渡り鳥が見た夢-後編- |
日々人が帰らない。それは俺が大学三年のとき、母からの電話で発覚した日々人の家出だった。 親に負担をかけないよう、県内の国立大学以外を受験するつもりはなかったから、俺の進路は決められたレールの上を歩くようなもので、特にこれといった目標もなく毎日を過ごしている。 夏の総仕上げと言わんばかりに、必要でもない残暑を贈られ、しばらく洗濯を怠っていたせいで七分袖を着ることになった自分に後悔していて。やっぱりまだ実家に秋冬物は取りに帰らなくていいか、そんなことを考えながら汗を腕で拭ったように思う。 今さっき通り過ぎた大学前の銀杏並木は既に黄色くて、雨が降る前触れなのか青空を塞ぐ厚ぼったい雲の中でも、雀や烏は鳥影を地上に薄く落とす。 そんな中の、着信だった。 メモもなかったから行方がわからない、俺のところに泊まってないか、大体そんな内容だ。 銀杏が旅立つ前の最後の化粧に選んだのは、どうして黄色だったのか。世の中の決まりきったことを考える時、俺は弟のことを考えるのとそう変わらないな、って思う。自分の一生を費やしてもわからないもの、答えがありそうでないもの。世の中にはそういうものもある。 だから俺は「泊まってないし、あいつが行きそうなところもわからない」とだけ答えて電話を切った。 まさかその夜、雨に打たれてびしょ濡れになった日々人が「一緒に寝よう」なんてやって来るとは思わなかったから、俺はひどく慌ててあいつにタオルを押し付けたと思う。 見つけたら知らせてよ、ムッちゃん。 母に釘を刺されていたのに、俺は電話をしなかった。多分、日々人に聞いたところで「連絡するな」って言うんだろう、って自己完結もさせて。背筋が凍るような後ろ暗さをずっと感じている。 ひとまず着替えとシャワーを貸してやって、さっぱりとした様子で出て来た日々人は、この日初めて「ありがと」と笑った。笑うと細くなる目とか、きゅっと深く持ち上がる唇とか、昔から変わらずある弟の仕草のお陰か、変にざわつきっぱなしだった胸の奥が少しずつ穏やかになる。 「そろそろ俺、この部屋に自分専用の枕と布団持って来ようかな」 「これ以上荷物で狭くなったら俺が困るから却下」 ムッちゃんってケチだよなあ。てか、この部屋狭いんだよ。家賃と利便性との兼ね合いで選んだ部屋にまで文句を垂れつつ、日々人がベッドにダイビングを決める。ドスン、と激しい音と震度。その後すぐに真下の住人が床からドンドンと何かで突ついてきた。 夜も更けているんだから、近所迷惑もいいところだ。 「お前のせいだからな」 「えー、俺?」 「すっとぼけた顔しても無駄だから。で、とっとと寝ろよ。俺は朝からバイトなんだから」 弟の顔面目掛けて、やたらと大きいうさぎのぬいぐるみを投げ付けてやった。戦利品らしい、ゲーセンの。 何かこのウサギ、俺に似てね?うわ、ヒビット君、って何、名前まで似てるよこいつ。ああ、でさ、狭いケースの中でいるから可哀想になっちゃって。財布の中、千円しか入ってないのに八百円もこいつに使った。しかもムッちゃんの部屋に行こうと思ってメトロ乗ったら、所持金残り四十円だ。俺、今、すんごい貧乏だろ。 日々人はそんな状況でも影を一つも落とさず屈託なく笑っていたけど、俺には日々人の思考回路が少しも理解出来なくて、ただ呆れかえるだけだった。 「一週間何処ほっつき歩いてた」 「あれ、母ちゃんから聞いた?」 「答えなきゃ今すぐベッドから転がり落としてそのまま追い出すからな」 「うーん、明日も泊まっていいなら教える」 「おい」 「怒んなよ、わかったって。明日には出て行くから、今日だけ、な?」 結局日々人と口論しつつも、最後はあいつがベッドにしがみ付いてしまったから、俺は悲しくも床で寝る羽目になってる。 弟が至福そうに布団に潜るのを横目で見つつ、誰だってベッドの方が床で寝るより極楽だ、と心の中でごちた。 「電気消すぞ」 「うん」 訪れた静寂は、俺にとって酷く有難かった。日々人が来てからずっと不規則だった心臓が、暗闇の優しい手がそう、と撫でられて一定のリズムを呼び戻しつつある。 思っている以上に俺は神経質なんだろう。こうやってすぐ呼吸は乱れるし、心臓は踊って、繋ぎとめなければいけない睡魔の手をいとも簡単に離してしまう。かと言って羊は何か数えられないし、気分が落ちれば空を見上げる余裕もない。 単純なものほど、生きる上で難しいものはなくて、難しいものほど俺は必死になって乗り越えようとしてる。 「ムッちゃん」 「どーした」 あのさ、まだ起きてるんなら、聞いてくれる? 