ーーカランカランカラン!大当たりぃ!
 突如俺の頭に響いたのは、商店街でよくある福引きの、わざとらしい大声と鐘の音だった。
 その原因は、正月前だというのに子供二人を放置してハワイ旅行へ飛び立ってしまった、恐ろしく自由気ままな両親にある。
 長い長い冬休みに突入し、久々に帰省したのに家に居たのは、大学生になり一人暮らしをしているはずの日々人だけだった。
 互いに一人暮らしを始めてから、俺と日々人は殊更顔を合わせる機会が少なくなったように思う。サークルや人間関係の付き合いを優先するようになったっていうのもあるんだろう。特に去年から今年にかけて俺は就職活動の荒波に揉まれて実家に帰る暇もなかったから、日々人を見たのは実に一年ぶりぐらいだった。
「つまり?」
「だから、母ちゃんが福引きの特賞当てたんだって、グアム旅行。俺が帰った時にはもう荷造り終えて空港までのタクシー待ちだったよ」
 俺がそのタイミングで会ってなきゃ、何処に行ってるのかすらわかんなかったって。日々人は面白そうに笑っているが、よくこれが笑えるな、と全身の筋肉を支える気力が針を刺された風船のように抜けた。身体も不思議とふわふわする。
 年越しをグアムで迎える。あの庶民派を代表するような両親にはかけ離れすぎていて、夢物語を聞いているみたいだ。
 マカダミアナッツ買って帰るからねぇ。そんな母の甲高い笑い声が聞こえてくる気がした。
「お前、どーすんの」
「え、いるよ、ここにしばらくは。だって折角重い荷物抱えて帰ってきたのに、即効帰るのも馬鹿らしいし」
 こういう予期しない状況を平然と乗り越える日々人は、立派に南波家の血を引いた男だと思うし、逆に俺と本当に兄弟なのか些か不安になる。だって俺がこの状況乗り越えるためにベストな選択は、一人暮らしの家にUターン、なんだけれど、日々人はそうじゃなかったらしい。
 ムッちゃんもそうするだろ、な?
 実際、俺は帰ろうと思っていて、日々人が少しさみしげに目を伏せなければ、ここに留まることなんてなかったと思う。
「ムッちゃん、冷蔵庫に食べられそうなもんがなんにもないんだけど」
 お腹を空かせた日々人もさっき帰って来たばかりだという。俺も日々人の後ろから冷蔵庫を覗いたが、確かに食料らしきものは殆ど揃ってない。普通はそうなんだろう。旅行で家空けるんだし。何もないってことは、俺もだが、こいつも事前連絡なしに帰ってきた、ってことだ。
 帰宅早々荷物を置いて、俺たちはまた寒空の下を歩く羽目になった。
「何食べる?」
「考えてなかった、お前は?」
「何か温かいもんがいい」
「うどん、そば、ラーメン」
「うどん」
「あー、うどんで思い出した、ボンカリーうどん、俺たまに一人で作るな」
「マジで、俺も俺も」
 ムッちゃんが相手だと、メニュー決まるのが早くていいや。いつもは整然とした顔を崩して笑う日々人は、早いものでもう大学二年生だ。 去年まで競っていたはずの身長もここ一年でとうとう突き離されたらしい、隣を向く度、少しだけ俺より上にある鷲色の目がプライドとかいう陳腐なものを煽った。
 野球部時代は真っ黒だった肌も白さを取り戻し、服を着ていてもわかる体格の良さと上手い具合に混ざって、見栄えが良い。
「野球やってたときとあんまり変わらねぇよな、お前って」
「そうかな、これでも10キロ近く減ったよ、あの時は飯も5食だったし。辞めると一気に筋肉落ちた。あ、でも筋トレは今でもやってる。締まりのない体とか格好悪いから、あ、ムッちゃんはやってないだろ。ガリガリじゃん」
「ガリガリ言うな、これでも気にしてんだから」
 そんなところも弟と違う。
 中学、高校と続けたサッカーである程度体幹は鍛えられ、サッカー部の証であるパンパンに筋肉の詰まった太腿だって死に物狂いで手に入れたのに、引退と同時に萎んでいった。
 元々筋肉が付きにくい体質で、同時期に筋トレを始めたチームメイトが俺の100m走最速記録を余裕で追い越していくのはザラにあったし、高校三年間、弟の記録に追い付けたことだってない。
