渡り鳥が見た夢-前編-

※パラレルです。
※もしも宇宙じゃなく、鳥を追っかけてたら、がテーマです。


 限りない空を雄大に泳ぐ姿、それを支える翼。
 風に乗り、一ヶ月以上も休むことなく飛び続ける、自由の象徴を、誰よりも真っ直ぐに追う男が言った。
「俺、あいつら以上に贅沢な生き物、他に知らないんだ」
 お前こそ、誰よりも贅沢な生き物だ。


 カモメ科、キョクアジサシ。
 世界一、飛行距離の長い、渡り鳥。
 全長は約35センチ、一般的なハトと同じ大きさで、体重に至っては100グラム程。鷲や鷹のように立派な体格ではないけれど、一年間で南極と北極を行き来する、パワフルな鳥だ。
 白夜を求めて飛ぶ鳥、なんて洒落た通り名も持っているように、夏は北極で繁殖期を迎え、冬には夏の南極で餌を求めて渡る。
 白く柔らかそうな羽、黒いベレー帽を被ったような頭部。冬には黒いくちばしと足も、夏には情熱のリップを塗ったように赤く染まり、靴下を身に付ける。もちろんそこも真っ赤。それが雌に求愛するためだ、っていうのだから、人と鳥も根っこの部分は同じなのかもしれない。格好つけて、身なりを整えて、気になる人の視線を少しでもいいから惹きつけていたいのは、きっと誰もが持ち得る虚栄心だ。

 渡り鳥は、誰に教えられた訳でもないのに、群れに定められた経路、方角を間違えることはないのだという。群れのリーダーから次のリーダーへ伝わるのか、それとも親から子へと教えつがれているのか。研究を続けているものの、それは未だ謎のまま。脳に仕込んだコンパスだけを頼りに渡るだなんて、何とも胸の踊る話だ、って弟は言う。
 たまに経路から離れて、普段観測出来ない土地で羽を休めるものを迷鳥と言うけれど、キョクアジサシを日本で見たいのならば、その迷鳥になってもらわなければならない。
 何故なら日本は彼らの経路に組み込まれていなかった。滅多にお目にかかれない鳥として、たまに北海道や東北地方に現れた時には、“憧れの鳥”として野鳥ファンが俄かに沸き立つし、弟にとっては、これ以上心の奥底から熱くなる鳥はいない、って。偏りまくった情熱だけは並み外れて強いんだよな、と。弟の日々人が、自分をそう評していつだったか苦笑していた。