思わず、天井からベッドへ視線を動かした。 いつもなら「聞いてよ」と始まる一方的な物語が、今日は甘えた声で耳の扉をノックするように始まった。 「ムッちゃんはさ、自分が結婚して子供を抱くイメージある?」 もちろん日々人は恒例のように布団を頭からすっぽりと被っていて、表情なんてものは伺えないのに、布団の塊から目を離すことが出来ない。 喉から解放された、やけに落ち着いた声の出処を一瞬疑ったが、あれは間違いなく、日々人のものだっただろう。 まだまだ子供だとばかり思っていた日々人の口から“結婚”なんて単語が出てくるとは夢にも思わなかったから、さっきの声を何度も頭で呪文のように反芻してしまう。 「またいきなり。お前の話は飛び過ぎなんだよ」 「ごめん。でも今の彼女がよくそんな話をするから」 「気が早過ぎるだろ、本当にその子ともう結婚するつもりなのか?」 「さあ、どうだろ。何人かとヤってはきたけど、セックスがあんまり気持ち良いって思ったことがないんだよな、俺。自分でオナニーやってる方が楽だよ。気持ち良くないのに結婚してセックスまでして子供作るとか、更に考えらんねぇ」 今日々人は、どんな顔をして、未来を語っているんだろう。 玄関先に現れた日々人は、あの時、完全に感情の色を忘れて来ていた。見事に濡れてない箇所なんかなくて、顔にはいくつもの雨の通り道があるのに拭いもせず立っていた。 俺の後ろから溢れた部屋の明かりが、見えない月の代わりに日々人をゆっくりと包んだ時、ようやくホッと顔を固まった緩めて、たどたどしく日々人が笑った。何だか路頭の迷い子を助けた気分だった。 そうか、と。務めて平然を装って答えてから、結構な間の後。彼女とケンカしてさ、日々人が言う。 「あんまり結婚とか子供とかしつこく言ってくるから、つい面倒くさくなって」 結婚しない恋愛もあるだろって言ったんだ、と自嘲したのか小さな笑い声がした。 「修羅場だった。このまま別れるのかな、俺たち」 「馬鹿だな、結婚したい子の方が多いだろ、女の子なら普通」 「普通なんだ。ムッちゃん、男なのによくわかってんね」 「お前がわかってなさすぎなんだって。何でそんなこと言ったんだよ」 「何でだろ。なんか言いたくなった」 口は確かに「日々人」と。咎めるようにそう動いたけれど、そこからは空気が漏れただけだった。 キッチンの蛇口が緩んでいるんだろうか、ぴちょん、ぴちょん、と雫の落ちる音がしている。 未だ雨は止まない。布を引き裂いているような走行音の出処は、アパートの前を通る車のせいだろう。 落ち着いていたはずの心臓が再び調律を崩し始めたから、このまま俺の体を手放せてしまえたら、なんて、気の触れたことを今考えてる。何でも良かった。何かに縋り付かないと、光すらない谷底に突き落とされそうだった。 「俺さ、意外と生きるために必死なんだと思う。だから、結婚に意識を向ける余裕がないのかもな。 ムッちゃんみたいに凄くないし、何をするにも下手くそだから、すげぇ毎日必死。知らないだろ、逆上がりだって、はやぶさだって、俺、めちゃくちゃ練習した。そうでもしなきゃ、スゴい人の目に留まることも出来ないんだよ、俺は」 そんなことないだろ、と兄らしく振る舞って、言ってやりたかったのに。無責任だ、って罵られる気がして言えなくなる。 一方的に続く話に跳ね上がるだけの心臓のせいで雨音が聞こえない、。雑音だらけの空間に、今更だけど日々人がいる、ってこういうことなんだ、と思った。一人暮らしが長いと忘れてしまう。 ムッちゃん、寝た? 沈黙を保つ俺に問いかけてきたからぶっきらぼうに「寝た」って答えると、けらけら笑った。 「明日からはちゃんと家帰るよ」 「最初からそうしろ」 「あと、ごめんな、ムッちゃん」 この一週間、ずっとムッちゃんに会いたくて仕方なかったんだ。 純粋に透き通った弟の声は、酷く大きな音で脳内でがんがん響いた。 俺たちは割と兄弟喧嘩が少ない方だったと思う。仲直りするときも、どちらが悪いか頭では理解していたから悪い方が必ず「ごめん」を口にした。だけどこの一方的な弟の「ごめん」は、今までのどの「ごめん」よりも、鈍器で殴られたように、痛かった。 どちらも悪いことなんてしていないはずなのにどうして後ろめたさがなくならないんだろう。 日々人の声はそれっきりだった。 俺は人生で初めて羊を数えてみた。多分526匹目を数えたところで、日々人の安らかな寝息が聞こえてきたから、数えるのを止めて、布団を頭までたくし上げた。 →next |