星を溶かす人

 寒い。ただ、その一言に尽きた。
 時間の確認すら一秒以内で済ませたくなるような風に横殴りされ、すぐさま携帯ごと手をコートのポケットに突っ込んだ。
 歩けば歩くほど耳が痛い。耳当てとマフラーは最低限だ、と散々言われて最近買ってみたウシャンカは、ちょっとケチってアクリル性のものにしたのに(それにアクリルなら家で洗える)、耳まですっぽりと覆えば、若干落ちる保温性を除けば本物にも負けないぐらい暖かい。
 息を吐く。真っ白だ。どこもかしこも。
 朝見たニュースでは、最高気温でマイナス五度。人々に早々の帰宅を促すような昨夜の冷え込みが、日本ではまだ秋と呼ばれる十月にして初雪をもたらし、十二月にもなればほぼ毎日雪が降る。本格的な冬の到来だ。
 モスクワの雪はどこまでも厚く、粉砂糖をかけたように建物は白を被る。もっと若ければ全身で雪に跡を付けて喜ぶのに、今ではとにかく寒さに耐えられず、職場と自宅の往復を淡々と繰り返すだけだから、心も体も若さを失っている。
 まだまだ雪にピーク時の厚さはないけれど、近いうちにそれもやって来る。足底がそう予言している。
 心を躍らせるような蝉の鳴き声とか、肌をちくちくと突き刺すような陽射しといった、夏の足音を聞いたのは、気の遠くなるような昔に思える。
 ここに住んでから、駆け抜けるように毎日が過ぎていった。
 モスクワの夏の短さと冬の長さは俺から四季の感覚を確実に奪い、特に抵抗もなく順応していく自分がいる。順応すればする程、今日がなん日、なんていう時間経過の感覚すら麻痺していくのだから、俺はやっぱりある人によく言われたように何かが“足りない”のかもしれない。
その言葉を思い出すと、不思議と冷え性でもないのに指の先が温度を失った。かき消すようにポケットの中でぎゅ、と握り締める。
 鈍感を纏って歩く俺でも、極寒の地を抱えたロシアの寒さだけは鈍感にはなれず、無意味に唇を突き出し、コートに首を竦めながら雪をかくようにして辿り着いた目的地は、五分程前に成田からの直行便が降り立ったばかりで、多くの日本人が俺の横を通り過ぎる。耳慣れた母国語が久々に鼓膜を撫でた。
「わざわざ悪いな」
 そんな中の一人、長旅の疲れをほんのり皮膚に乗せながらやってきたムッちゃんは、それはないだろ、と思う程、場違いな格好だった。
 つまりは、薄着過ぎた。
 ムッちゃんは、少し体が弱い。例えば遠足、運動会の直後はよく軽い熱を出した。
 ムッちゃんのそれは、日常生活に影響が出る程のものでもなく、少し横になれば、翌日にはケロッとしてカレーや肉といったものを平気で食べている。俺は一度熱を出すと一気に消化機能が落ちるし、ズルズルと高温が長引くから、到底考えられないムッちゃんの涼しげな光景に何度も新鮮さを覚えたものだ。
 可能性を減らすためにも、事前にロシアの寒さについて懇々と語っておいたというのに、薄手のロングコートと新調したばかりという真新しいスーツの他、防寒具一切なしの出で立ちで現れた兄に対し、再会の挨拶もないまま「死にたいの」と言ってしまった。
 凛々しい眉がむっ、と寄せられる。目の下に作った隈が彼の疲労具合を告げている。
「九時間以上かけて来てまで、わざわざ死に場所探さなきゃいけねーんだ」
「だってさ、その格好、なめてるとしか思えない」
「いいだろ。それに室内は暖房効いてる、って」
「誰が」
「前に、吾妻さんが」
 吾妻さんとムッちゃんは、体の作りが違うだろう。ストイックな吾妻さんは、野球球児時代の肉体を保つため、相当の陰なる努力もしていると聞く。兄はサッカーの経験はあっても、筋肉の付きにくい体格で、身体作りも宇宙飛行士に選ばれてから再開したのだから、差はあって当然だ。
 喉を突き破りそうになった言葉を抑えて、紫色になりかけた爪達を従えたそこからキャリーバックを奪う。刹那触れた手は、心臓を鷲掴みされるような冷たさだ。
「ひとまず、これ」
「なんだよ」
 寄せた眉を戻すことのないまま、渡した紙袋をムッちゃんが受け止める。中に入っていたものを確認した途端、細めていた目がぱっ、と開いたものの、その目の奥にある色は決して喜びではない。呆れとも煩わしさともとれる大きな溜め息を吐き出しながら袋の中のものを掴んで、また一つ溜め息。
「この高そうなコート、どうした」
「買った。あ、ちなみに帽子も入ってる。こっちじゃ贈り物は普通だって。花も贈れない男は甲斐性なしだ、って」
「いや、意味がわかんねぇ」
「わかるだろ」
 多分俺を咎めようとして開いただろうムッちゃんの口を遮るように、ひとまず着てみて、と催促する。上質のロングコートは黒のような濃紺だ。カシミヤ混の生地も滑らかで保温性も高く、何よりシルエットが綺麗だったから、背丈のある兄に似合うと思ったし、こうして薄着で来ることも何となくわかっていた。勘が働く、ってこういうことを言うのだと思う。
 高いもん買いやがって。わしゃわしゃと髪を掻いてぼやいたのは、律儀にも既にボタンを留め終えたムッちゃんだ。
「ほら、ウシャンカも。冬に帽子被ってないと、行き交うおばちゃんに、帽子ぐらい被りなさいよ、って小言言われるから」
「何だそりゃ」
「経験談だよ」
 見立てに間違いはなかったようで安心した。袖丈が余ることも足りないこともなく、肩幅も窮屈そうではない。何よりムッちゃんの顔が僅かに綻んでいるから、自分好み、としての問題は正解だったんだろう。
 最後にウシャンカを乗せてやる。トレードマークとも言えるムッちゃんの柔らかなもじゃもじゃの黒髪が消えると、意外に鼻筋が通ってる所とか、女にも負けないぐらい量の多い睫毛とか、ムッちゃんの顔を作る俺の好きなパーツ達が一際際立った。
 行こうよ、って言うと、ああ、と変にくぐもった声が続いて、垣間見ればムッちゃんは、立てた襟に口を埋めていた。マフラーも買えば良かったかもしれない。喉を痛めないように、のど飴も。
 空港の空調はシャツの下が程よく汗ばむ程度には効いているのに、肩を並べると左肩に触れる空気は冷たい。
 ムッちゃんは生きているのに、不思議とひんやりしている。小学生の頃は夏が来ると冷たいムッちゃんをアイスノン代わりにして抱きつき、うっとおしい、とよく怒られたものだ。
 俺は、兄の体はちょっと弱いのはそれが原因だと思っていて、その日も確か京都から家族四人揃って家に帰って、玄関を跨いだ途端ムッちゃんがふらふらと倒れた。
「我慢しすぎるのよ、ムッちゃんは」と母がムッちゃんの広い額に触れながら呟く。油や調味料のボトルが詰まったレジ袋と、特売のトイレットペーパーやティッシュを同時に抱えるそれとは似ても似つかないぐらい、ゆっくりと、ガラスでも触るような手付きだった。
 体温計が叩き出した数字の上では、本当に軽く熱がある、というレベルだ。母を真似てムッちゃんの手に触ってみたら、真冬の寒空の中を歩いている気分になる。外はまだツクツクボウシが夏を振り向かそうと必死に歌っているのに。
 兄の体の仕組みは謎だ。
 何を我慢してるの。母の横顔に問いかけると、ただ母は困ったように「いろいろね」としか言わなかった。
 それは俺には一生わからないものなんだろう。心と口が直結した母が言葉をぼかしたことなんて、この先もこの後も、これだけだ。だから自分でぼかした先をパソコンで調べて、それでも結局わかったのは、兄は“低体温症”なのかな、っていう程度だった。


