彼を好きだと思った。
 そう自覚した瞬間、私は彼とキスしたいと思ったし、彼にならば処女を捧げても構わないと思った。
 私の彼に対する恋情は一般的な女の子の甘酸っぱいそれではなく、淀んだ性欲だった。汚れきった私の心で彼を汚してしまうことが申し訳なくて仕方なかったのだけれど、私は彼を私のものにしてしまいたいと思った。
 十八歳の冬だった。


   *


 校門の前で待ち合わせようと休み時間にこっそりと彼女にメールを送った。時間を指定したのはおれにも関わらず遅刻してしまって、心臓をバクバクさせながら校門まで走った。
 ほとんどの生徒は下校してしまって、校門にはほとんど人気がなかった。閑散とした場所にただひとり、呼び出した彼女がそこに立ってくれていて、おれはほっと胸を撫で下ろす。自然と緩む頬を引き締めることもせず、大声で彼女の名前を呼んだ。
「由季子ぉ!」
 ぶんぶん手を振ると、由季子が手を振り返してくれた。ただキレがなくて宙を引っ掻いているようにも見える。
 おれはすぐさま由季子の側へ駆け寄った。
「遅れた。ごめん」
 息も絶え絶えに頭を下げると「いいよ」と弱弱しい声が降ってきた。そして頭にぽんと手を乗っけられる。ゆっくりと面を上げると、由季子が笑っているのが見えた。
「行こう」
 俺は頷いた。




 おれと由季子は決して並んで歩かない。それはおれがどんなに由季子の隣に立とうとしても、彼女が逃げてしまうからだった。由季子は常におれの先を歩き、おれは由季子の後ろをついていく。よろよろと不安定に歩みを進める由季子を後ろから見つめながら、いつ由季子が倒れてもすぐさま支えてやれるよう準備していた。
「美味しいご飯、食べさせてあげるね」
 振り返りもせず、由季子が言った。「ウン」と大きな声で返事をする。フフフ、と笑ったのが聞こえた。
 人で賑わう商店街を抜け、閑散とした住宅街を抜け、しばらく行ったところに由季子の住むアパートはあった。築何十年かというほどに古い外観に、おれは思わず感嘆の声を上げる。こんなぼろいアパート、見たことがない。
 足をかけるたびにキィキィと不吉な音を立てる階段に警戒しながらも、フラフラと左右に揺れる由季子を追いかけた。
「上がって」
 腐りかけた木の扉が開かれる。
「おじゃまします」
 そう言ったおれの声は闇に吸い込まれていった。突然背後で扉が閉められ、驚いて肩が跳ね上がった。
「どうしたの?」
 由季子がおかしく唇を曲げながら、おれの顔を覗きこんでくる。慌てて首を振った。
「そこに座って。いま、お茶持ってくるわ」
 由季子に背中を押され、ちゃぶ台の前に半ば押さえつけられるようにして座らされた。台所へ消える華奢な背中を眺めながら、おれは突然恥ずかしくなった。女の子の家に上がるのは初めてだった。
 湯が沸騰する音を聞きながら、おれは格好悪くもひとりもじもじとしていた。


   *


 彼が私の家にいる。わざわざ私を呼び出して、私の家にやってきた。
 嬉しくて頭がどうにかなってしまいそうだった。彼を完全に私のものにしてしまうには、絶好の機会だ。
 大丈夫。私は自分に言い聞かせた。
 彼は間違いなく私を好きだ。彼なら、私と家族になってくれる。