 俺に比べて、日々人は鍛えれば鍛えるだけ成績を伸ばす男だった。
 確か高校二年の夏は県大会の決勝戦まで行ったと思う。試合展開は一点、とったらまた取り返すという接戦を繰り広げ、実力を拮抗させたまま、9回表にとうとう相手チームのソロホームランで一点のリードを許してしまった。珍しい。あいつがホームランを打たれる光景は、俺が隠れて観戦してきた中でもそう多くない。
 9回裏。三塁に日々人を残したまま、時が流れる。停滞したむせ返るような熱気が、人を俺を飲み込む。誰かが「そこだ!」と声を張り上げたその瞬間、6打者目のレフトフライが緊張を裂く。高く打ち上げられた球は物の見事に外野手のグローブの中へすっぽりと収まった。
 だがまだ、あいつは諦めていない。
 日々人の見えない息遣いがびりびりと皮膚の上をなぞったようだった。
 狙うはタッチアップ、俺の読み通り日々人は駆けた。それはもう、息を飲むような気迫を纏って、見事なぐらいの全速力で。
 風が強い。砂埃が舞ってランナーの視野を狭くする。いつもなら飄々と走り抜けるのに心なしか日々人の顔が険しく、気付けば俺は固唾を飲んで舞い上がった砂の軌跡を追いかけていた。
 日々人がホームベースにあと一秒でも早く辿り着いていれば、同点に追い付けたんだろう。
 ただ。この時ばかりは運がなかった。
 捻挫なんてしてなければねぇ。
 ゲームセット!審判から高々と宣言される中で、母がぽつりと呟いた。
 軽度の部類だったけれど、捻挫という負傷を抱えたコンディションなのによく粘った方だと思う。その捻挫だって、一昨日の試合の最中、スライディングした先にいたセカンドとぶつかって出来た、名誉の負傷だ。
 それに母が言うには、大学からのスカウトがあった、って。でも、こいつは全てを蹴って、宇宙に繋がる道を選んで、隣でズルズルとうどんを啜ってる。
「まあ、ある意味それでスッパリ野球を切れたけどね。一生かけて追うものじゃないな、って思った。ムッちゃんは何かある度にドーハの悲劇だ、って言うけど、生まれた日なんて関係ないんだよ、俺もツイてないときはとことんツイてない」
 頼んだきつねうどんに七味を豪快にふりかけた弟は、後悔なんて言葉が似合わない程、珠のような汗をかきながら清々しい顔をしていた。
 短く切り揃えた髪は南波家の中でも特に色素が薄くて、それがまた万人に受けそうな男前の顔立ちに似合うものだから、モテない兄としては少々複雑な気持ちになった。初めて彼女が出来たのも、日々人の方が先だったっけ。
 大学入ってから三センチぐらい伸びたんだよ、流石にそろそろ止まって欲しいけど。足だって29もある。なかなか欲しい靴のサイズがなくて困るんだよな。
 急ぎ足で行き交う人の波を掻き分けるようにして、決して緩やかではない歩調で歩く中、時々女の子が日々人を見て小さく色めき立つ。わかってはいたが、日々人はモテる。それを素直に認められないのは、俺の心がゆとりを知らないせいだ。
「南波くん」
 躊躇いがちに聞こえた声に二人して振り向いたのは、ほぼ同時だった。
 180の上背を持つ俺は大抵目線を下ろして話すことが多くて、それは日々人にも当てはまることだから、俺たちの目は必然的に下に向けられている。
 呼び掛けた本人は、くるんと上を向いた睫毛を驚いたようにぱちぱちと瞬きを素早く繰り返していて、グロスっていうメイク道具で濡れた唇はちょっぴり開いてて柔らかそうで、当たり前なんだけれど、ああ、女の子だな、って思う。
 男兄弟、サバサバした母、女っ気に恵まれない人生。
 これらが揃った俺の目には、女の子はいつだって別次元に隔離され、過保護に守られて世に送り出された、とてもか弱くて儚い存在に映った。魅せるために頑張ったメイクとか着飾った服とか、どれをとっても男にはない、可愛さと健気さに心惹かれるものがあるから、つい優しくしたくなる。
