喉を殺して。
 昨日あいつは、俺の部屋の前でも、こんな顔をしていたのかもしれない。
 今朝のニュースでは「夜には
氷点下になるでしょう」と涼しげな顔した天気予報士が言っていたのに、日々人は防寒具を身に付けず、毛布もなく、年季の入ったヒーターだけで、空を見上げていたらしい。
 日々人がリビングに足を踏み込んだ瞬間、冬の匂いがぶわりと鼻を突き抜けた。鼻先から体が凍り付いていくような気がした。
 どうして。何故。そんな疑問を殴りつけるようにして言われるとばかり思っていた俺は、彗星のように鮮烈で、鋭い衝撃を受けた。
「シャロン、寂しがってた」
 それだけを言い残し、心許なく目を伏せた日々人が横を通り過ぎたその瞬間。掠めた匂いに窓の外を見れば、スカートの裾を翻すように雪が降り始める。
 一際遠くでドアの閉まる音がした。それに抗うようにして、咄嗟に俺は外に飛び出していた。
 次第に心臓と呼吸がひとつになる。
 俺は冬が好きだった。空気中の塵が取り払われて、星の輪郭まで綺麗に見えそうな気がするからだ。でも雪は好きになれなかった。冬の星空が見える僅かな時間を俺の視界から消してしまう、そんな些細な理由で。
 暴れる心臓をなだめもせずに、てっぺんまで駆け登ったら、笛を吹くような音が喉の奥から聞こえてきた。汗もかいてる。自分だけが夏の世界で生きてるみたいで嫌になる。
 やがて目の前に現れた天文台。昼間よりも、夜に見る天文台は一際綺麗だと思うのは、彼女の存在がそう見せるからなんだろうか。手入れの行き届いた庭、室内、そして曇り知らずの望遠レンズ。シャロンが一人で住むようになっても、その美しさは変わらなかった。
 かじかむ手でインターホンを押すと、しばらくして優しい光がドアの隙間から零れてくる。
 不用心だ。こんな深夜にいきなりやって来た人間を不審者だと疑いもせずに玄関のドアが開く。俺が来ることをわかっていたのか、それは少しも躊躇がなくて、言い訳しか並べられそうにもない口が、かさつく唇が、開けなくなる。
 シャロンおばちゃん、俺、今日本当は来るつもりだった。でも、部活が大変で爆睡して気付いたらこんな時間だったんだよ。日付は変わってしまったけれど、忘れてたんじゃない。忘れられるわけ、ないのに。
 遥か遠いところで浮かんでた言葉は所詮引き留める力も弱くて、現れたシャロンの顔が驚きから労わるような笑顔に変わったときには、淡く薄くなって、いつしか消えていた。
「どうしたのムッタ、寒かったでしょう」
 急いで出てきてくれたんだろう、薄い水色のナイトウェアにガウンを羽織っただけのシャロンの手が「震えてるわ」と握り締めたままだった俺の両手を取り、包むようにして触れる。
 周りの女子が教師に隠れて塗るようなマニキュアがなくても、綺麗だと思える手は思った以上に冷たい。ずっと起きていたのかもしれない。
「ヒビトが、ムッタは勉強が忙しい、って言っていたの。だから来られないけど、来たがってたよ、って。もし無理して来たら会ってあげて、って」
「そんな事言ったの、あいつ。勉強も大変だけど、ごめん、今日は遅刻、しただけ。変な気遣いしやがって」
 それに平気じゃないのはシャロンの方だ。
 寂しがってた、なんて日々人の嘘だと思う。だっていつでもこの目に映るシャロンは笑っている。
 弟の目になれたなら、もっと違うものが見えるのかもしれない。だけどなれやしないから、いつだってこの目にはシャロンの笑顔しか映らない。
「今日は積もるのかしら」
 積もるとドームの雪掻きが大変なのよね。困ったふりをしながらも、それは何処か楽しげな響きを含んでいる。
 夜も遅いからと遠慮をしても、シャロンはそれこそ風邪をひくわ、と一杯きりの約束を強引に取り付け、ミルクティーを出してくれた。受験前に倒れでもしたら、と少し不安げな顔して。
 華奢な取っ手のティーカップ。日々人が洗おうものなら折れてしまうんじゃないだろうか。
