「ムッちゃん、喉乾いた」
「自分で行け。俺は無理」
「俺も無理。ここから動きたくねぇもん」
 それじゃあジャンケンしよう、って布団からのそのそと手を取り出したら、負けたら負けたで三回勝負って言い出すから嫌だ、って睨まれた。
 地球に戻ってから、もう五日は経っている。こっちの重力に慣れるには三日もあれば充分で、何かあった時のために、って理由を付けて初日からムッちゃんのベッドに潜り込んだけれど、それだって本当はもう必要ないぐらいだ。
 挙げればキリがないけれど、俺は何故このヒューストンの家に泊まってるんだろう、とも思う。宇宙局側が、トレーニング期間である一ヶ月半の間、夜景の綺麗なスイートルームを用意する、なんていう何とも豪華すぎる、宇宙局の見栄のような提案を断ってまで。
『最後なんだし、泊まっていけよ。あそこはお前の家なんだから』
 オリオンに乗り込む三時間前にムッちゃんが言わなければ俺は確実に宿無しだった。
 ムッちゃんは俺に甘い。無言の攻防を視線だけで繰り広げると、先に折れるのは大抵ムッちゃんだ。渋々体を起こしてリビングに向かうその後姿を縋るように付いていけば、こうなることがわかっていたのか、呆れることも怒られることもなく「ソファで待ってろ」と俺の頭をよしよしと撫でてから冷蔵庫を開けた。
 随分と長い間キッチンから離れない、と思っていたらムッちゃんが両手に持ってきたステンレスのマグカップからは柔らかな湯気が昇っている。まだ使ってくれてたのか、そのマグカップ。かなり嬉しい、単純に。
「なに、まさかのカルア?」
「俺の最近の寝酒。ミルク多めに作ってある」
 しかもわざわざホットときた。カルアミルクなんて甘い酒をいつから好むようになったのか。いつも手にしていたのはバドワイザーかたまにハイネケン。疲れ過ぎたときや翌朝が早いときにはミラーライトだった。そう言えば俺は随分と長い間、彼をこっちに置き去りにしたままだ。
 甘い。そりゃカルアミルクだからな。
 少し距離を取って座ったムッちゃんは、俺と暮らしていた時と同じ位置にいる。でも一人でいる時は決してそうじゃないんだろう。俺の座るこの位置のクッション性は、前にも増して弱っている。
 俺のお気に入りの、気が狂ったように真っ赤なソファ。何処かで賞をもらったモダンデザイナーの作品だ、ってやたらと話しかけてくる店員の説明を聞いてたらどうでも良くなってきて、勢いで買ったところもあったけれど、間違ってはなかったのかもしれない。とにかくムッちゃんはよくこのソファに座ってた。
 おかげでコーヒーや酒もこの上に良くこぼしてたし、ソファの上でアポと遊ぶから、柔らかな羊革は何処もかしこも傷だらけだ。
 そろそろ買い替えたら、って言ってみたけれど、ムッちゃんは、考えとく、としか言わない。
「俺、弱くなった」
「何が」
「酒。月に行く前に紫さんたちと飲みに行ったら、ダニエル四杯でトイレ直行だった」
「それ、ムッちゃんが疲れてたんだろ。それに紫さんのペースに合わてたら最後までもたねぇよ、あの人ほんとザルだから」
 確かに紫さんには勝てた試しがねぇな。思い出したように目を細めながら、決して度数の高くないホットカルアを啜るムッちゃんの横顔は、既に薄っすらと赤い。
 疲れてる時と、眠い時。それだけムッちゃんの酔いは早く回る。
「ムッちゃん、これ飲んだらちゃんと自分で歩いてベッド行けよ」
「ん。わかってる」
「ほんとかよ。昨日もここで寝ようとしてただろ。ムッちゃん、一回寝たらなかなか起きねぇし大変なんだって」
 今の俺じゃ、ムッちゃんを運んでやることもできないんだから。わかってんの。矢継ぎ早に口を開いて、眠そうなムッちゃんに触れようとしたら「わかってるよ」とぶっきらぼうに振り払われた。
