泡沫のポラリス(1)

 カラカラカラ、カラカラカラ。
 白いシーツが泡と踊りながらぐるぐると箱の中で渦を巻く。さっきから音が鳴ってるのは、ポケットに入れっぱなしだった5セントだろう。帰りに利用したタクシーの釣りだ。何の変哲もない日常の光景なのに不変の絡みを、つい眺めてしまう。
 まだまだこんなガキみたいなことがやめられないのは職業柄なのかもしれない。サラリーマンから到底かけ離れた世界は、大人であることを忘却させる程夢に溢れている。つい最近まで、ワーカーホリックとまで評される日本のサラリーマンだったはずなのに。
 柔軟剤を入れ忘れた気がしたが、カラフルなパッケージの上で薄ら寒く笑うクマのシールが貼られたそれに手を伸ばせない。
 宇宙飛行士を馬鹿にするな、何もお前の顔が怖い訳じゃない。
 こっちの柔軟剤は何でもかんでも匂いが誇張され過ぎている。普段なら良くても今は無理だ、胸につかえたままの異物感が這い上がりそうになる。伸びっぱなしの髭を処理することも出来ず、何とか顔を洗った時にちらりと鏡の中に見えた顔は、とても夢を追って満ち足りた人生を送ってる人間には思えない。
 痩けた頬とか黒々と炭を塗ったような隈だとか。痛む腰だとか。自己管理を怠るなんて、社会人としても失格だろうに。
 重い体を引きずるようにしてリビングに行くと、アポが餌受けの前で可愛く舌と涎を出して、餌くれアピールの最中だった。
 そう言えば昨日の夜、ドッグフードを注いでやった覚えがない。あまりにも寒くて気持ち悪くて、トイレまで歩けず、そのまま布団の上に胃の中のものを盛大に吐き出した。ついでに服をスウェットに着替えることすら忘れていたせいで、パンツもシャツもやられた。
 やっちまった。そう思ったけれど、どうにも体はいうことを効かず、シーツを何とか剥がして洗濯機に放り込んで、新たなシーツをセットすることも出来ずに。
 日々人の部屋で寝た。あいつがこの家を出て行ってから、初めて。
「悪いな、アポ」
 成り立たないアポとの会話は独り言と変わらないが、老犬に片足を踏み込んだしわくちゃの顔と体を撫でると、手のひらを押し返す感触が気持ちよくて少しだけ目頭が熱くなる。
 弱ってんのか、馬鹿だな俺は。
 ドッグフードをいつもより多めに注ぎ、水を新しいものに替えてやった。お腹空いてたんだろうな。アポは年の割に食欲旺盛で、見ていて気持ちがいい食いっぷりに苦笑した。飼い主にこんなとこは似てるのか。
 昨日の晩から何も食べていないのは俺も同じなのに、冷蔵庫から取り出せたのは未開封のミネラルウォーターだけで、口に含みながら千鳥足で自分の部屋の前を通り過ぎる。
 換気してやらねぇと。向かい合わせに鎮座する部屋に入った途端、そう思うぐらいに、持ち主を失った部屋は湿っぽい。
 定期的に掃除はしていたはずだった。あいつは掃除をすぐサボろうとするから、見兼ねて俺がやる時もあったんだ。
 シーツもカバーも。今だってタダでやっている。いつだって帰って来られるように洗って張り直して、無駄なことやってんな、とピカピカになった持ち主のいない部屋を見て一人自嘲する。こんなことに時間を割くぐらいなら、俺はもっと宇宙にのめり込んだ方がいい。
 顔色、悪いですよ南波さん。一昨日せりかさんに言われた時すぐにでも医務室に駆け込んでおけば良かった。こっちの病院は予約も取りづらいし、待たされるし、JSCの方がよっぽど使い勝手がいい。
 気にしないようにしていたけれど、家に帰った途端このざまで、一発吐いてから測った熱は華氏にして102度。摂氏にして、確か38.9度。それに加えて猛烈な吹雪の中に立たされているような、強い悪寒と渾身の一撃を喰らったような頭痛。軋むような関節の痛み。
『ムッちゃんってインフルエンザにかかりやすいよな、俺なんか一回もないんだけど』
 そうそう、インフルエンザだ。予防接種、受けたはずなんだけど。
