人魚になりたい

 外はオアシスの取り合いだ。
 暑さに茹で上がった人達が、群がるようにして木陰や日陰で身を休めている。
 色鬼に似ている、と思う。かなり特殊な色を指定されると、あんな感じになる。
 俺は得意じゃなく、弟の日々人は得意だった。
 曇りのないレンズの奥に秘められた観察力が軒並み優れていたのだろう、日々人は真っ先に指定された色を見つけ、俺の手を引くと小さく短な足を必死に動かした。
 追い抜こうと思えば出来たけれど、俺にはあいつの見える色が見えないから、もどかしさを覚えても、足の歩幅が合わずにぶつかりかけても、あいつの後ろを走ってやった。
 少し目線を下げれば色素の薄いとんがり頭を支える首には、たらたらと大量の汗が浮かんでいた。着地の瞬間の振動で、小さく汗が弾け飛ぶ。コマーシャルとかでよく見る、爽快、フレッシュ、とはほど遠い、砂埃まみれの汗。
 太陽はまあるい。丸いものは大概可愛いのに、夏の太陽は可愛くない。可愛さで隠していた棘を、夏になった途端人間に浴びせてくるからたちが悪い。
 暑い、なあ。こいつも、暑いんだろうな。ぼんやりしていたら、早く走れよムッちゃん、って怒った。引っ張る力が強くなる。俺が加減しているのも知らずに、丸くて柔らかな頬を膨らませて、捕まりたくないだろ、って。また汗が頬を下っていく。
(暑そうだなぁ、こいつ。な、暑いだろうな。これが終わったらアイス買ってやるよ、日々人。今日は当たる気がするんだ。母ちゃんにはないしょ、とくべつだぞ)
 心の中で静かに涼を求めたことも、とんがり頭の弟は知らず、ひたすらに真っ直ぐ、あの鈍色の目だけに見える蜃気楼のような道を走り続けた、遠い夏の日のことを思い出して、俺は久しぶりに、くじ付きのアイスを買った。


 大学に入ると同時に家を出た。
 合格した大学に近ければ近い程良くて、実家から遠ければ遠い程、解放される気がして選んだ、学生用のワンルームマンションは、リフォームしたばかりでフローリングは傷もなく、壁だってシミのない、まさに真っ新な部屋だった。壁も厚い。最寄り駅も近い。若干相場より割高なところはバイトして何とかする、と母を押し切り、内見を一軒分だけで決めた。
 この歳になるまで、それはもう快適な生活だった。風呂の順番待ちも必要なければ、干渉の目だって張り巡らされていない。ベッドのマットレスだって普段以上に跳ねる気がする。
 所詮一人暮らし用のキッチンはコンロ一台に狭苦しい流し台と便利性に欠けたものの、かじっていただけの料理に力を入れて、俺の本棚にはレシピ本が着実に、侵食するように増えていった。
 出来るだけ日陰の中を歩きながら買ったソーダ味のアイスをパッケージから取り出して、噛んだ。なのに一口噛んだところが悪かったのか、ぽっきり、とほぼ根元から折れて、熱されたコンクリートの上に青い塊は落下した。
 今日は何かとツイてない日、らしい。
 去年、風邪が長引いて運悪く出欠重視だった単位を取り損ね、しかもそれがまた一限目という怠け心が身についた体には心底キツいものだったから、前日は早めに就寝した。なのに、普通に寝過ごした。寝癖直しもそこそこに家を飛び出した途端のゲリラ豪雨で、傘も持っていなかったからびしょ濡れ状態。
 もちろん大学に着いた途端に雨は止み、授業の出欠だって間に合わなかったし、折角買ったアイスも一口しか食べていない。
 何気なくソーダ風味の木の棒を舐めたら、あまりにも不味くて小さい頃の記憶は割とアテにならないことを知る。
 あの頃夢中になったお菓子を今でも食べているのか、と言われたら頷けないし、子供というだけで次々と広がる世界の真新しいものたちに夢のフィルターでもかかるのだろう。
 やっぱり、これはハズレだったか、と。何も書かれていない棒を見て思う。多分当たりは、こいつの左隣にあったやつだった。
 俺にはこうやって突然、勘が働くときがある。そしてその勘は不思議と当たり、幸薄い割に、勘だけは鋭いのもどうなのだろうか、と悲観する。幸薄いと感じるということは、その勘は決して俺の幸福を連れてくるためのものじゃないからで、俺にとってはあまりよろしくない能力だ。
 刈り上げたうなじがやけにいたぶられるなと思っていたら、猛暑日だって、と手で扇ぎながらすれ違った、襟ぐりの開いた白いブラウスの似合う女の人の言葉から仕入れた情報により、納得した。
 ちなみにその三文字を見た時、俺の隣で「猛っていう字、怪獣みてぇー」とノートの隅に潰れた鉛筆の先でで怪獣の絵を描き始めた弟に「お前、わかってんのかわかってないのかどっちだよ」と呆れたものだった。漢字ドリル、英語ワークの前に、算数ドリルをこなした後だったから、集中力がぷっつりと切れたらしい。
 ただ本当に、惜しい。確かに猛の部首は、けものへん、だった。
「遅せぇよ、ムッちゃん」
 でもそれは小学生の頃の話であって、俺の部屋の玄関にタオルを被って、耐え忍ぶように俯いている男は、怪獣の絵なんかもう何年描いていないのだろう。
 突然の来訪者に、心臓の音が一度止んだかと思えば、次に聞こえた時には耳を大きく揺るがすような音に変わっていたから、その男の名前を呼ぶことは出来なかった。
 じわりじわり、と皮膚を突き破って現れた汗が、うなじから背中の筋を蠢きながら下る。
 のれんをくぐるようにタオルをめくって俺を伺った日々人の目が、この暑さだというのにひとつも曇りなくこちらを見てきたものだから、俺はどんどん汗が噴き出してくる。
「人の部屋の前で何やってんだ」
「だって入れねぇだろ、ムッちゃんが留守なら」
 茹で上がったタコみたいな顔色をした日々人が吐き捨てた。
「じゃあコンビニとかファミレスで時間潰すとか、とにかく避暑、避暑。猛暑日だぞ」
「一応対策はとったよ」
 日々人の視線を辿れば、コンビニで買ったらしい、空っぽの冷凍用ペットボトル一本が倒れている。あのかちかちの中身を飲み干すぐらい、ここに居た、という現状を頭に入れるには、少し勇気がない。
「一言連絡入れろよ」
「まあ、居なかったら待てばいいか、って思ってたから」
「それで部屋の前で倒れてたら、それこそ大迷惑だ。家族に迷惑かけんな」
「心配は程々ならかけてもいいんだろ、ムッちゃん」
 昔、そう言ってたよな。白い歯を見せて笑う。
 あまりにも日々人がふらふらと家から居なくなるから、俺が注意した内容そのままを、挑発的な目を向け、まるで俺が今こいつの心配をしているような言い方だったから、少し癪だった。
 散らかってるけど、まあ上がれよ。日々人はいつも実家で揃えないはずの靴を丁寧に揃え、段差を登りきってから、ようやく「お邪魔します」と静かな室内に、凛と空気を震わせる。
 空気を断ち切るかのような日々人の「他人の家に入るときは必ずお邪魔します、って言え」と口を酸っぱくして教えてきたことを実践する弟は、成長への感動なんていう安っぽいドラマのようなものを俺に与えてはくれない。
 与えてくれたのは、ことごとく格好のつかない、緊張だ。


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