「積もったら呼んでよ。手伝いに来る」
「ありがとう。でも、ムッタ、あなた一度雪掻きをしようとしてバランスを崩しかけたでしょう。心配だわ」
「あれは日々人が先にバランス崩して俺の服を引っ張んたんだよ。巻き添え食らったんだ。昔家族でスケートに行ったときだって、俺のこと引っ張るからアザだらけになった」
「ふふ、ヒビトはあなたならどうにかしてくれるんじゃないか、って思っているところがあるから。頼られてるのよ、ムッタはヒビトのお兄ちゃんだもの」
 いつからか俺の足は天文台から遠退いていた。日々人と揃って顔を出すのは一年の中で唯一この日だけになり、だけどそれも今日限りで終わるんだろう。日々人は今回の件で俺を二度と誘わないだろうし、俺の志願書を出した大学は全て、この街にはない。
「ヒビトは時々顔を見せに来れるけれど、でもムッタは本当に久しぶり。いつの間にか私の背を追い抜いてしまったなんて驚いた」
 シャロンが俺の頭の先を見ながら、もうこんなに差があるのね、とミルクティーに口を寄せた。
 シャロンは日本人の女性に比べて背が高い。日々人とムキになって、絶対シャロンより大きくなるんだ、と背比べをしていたこともある。俺たちはシャロンの子供でもないのに、あの家の天文台の壁には、こっそりと、流れ星が描いた軌跡のような薄い線が残ってる。
 一つは俺、もう一つは日々人。それは俺たちの背比べの証だ。
「次に会うときは、もっと大きくなってるよ」
 楽しみだわ、とシャロンが俺を手招きをする。素直にシャロンに続いて天文台に向かい、壁に背を付けた俺と間合いを詰めたシャロンからふわりとカモミールの香りがした。
 出来たばかりの頃に比べたら汚れが目立つようになった、とシャロンは言うが、いつだってぴかぴかに見える白い壁に、シャロンが先を閉まったペンでゴリゴリと掘るようにキズをつける。
 勿体ないよ、って言ったら、子供が生まれたらこうするつもりだった、って色素の薄い瞳が弧を描いた。
 確認するように振り返る。今さっき傷付けたそれとほぼ横並びの線があって「ヒビトと同じね」とシャロンが驚きの声をあげた。俺が兄貴なのに、と文句をつけると、くすくす笑われてしまって気恥ずかしくなった。
「私も、もっと身長があればいい、って昔は思っていたのよ。それだけ星が今より近くなる気がしていたのね、夢みがちかしら」
「そんなことないよ、俺もそう思う」
「わかってくれてうれしいわ。ムッタもヒビトもまだまだ伸びるんでしょうね。いつか星に手が届いてしまいそう」
 でも今日は、星が見えないよ。言おうとしたけれど、笑顔の彼女を前にすると余計なことが何も言えなくなり、歪な笑顔を作る。それが精一杯だった。
 見送らないで、と言い切ったから、観念したシャロンは俺が外に出た後、すぐに部屋に入ってくれた。灯されていた玄関の明かりが消えるまで俺は動くことが出来なくて、消えた瞬間、星が一つ死んでいくような物悲しさを抱えた。
 シャロンも同じだったらいい、人がいなくなった部屋を見て、同じことを感じていたらいい。つい、馬鹿なことを考えてしまう。
『ねえ、ムッタ。あなたはいつでもここに来ていいのよ。私も、もちろんヒビトも。あなたが帰ってくるのをいつまでも待ってるわ』
 帰り際に念を押すように、俺の目を見てシャロンは言った。
 シャロンに進路の相談をしたことはなかったけれど、彼女はとっくに気付いていたんだろう。俺がこの街を出ることも。日々人と距離を置こうとする、身勝手で情けない理由にも。
 シャロンはまだ寝ない、コートに染み付いたカモミールが告げてくる。
 星が見えても見えなくても。開くことのないドームの下、焦点を合わせられない望遠鏡を覗くことなく、そこに設えたソファにいつまでも座っているだろう。
 彼女の隣に例え誰一人座らなくても、シャロンは、きっと。


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