 折角皺一つなくメイキングしてあった主が不在のベッドは、一昨日から今日にかけて使ったせいでアポの顔みたいに乱れてる。いつもなら起床と同時に簡単に直すところだけれど、余力のない体は惹かれるようにしてベッドに倒れこんだ。
 清潔感を纏った洗剤の匂いと汗の匂いがする。ここはあいつの部屋なのに、あいつは「ムッちゃんの匂いが染み付いてる」と幸せを噛みしめるようにして呟いていた。おかしい、俺が感じるのはいつも、あいつの、日々人の匂いだけだったのに。
 いつもここでセックスをした。たまに俺の部屋ですることもあったけれど、大抵は。何故か日々人の部屋のマットレスは俺のものより質が良くて、低反発のそれは次の日の体の負担を楽にしてくれる。
 ベッドも、何軒も家具屋をはしごして、でも俺が気に入りそうなのがなかったから、わざわざ北欧のデザイナーズカタログから選んで取り寄せた、って子供みたいに笑う。
 だって寝心地がいいとムッちゃんは俺のところに来てくれるだろ。そう言われた時には飽きれてものが言えなかった。月へ行くことしか考えていないのかと思いきや、くだらないことばかり考えてる男だった。
 なのに妙に勘鋭くて俺を困らせる。俺が困るのを見ると、今度はあいつが泣きそうな顔をするから居た堪れない。
 シャワールームに繋がるドアの開く音がする。日々人のドアはあいつか乱暴に閉じるから、俺が住み始めたときから建付が悪くなってる。
 ギィーー。黒板に爪を立てたような音は頭痛を抱えた脳みそをかき乱す。
「あーあ。ムッちゃんの顔、完全にアウトじゃん。俺が帰って来てなきゃ、どーするつもりだったん」
 そうやって俺の頭を撫でる日々人は今、どんな顔をしてるんだろう。
 何処か労わりが込められた手が離れてから、目に乗せていたアイマスク代わりの腕を除けると、日々人が肩にかけたタオルをぐしゃぐしゃのままキャビネットの上に置いたところだった。日々人はこんなところまで雑だ。シーツのメイキングも雑だったし、庭の芝刈りも驚くほど雑だった。
 何とか予約が取れた病院から一緒に帰って来るなり、ふらふらの俺とベッドにしけこんだ際、日々人はびっくりしていた。
 俺が居たときより綺麗。当たり前だろ。
「はい、寄って寄ってー」
「なんかポタポタ水落ちてくるんだけど。ちゃんと拭いたのか」
「拭いた拭いた。いーから、ほら寄って」
 ごろりと一回転させられて、日々人が俺の隣に空いた僅かなスペースに体を横たえる。また、髪きちんと拭いてない。肩に触れた髪はちょっとどころか結構冷たい。
 シャワーを浴びたばかりの日々人からは体温と混じって石鹸の心地良い香りがした。体温だけでもこいつのものはすごく優しいのに、石鹸が混じるとひたすらくらくらする。
 日々人は昨日突然帰って来た。帰る、と一言連絡すれば済む話なのに日々人は面倒くさがって怠ってしまうから、いつも突然だ。ただタイミングよく帰って来てくれたお陰で、俺は病院に行くことが出来たから、その辺は感謝をしなければいけないんだろう。
 そういえばあいつに肩を借りた際、冬の匂いがした。遠く離れた土地で、人知れずに降り積もって鋭く研ぎ澄まされた雪と、からからに乾いた土の匂い。
『何やってんだよ、ムッちゃん。こんなになるまで、言えよ、ちゃんと。俺じゃ、まだ駄目なのかよ』
 冷えた体を暖めることなく、息を切らして走ってきた大きな犬は、アポみたいに愛嬌だけを振りまいてはくれない。胸にちくりと棘を刺す。そういやお前のサボテン、今年ちっちゃな花が咲いたんだぞ。
 途端、サイドテーブルに置いてあった携帯が鳴り響いた。マナーモードにしたままだったから、ヴーヴーと唸っている。
 もしもし、上体を起こした日々人がその一言で俺が伸ばした手を遮った。
「あー久しぶり、うん、そうそう、昨日こっち帰ってきてさ。うん、元気だよ。アポも。ムッちゃんはね、ちょっと死んでる」
「おい」
 ていうか、俺はアポよりも心配ランクが下なのか。いやそれよりも俺の電話に勝手に出るなよ。視界の中で捉えた逞しい体を上へ辿っていくと、かち合った瞳は俺をくっきりと映していた。髭と頭の癖毛が可愛くない、三十路のおっさんがいる。