 マルシュルートカ。俺はこれが好きだ。
 日本でいう、乗り合いタクシーのようなもので、一律料金で人をあちらこちらに運ぶシステムで七人も乗ればいっぱいになる、鮮やかな黄色いワゴン車。更に、路線内であれば何処でも好きなところで止まってくれるから使い勝手がいい。利便性抜群だ。バスは日本と違って遅延が多いから、スターシティから出る時は大抵これを使った。
 何より、いつも乗るマルシュルートカの運転手は、以前ヒューストンに住んでいた頃、ジェット機の師事を仰いだデニール・ヤングによく似ていた。体格とか。マルシュートカを運転しながら飴やらガムやらを食べているところとか。何よりやたらとスピードを出したがるくせに運転技術(特にコーナーカーブ)がピカイチなところとか。
 タイミング良く空港前の停留所に着いたマルシュルートカ。中を覗けば、まさかのヤング似の運転手が、存在感たっぷりに、早く乗れ、とソーセージみたいな指で招く。客はゼロだ。
 今日暇なのかい?ああ、からっきしだぜ、なんせ今日は天気が悪いからな。運転手がウハハ、と肩を揺らす。
「へー。車中はちゃんと綺麗なんだな」
「ロシアってそういうの多いよ。外はボロいのに中が綺麗な建造物とかびっくりする。ムッちゃんみたい」
「どーいう意味だ」
 文句を言いながらも、目は子供のようにちかちか輝かせて、警報色丸出しのワゴン車にムッちゃんが乗りこみ、俺も続いた。
 そういや天気まではニュースで見ていなかったが、走り出した車窓から覗き見れば、いつもと同じ曇り空。今日はとびきり寒い、冬。
「ムッちゃん、どうする」
「今日はゆっくりしてぇかも」
「じゃあ、スターシティまで」
 運転手が蓄えた髭をにやりと持ち上げ、この寒い季節に窓を全開にする。そうしてお決まりの飴ロケットが美しい直線を描いて吹き飛ぶと、運転手は思い切り良くアクセルを踏み込んだ。
 色彩のない街並みが走り出す。近年は騒がしいぐらいに派手な建物が増えたけれど、やはり全体的には灰色の似合う街だと思う。
 そこに雪が降ると、たちまち退廃的な哀愁が漂う。それを取っ払うように、ロシアの人達は名の通り、水のようにウォッカを煽り、人というエネルギーから作り出された陽気な気配は、街に色を生んだ。
 ただ、酒を飲む気分にならなければ話は別かもしれない。狭い車の中にいると、逆に街に置いてけぼりにされそうな、飲み込まれてしまいそうな、そんな淋しさが前からにじり寄ってくる。
 ムッちゃんは助手席に乗ることが多くて、俺はハンドルを切っていた。曇りだろうが、雨が降ろうが、寝不足で車に乗り込んだ俺に、ムッちゃんが喝を入れて、車は走った。兄のわざとらしい貫禄からのお叱りは車内を陽気にしたし、二人のお気に入りの曲をかけて、淋しさなんて知らなかった。
 もう何年も前の話なのに。普段思い返すことがないよう閉じ込めた記憶を、縋るように掘り起こしている自分がいた。


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