『南波くんって、無駄に優しすぎるんだよ。最初はそれが嬉しかったけど、段々物足りなくなってくるんだよね。優し過ぎてつまらない』
 ただ現実は、女の子を女の子らしく扱い過ぎても駄目らしい。前の彼女にふられた理由もそこだった。
 日々人なら、どうだろう。遍歴を把握している訳ではないが、きっと女の子を嬉しくさせるために上手く扱うんだろうな。彼女がとろけるようにして頬を緩ませ、まんざらでもなく目尻を下げた日々人の横顔を見て、ふと、そう考える。
「ごめん、ムッちゃん待たせた」
「いいよ、コンビニの中暖かいし」
 寧ろ俺ではなく、あの二人がコンビニとかカフェとか入って話をするべきだったんじゃないだろうか。先に帰ると言ったのに、日々人は「待ってて」としか言わず、近代科学の恩賞のような暖かいコンビニの中から、凍えそうに手を合わせる二人を雑誌を隔てたこちら側から、ちらちらと覗き見ることになった。
「もう行く?」
「ちょっと待て、なんか温かいもんだけ」
 素早く雑誌をラックに戻し、淀みなくホットドリンク専用のコーナーを目指す。日々人もそれに付いてきて、俺が手に取ったブラックコーヒーの横のカフェオレを掴むと「寄こせ」と言わんばかりに手のひらをこちらに向けてひらひらとさせる。
「え、何この手」
「ムッちゃんの分も一緒に払うから貸せって」
「いや、いい」
「そこ遠慮する?うどん奢ってくれたじゃん、お互い一人暮らしでバイトで繋いでんだから、条件変わんないよ」
 いや、変わるだろう。兄と弟、っていう深い溝が途切れることなく目の前にあるんだから。
 しかし言葉では拉致があかないと悟ったらしい日々人は俺の手からするりと缶を抜き取って、早々にレジへと突き出してしまった。
 ピ、ピ。読み取り機とバーコードには溝がないから、合計金額が表示されるのも速いものだ。
 ほら、と渡されるコーヒーはもちろん温かいし、俺の手も温かいから、暖を取る目的としては有効じゃない。
 寒空の下で話をしたせいで、きっとあの子の手は俺のものより冷えてたと思う。俺なんかより、あの子にコーヒーでも何でも買ってやればいいのに。相変わらず、足りてない奴。
 俺たちがコンビニに入る寸前で呼び止めてきた子は、大学のサークルで知り合った日々人の彼女だという。しかも年上だ。
 天文サークルだよ、きっかけは。もちろん名ばかりの酒飲みサークルだけど。でも彼女と二人で星見に行くことはあるよ、結構詳しいんだ、好きなんだって、星。
 俺の一つ下だという彼女の地元は、俺たちと同じ地元だった。どうやら日々人と同じく今は帰省してきているらしい。一人で買い物をしていたところ、偶然俺たちを見かけたから声をかけたんだそうだ。
 まさかお兄さんと一緒に歩いてるとは思わなくて紛らわしく呼び止めてしまってすみません。
 育ちがいいんだろう、彼女はひどく申し訳なさそうに頭を下げる仕草は真髄だけれど、優雅さも併せ持っていた。
 すごいことがあるもんだと思う。師走の人ゴミの中、歩くのさえ煩わしくなるような場所で。普段は別の地で住む恋人同士が、また違う土地で再会するなんて、神様が出来の良い弟のためにわざわざ巡り合わせてくれたんだろうか。ドラマかよ。
 でも、もうすぐ彼女は就職のために県外へ出てしまうという。
「遠距離って、さ、大変じゃねーの」
「大変かもね。でもムッちゃんも大変だろ」
「何が」
「聞いたよ、就職先。もうこっちに帰って来ないんだってな。しかも車関連の会社に決まったんだって?俺、今日ムッちゃんが帰って来なかったら直接ムッちゃんの家に押しかけるつもりだったのに」
 何をしに、なんて質問は弟の気持ちを踏みにじるものでしかないんだろう。日々人の目を避けるように、俺は歩幅を小さくしながらプルタブを起こし、温くなったコーヒーを口に含む。
 うわ、まずい。日々人がカフェオレを飲んで、心底嫌そうに言った。


続、
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