   *


 ふうふうとお茶を冷まして、ちびっと啜った。そして台所へ視線を投げつける。由季子はおれに背中を向けたまま黙々と調理に勤しんでいる。
 今日はたまたま母親が不在だった。自炊するように言われたが面倒臭くて由季子に頼み込んだ。由季子は虚ろな目のまま唇を持ち上げ「ウン」と笑った。
「……なんだか私たち」
 由季子が小さく呟いた。聞き取りづらくて台所に顔を覗かせる。
「私たち、新婚さんみたいね」
 おれの気のせいかもしれないけど、その声はうっとりと陶酔しているように聞こえて、どきどきした。「ウン。ウン」とばかみたいになんども頷いて、すごすごと定位置に戻る。動揺して湯飲みに口を付けたら唇をやけどした。
 恥ずかしい。かっこ悪い。
 そうこうしていたら由季子がお盆を持ってやってきた。
「ご飯、できました」
 そう言って皿をちゃぶ台に並べる。白い湯気が食欲を掻き立てた。
「残さず、食べてね」
「ウ、ウン。……いただきます」
 普段は挨拶もおざなり済ますのだが、由季子が作ってくれたものだしと、丁寧に手を合わせて頭も下げた。
「美味しい?」
「ウン。ウマイです」
 正直、由季子の料理には特別秀でたところはないのだけれど、その素朴な味がなんとなく好きだと思えた。突出したところがなく控えめで、自己主張をしない。由季子の性格がよく現れているようだった。「私のパパとママね……」
「ウン?」
 突然、何の脈絡もなく由季子が切り出してきた。箸をくわえ込んだまま、由季子と見詰め合う。
「離婚したのよ。なんでか、分かる?」
「……いや」
 分かるはずもなかった。「そうよねぇ」と由季子はぼんやりとおれの目を見つめ返しながら呟いた。「そうよねぇ。理解しがたいんだもの。あなたには分からないわよねぇ」と舌足らずに言う。その言葉におれは少しだけ腹を立てた。
「なんなんだよ」
 だからついそんなことを言ってしまった。空虚だった由季子の目が、少しだけ光を取り戻した。
「もしかして怒った?」
「……あ、いや、ごめん」
 由季子の声は泣いているかのように震えていて、おれの怒りは速攻で冷めやられた。
「……で、なんだよ。なんでお前の……。いや、言いたくないなら別にいいんだけど」
 由季子と付き合い始めて日が浅いからとはいえ、由季子はおれに由季子のことを話そうとしたことはなかった。だから由季子の家族については興味があった。けれど親の離婚はもしかすると他人に踏み込んで欲しくない領域なのかもしれない。自重しようかと思い悩んでいたら、由季子の方から口を開いた。
「ママはね、料理が下手だったの」
「……へぇ?」
「パパの好みのご飯が作れなくて、嫌われた」
「……ひでぇな」
 それくらいで見限るのか。なんていうか、器の小さい男だ。
「あとエッチも下手だった」
「ぶはっ……!」
「あ、ごめん、これ嘘」
 なんて嘘を吐くんだ。女の子が迂闊に思春期男子に持ちかけていい話題じゃなかったぞ。確実に。
「とにかくね、ママは料理が下手で、パパは料理が下手なママが嫌いになったの。……ねぇ、私のご飯、美味しい?」
 若干身を乗り出しておれに顔を近づけてくる。あまりの顔の近さにおれは反射的に仰け反った。「ウマイ。ウマイですよ」と訳の分からないことを繰り返して、やっと由季子はおれから身を引いた。その表情には安堵の色が浮かんでいた。
「良かった。たぁくさん、食べてね。まだまだ、あるから。あ、」
 フフフ、と由季子が笑った。おれから箸を取り上げ、コロッケを抓む。
「はい。あーん」
「え!?」
 予期せぬイベントに、頭の中身が吹っ飛んだ。ぼうっとしているおれを不審に思ったのか「どうしたの? 口、開けてよ」と由季子が少し棘のある口調で責めてきた。
「はい、ごめんなさい。……あー……」
 されるがままにコロッケに歯を立てた。さく、と耳に心地良い音がした。
「きゃはっ」
 聞いたこともない由季子のはしゃぎ声に、一瞬呆気にとられた。頬に手を当て、恍惚とした表情を浮かべている、ように見える。
「私たち、やっぱり新婚さんみたいね」
「そ、そう、ですね」
「フフフ。幸せになろうね。……でも、まず、そのコロッケ食べちゃってね。話は、それから」
「……? ウン」
 箸をおれに手渡し、由季子はまた台所に引っ込んでいった。由季子はいつも変だが、今日の由季子は群を抜いて変だ。もしかすると、由季子を誘うタイミングを間違えたのかもしれないとひとり考えていると、舌が何か違和感を察知した。もごもごする。
 ぺっ、と掌に吐き出すと、どうやらそれは紙切れのようだった。由季子のやつ、ゴミを入れるなんて。むっとして由季子に訴えようとしたところで、気付いた。紙切れは丸めてあるのではなく、きれいに折りたたまれていた。これはもしや意図して入れられたものなのか。
 まさかと思いながらも開いてみると、ビンゴだった。


『だぁいすき』


 一言、それだけが書かれていた。
 瞬間、おれの視界がぐらりと傾いた。「おかしい」そう思ったのも束の間、突然瞼が鉛のように重くなり、おれは意識を失った。


   *


 まだ子どもの癖に、男と付き合ったり、本当の愛だとかを語る女を私はずっと馬鹿にしていた。私はずっと、終わらない男女なんていないと信じていた。パパとママみたいに。
 たかだか料理が出来ないくらいで捨てられた母。そんな程度で終わるものなのだ、と。
 でも、私は彼を好きになった。そうして、ずっと側にいたいと、側にいさせて欲しいと願った。けれどそう思うたびに、私の頭に住み着いたパパとママが顔を覗かせた。私は彼と好き合えた果てに終わりがあるのだと思うと、とても怖かった。
 彼が好きだ。彼とキスしたい。彼に処女を捧げたい。
 それほどまでに思っても、最後には終わってしまうことが怖くて仕方がなかった。
 けれど彼は、私の作ったご飯を美味しいといってくれた。パパとは違って、ご飯が拙いからって私を捨てたりしない。
 まだご飯の途中なのに床に突っ伏して眠りこける彼を見下ろす。子どもみたいな寝顔が可愛くてしょうがない。彼の頭を一撫ですると、私の心は幸福感に満たされた。
 彼にずっと好きでいて欲しい。そのために。
 私はこれから彼を逃がさない努力をしなくてはいけなかった。



20111122


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