 行き場を一度失った手はじんわりと痛い。それでも強引にムッちゃんの腕を握れば「悪い」とムッちゃんが声を漏らして、俺を見た。こちらを正面から捉えてくる夜色の瞳の奥は、決して怯えとか後悔とかじゃない。強かで立派な欲を包んで、俺が必死に押さえ込んでるものをいたぶるように煽る。
 兄、というガチガチの殻にこもったムッちゃんは甘えるのが下手で、こういう関係になってからも、彼から仕掛けてきたりすり寄ってきたり、というのは少なかったと思う。ただ時々、気まぐれに。酒の力を借りると、決して自分からは動かないのに、ねちっこくてまどろっこしい、蜘蛛の糸のような瞳で俺を追いかけてくる。もちろん俺が気付くまで、だ。
「ムッちゃんさ、今自分がどれだけエロい顔してるか、わかってる」
「何となく、わかってる」
「何で今なんだよ、お預け喰らわされて平気でいられるわけねーだろ」
「コントロールしろよ」
「出来ない」
「優秀なコスモノーツなんだから出来るだろ」
「何だよそれ。ムッちゃんこそコントロールしてくれって。あーもう、マジ、どうしてくれんの」
 さっきわざわざ振りほどいてくれたのは、彼のコントロールされた理性の仕業だったんだろうけど。
 手の中のステンレスカップを奪って、呼吸を止めるようなキスをする寸前、ムッちゃんは死にそうな顔をしているくせに唇だけは笑ってた。


 帰還後暫くは、介助付き訓練や簡単な筋力トレーニングを行うことになっている。
 でも長期の低重力下に置かれて筋肉が衰えた体には、実はこれが地味にキツい。一度経験済みの俺にとっては勝手の効かない衰え具合と、これから迎えるだろう回復段階への長い道のりに何も不安はないけれど、ムッちゃんにとっては初めてだらけだ。
 ムッちゃん自身も予想の範囲を超えた不自由さにかなり苦労しているようで、ベッドで横になる時間は俺より長いと思う。いつもならちょっと間抜けな寝顔も眉間のシワがくっきり過ぎてお世辞にも可愛いとは言えなかった。
 今日もムッちゃんはふらふらになりながらも、開放感たっぷり、って感じでダブルサイズのベッドの上で大の字になった。
 両親はもう高齢で、飛行機の長旅が辛いと言っていたから、今回の帰還に合わせて呼ばなかった。その代わり今は週に三日ハウスキーパーを雇ってる。おかげで布団はいつもふかふかだ。
 俺の寝る場所がねぇじゃん、と不満を言いつつ、大の字を狭めるようにしてムッちゃんにくっ付く。今日はしねぇぞ、なんて的外れな釘を刺されてちょっと困る。俺だって毎日発情してる訳じゃないし、空気ぐらいは人並みに読めた。
 布団と同じぐらい俺にとっては気持ちいい、彼の髪に、指先を沈ませながら何度も撫でてやる。
 何やってんだ、日々人。怒るというよりは戸惑っている、という表現が正しいだろう。面食らって瞳孔をきゅっと絞ったムッちゃんの顔は、兄らしい仮面が外れててちょっと面白い。そういえばこんな風に撫でてあげたこと、今までにあったっけ。
「いいこ、いいこ」
「俺はお前のおにーちゃんだぞ」
「知ってるよ、三歳年上のな」
 普段は月に置いてあるような高いプライドも珍しく降りてきているようで、怒りもせずに俺の腕の中で瞳がゆっくりと閉じられる。やがて鼻先を腕にすり寄せるように突かれ、腕枕を強請ってきた。
 左腕にかかるずっしりとした重みは久々だ。
「日々人」
「なにー」
「お前がプリティードッグに負けそうになってたあの時期、俺もこうやって同じことしてやってた」
「マジで。全然覚えてねぇんだけど」
「そりゃそうだろ、お前が爆睡してるのを確認してからこっそりしてやってたんだから」
 眉間にくっきりシワが寄ってて、可哀想だったから、つい。そう言ったムッちゃんのシワも今日は休みをもらったんだろう、やがて聞こえてきた規則正しい寝息はまだ俺たちが日本に住んでた頃のリズムだった。


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