 さかのぼること、二年前。グリーンランドの自然資源研究所がキョクアジサシの研究チームを組み、小柄なキョクアジサシの自由を奪わないよう、専用小型の光センサーを開発して取り付けた。その後発表された研究報告によると、キョクアジサシはその一年の間に八千万キロの走行距離を叩き出したというのだから驚きだ。
 人間が予想していたキョクアジサシの飛行距離の、なんと二倍だったという。
 人間だって一年間の歩行距離はせいぜい二万キロぐらいなのだから、一体この鳥は体の何処に、息を飲むようなエネルギーを秘めているのだろうか。
 約三十年生きるというこの鳥が自分の力だけで地球と月を三往復できるとわかった時、その体内に潜めた磁石のようなものに、日々人は強く引き寄せられたのだろう。
 絶対的な引力だった。
 憧れ程度に留めていたものが、堰き止める力を物ともせずに溢れ出した結果、日本の、しかもいち研究員だった人間が、グリーンランドの自然資源研究所の職員になれたのだから、弟の情熱を注ぐ場所は間違ってなかった、そう信じている。
「俺はもうお前は死んでんのかと思った」
「ひでぇな。ほら、よく言うじゃん。知らせがないのは元気な証拠、って」
 グリーンランドは北アメリカ大陸の北、カナダの北東に位置する、世界最大の島だ。夏も10度まで上がれば良い方で、島に至っては領土の約80%が氷。日本からの直行便なんてものはないから、一度成田からデンマークに入ってからグリーンランドに渡るしかない。赤い四駆の助手席に座る俺はまだ時差と長旅の疲れが抜けず、北極側の海へと続く道路の小さな揺れも堪えて、窓に映った自分の眉間の皺は、耐え忍ぶようにくっきりだった。
「別にさ、様子なんか見に来なくたって元気にやってるよ、俺。ムッちゃんから言ってやってよ」
「そうじゃねえだろ。ちゃんと連絡してやれ、って言ってんだ。子の心配しない親なんかいない」
「機嫌悪いね。なに、ムッちゃんの結婚式すっぽかしたこと、まだ怒ってんの」
「何年前の話だよ、それは水に流してやってるだろ、俺はお前の根無し草っぷりに感動しているだけだ」
 棘があるな、それ。弟が困ったように笑う。
 結婚式の日取りの知らせを聞く前に日々人は既にグリーンランドへと旅立っていて、国際電話を散々無視したものだから、俺の結婚式がちゃんと執り行われたこともさっき知った、と日々人が言う。
 血の繋がった弟が、高砂に座る二人の行く末を一番に祈るための末席で、一つだけの空席を作った事実。そこから来る俺の視線を、この肌寒い気候を物ともせずに開けっ放しの窓から風を浴びながら受け流しているようにも見える。鳥と共に生活をすれば、人はこのようになっていくのだろうか。
「でもまあ、折角こんなとこまで来たんだから、見て帰れよ、ムッちゃんも。キョクアジサシ」
 路肩に車を寄せ、サイドブレーキをかけて、外に出る。次いで俺も不承不承ながらに、ドアを開けた。
 日々人が手に持っていたのは小型のカウンターと双眼鏡と一眼レフ。日々人の仕事はこれがなければ始まらない。
 北極も迫るグリーンランドの真北の海岸線にキョクアジサシの巣床は点在しているという。現在は六月。都心では11度らしいが、ここはどうだろう、5度もないかもしれない。それぐらい肌寒い。予想外だった。俺が眉間の皺を更に深くして腕を囲うものだから異変に気付いたのだろう、万が一に備えて車に乗せっぱなしにしてあるんだ、と毛布をこちらに投げて寄越してきた。
「洗ってんのかこれ」
「そんなところを心配するってのがまたムッちゃんらしいな」
 今日は薄曇りで、風は眠った神経を呼び起こすように冷たい。最盛期にはここら一帯は氷山のようになるというのだから、雪も氷も溶けて流れたこの時期に至ってはまだマシな方なのだろう。ピーク時の寒さといったら、北極、南極程ではないにしても、数秒外にいるだけで暖を求めたくなるよ、なんて笑い声を聞きながらも、寒さに不慣れな都会育ちの日本人である俺は、今すぐ尻尾を巻いて逃げ出したいところだ。
 最初の頃はよく研究所の仲間に笑われたよ、大好きな鳥見てるくせにいっつも寒さのせいでしかめっ面してるから。
 冗談目かして言う日々人の横で、きっと俺もその時の日々人と同じ顔をしていることだろう。
「この時期はくちばしも足も赤いからよくわかるだろ?」
 毛布に包まりながら空を仰いだ。
 日々人の見る先が何処かはわからなかったが、俺も日々人に借りたスペアの双眼鏡を使って無数の鳥の影を追う。かち、かち、かち、と。隣から行き交う鳴き声のなかでカウンターの音だけが異質に響く。
 自然を守るために不自然なものを駆使する、この世界は何処か異質で歪だ。
「でもあんまり近寄んなよ。今の時期は子供を守るために必死で攻撃性が増してるんだ。近寄りすぎると頭突かれるからさ」
 繁殖期を迎えた今、卵から孵ったばかりのヒナのため、親鳥が餌を求めて水場を賑やかしている。巣に降り立つもの、卵を温め続けるもの、空を縦横無尽に飛び回るもの、その全てが俺の目には新鮮に映った。
 キョクアジサシが捉える目に、翼のない俺はいくら想像を働かせようともなれない。その憧れを瞳の膜に募らせるしか出来なくて、焦がれるように空を見上げてしまう。そうして緩やかに流れる時間が、何だかとても心地良く感じるのは、ここが異国の地であり普段の生活から切り離されたように思えるせいなのか、三十二にもなって初めて生きたキョクアジサシを見ているせいなのかわからない。思い浮かんだ三つ目の理由もあったけれど、考えることはそこで止めた。
 ほぼ毎日研究所から車を走らせて、キョクアジサシの観察、孵化の進行具合、たまに沿岸のゴミ掃除なんかもするけど、もう完全にボランティアみたいなもんだよ、俺の仕事。って日々人が教えてくれたから、部屋の掃除もまともに出来なかったくせに、って返してやった。
 日々人は俺の小言をまたさらりと交わして笑っている。
「キュー、キュー、って鳴く声を聞き分けられるようになるまで俺は結構時間かかったな。ギターやってたのにあんまり聴力よくないみたい。鳴き声だけで何百種もの鳥を判断する研究員には驚くよ」
 ペラペラ語りながらも、カウンターを押すスピードだけは緩めない。それぐらい、多くの水鳥が、キョクアジサシが飛び交っている。
 今日は多いな。珍しい客を俺が連れてるから嬉しいんだよ、きっと。あと、俺もね。
 そうやって事もなげに言うから、俺はどう答えればいいのか迷った挙句、何も言えなかった。
「良い声してるな」
「え、もうわかんの」
「目で追ったその先にいるのがキョクアジサシなら、そこから聞こえる声に意識を集中させるだけだろ」
 簡単だ、これぐらい、って。日々人に笑いかけてやる。
 笑ってくれる、と単純にそう思っていたのに、そうじゃなかった。今にも泣きそうな顔をして、日々人は俺を見る。カウンターの音は、唐突に止んだ。
「相変わらず、スゲーなムッちゃんは」
 ムッちゃんは、いつだってそうだ。
 命を数える音が止んで、異質も歪もなくなって、純粋な世界が降りてくる。
 一瞬、生きるための全神経を根こそぎ彼の支配下に置かれてしまったかのように、息が詰まった。日々人の請うような目が、肺を、心臓を、俺自身を握りつぶそうとする。
 救いを空に求めて、再び双眼鏡をかざす。
 呼吸をする。瞬きをする。鳥を、見る。
 こんなに単純で、難しいことを、弟はずっと繰り返している。


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