『ロシア、可愛い子いるだろ、たくさん。白くて華奢な子が好きなの、知ってんだぞ。ほら、お前が昔付き合ってた子も、すっごく細くて睫毛が長くて』
『黙れって。解熱剤効いてきたの、ならもう一回しよ、溜まってんだよ。ムッちゃんのも、熱あるのにまだ勃ってる』
 腰の怠くて重い感じからして、途中から記憶の前後があやふやだけれど一回では終わらなかったんだろう。嘔吐した人間だというのに容赦がない。
 俺あてにかかってきた電話向こうの人と話す日々人の顔は妙に清々しいのに対して、俺はひどい有様だ。若くない。でも日々人に言わせたら、ひどいのは病気のせいじゃない、っていう。
 何も考えたくないからよく喋るんだろ、って先読みした日々人はいつもより激しく腰を動かしてきた。声がガサついてるのは胃酸とこいつのせいだ。
「何で、って。うん、ちょっとムッちゃんのね、看病も兼ねて。え、まさか!ムッちゃんがインフルエンザにかかってることなんか帰って来るまで知らなかったよ、うん、そうだね、もうすぐ。その時はちゃんと見送ってやってよ、俺ん時みたいに」
「なあ、誰」
 かー、ちゃ、ん。音もなく口だけを動かして、また俺の頭を撫でる。寝てろ、とでも言いたいんだろう。確かにこの状態で母の電話に付き合うのは腰の折れる話だった。
 しかし日々人はいつからこんな気遣いの出来る繊細な人間になったのか、もしかしてロシアに良い娘で出来たのか。俺にそれを邪魔する権利はないけれど、日々人にだって俺の思考を止める権利はない。
 そうして俺に代わることもなく電話を切って、日々人が俺を抱きしめる。
「母ちゃんが、アポちゃんに早く会いたいわー、だって」とくつくつ肩を揺らして笑いを堪えながら。
「ムッちゃんはインフルだって言ってんのに少しも心配してなかった」
「いいんだよ、アポは。母ちゃんにとったら俺たちより可愛くて仕方ないんだから」
 いい歳して結婚もしない、体たらくな男二人を息子に持つ母だって、普段は風のように飄々としてなんでもない風を装っているが、案外心の中ではいろいろと考えている。この前だって言ってたんだ。
 どこどこの誰それが子供産んだとか、それがまたハーフで腰を抜かすほど可愛いとか。あんた達だって本気出せば可愛い子捕まえられるのに、その本気の向いてる先が宇宙なんだから逃げられちゃうのよー、って電話越しに笑っていたけれど、本当は。
「もー、熱あんのにまた何か考えてるだろ。やめろよ、俺、何のために帰って来たと思ってんの」
 日々人は唇を拗ねたように尖らしながら、キスをする。俺にも移るかな、って茶化してくるのにキスはやめてくれない。
 ただでさえ熱のせいで呼吸が上手く出来ないのに、こちらの都合はお構いなし。窒息しそうになる。
 いつまで経っても、こいつは必死にもがくように舌を絡ませてくる。荒っぽいし余裕もない。たまに唇が切れたりする。キスもセックスも両手じゃ足りないぐらいヤってるのに、青臭い。
 反射的に閉じていた瞳を開けると、それこそ俺より重病なんじゃないか、ってぐらい苦しそうに眉間にしわを寄せた日々人がいた。
 布団が小刻みな震度を伝えてくる。さっき日々人が適当にベッドの上に携帯を置いたせいだ。まさぐる俺の手をぐ、と痛いぐらいに掴んで「さっき母ちゃんの電話、途中で切っちゃったから」と息の根を奪うようなキスを再開した。
 日々人は俺の扱い方を間違ってると思う。いつも。壊れ物に触れるような抱きしめ方だとか、ねちっこいぐらい長い愛撫だとか。さっきの携帯電話のようにポイ捨てすればいいのに、といつも思う。
「考えるなら俺のことだけにしろって」
「馬鹿言うな、よ」
「前から真剣に思ってるのに」
 あ、ムッちゃんマジで困ってるな。
 日々人の顔は、やっぱり泣きそうだった。


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