あたしが「あっ」と声を上げたのと、アンズが「わんっ」と吠えたのはほとんど同時だった。
 リードに繋がれたアンズがあたしを見上げ短い尾を振る中、軽くパニックに陥りながらズボンのポケットを片っ端から探る。そして探していた感触を遂に見つけることができず、呆然と空を仰いだ。
「ケータイ、落とした」
 声は虚しく辺りに木霊した。
 パーカーのポケットに手を入れたまま、来た道を振り返る。アンズの散歩にと足を踏み入れた、慣れない山道だった。山の中は暗く地面は少しだけぬかるんでいて、気味が悪い。山に立ち入ったことを後悔しつつ、早く山を抜けたいと思っていたところだった。
 あたしは絶望にも似た感情を抱いたままため息を吐き「……戻ろうか」とアンズに言った。アンズはまるであたしの言葉を理解しているかのように「わんっ」と返事をした。
 泥だらけのバッシュでたった今、自分が歩いて来た道を辿る。足元に注意しながらピンク色の、型遅れのケータイを探した。
 そうしていたらふと、アンズが足を止めた。早くケータイを見つけて帰りたかったあたしはリードを乱暴に引っ張り、アンズを引く。けれどアンズは足を踏みしめたままで、突然、虚空に向かって吠え始めた。
「わんっ! わんっ! わんっ!」
 止めても一向に吠えるのをやめないアンズに、あたしは苛立ってそのお尻を蹴飛ばした。こういう場合の怒りは大抵、恐怖からくるのだという。だからとはいえ「きゃんっ」と尻尾を丸め震えるアンズを見て罪悪感が沸かないはずがなかった。
「ごめんね」と言って、服が汚れるのも構わずアンズを抱き上げる。あたしの機嫌が直ったことを察したのか、アンズがひっきりなしに頬を舐めてくる。くすぐったいのと邪魔なのとでアンズを制止し、更に山の中へ戻っていった。
 しばらくしてまたアンズが吠え始めた。誰もいないところを見て狂ったように吠えられると正直怖い。「黙りなさい」とアンズの口を塞ごうと奮闘していたら、ちらりとピンク色が視界に映り込んだ。
 直ぐにあたしはしゃがみこみ、爪の間に土が入るのも構わず一心に掘り起こした。そうしたら、あたしが探していたピンク色のケータイが土から顔を覗かせた。
「あった!」
 やっと見つけたそれを灰の空に掲げ、くるりと回った。
「さ、帰ろうアンズ!」
 再びアンズを抱き上げると、アンズはまた虚空に向かってわんわん吠え始めた。さすがにここまでくると気持ちが悪い。山の麓まで峰くんに迎えに来てもらおうか。そう思ってケータイを開いたときだった。
 あたしは「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
 思わず放り投げたケータイのディスプレイには、首だけになった男の姿があった。信じがたい光景に、心臓が激しく暴れまわる。あたしがきつく抱き締めたせいで、アンズが腕の中で苦しそうにもがいている。
 散々悩んだ結果、ケータイを拾い上げた。もう一度ディスプレイを確認しようとしたけれど怖くてできなかった。すると、アンズが吠えていた方向から何か足音のようなものが聞こえた。驚いて肩が跳ね上がる。反射的にアンズを抱く腕に力がこもり「きゃうん」とアンズが声を上げた。


「オイお前」


 声が聞こえたや否や、あたしは地面を蹴って走り出した。アンズを腕に抱いたまま無我夢中で山道を駆け下りた。その間、あたしの頭ではケータイのディスプレイに映っていた、首だけの男の姿がフラッシュのように何度も現れては消えた。やがてそこに声が混じってくる。
 オイお前オイお前オイお前。
 慣れない山道を駆けるあたしの末路はあっけないもので、足首を捻り、泥の上を転がり落ちていった。
 オイお前オイお前、と声がうるさく響いてくる。
 もう止めて。助けて!








 跳ね起きるとそこは箱の中だった。ぐっしょりと濡れた体のまま周囲を見回す。
「あぁ……」
 声を漏らして気が付いた。ここは自分の家だ。理解できると、急に安心感があたしを包み込んだ。
「夢だったのか」
 呟いて、あたしが寝ていたベッドにアンズを招く。あたしが太股を叩くと、アンズはすぐに寄ってきた。それを抱き上げて膝に乗せる。そして違和感に気付いた。
 なんだかぬるぬるするのだ。べっとりと、手に纏わりつくような液体がアンズから染み出ている。あたしは手探りでベッドの脇のスタンドに手を伸ばした。小さな明かりが灯る。瞬間、絶叫した。
 血濡れのアンズがあたしを見上げ、愛くるしく尾を振っていたのだ。
 アンズ、アンズ、と信じられない気持ちでいたら、どうやらあたしもおかしいことに気付いた。あたしも血塗れだったのだ。山道を転がり落ちたときに付着した泥がそっくりそのまま血に摩り替わったような気さえした。
 いや、でも、あれは、夢。
 思い出したくないのに無意識に夢のことを思い出していた。
 アンズと共に山道へ入ったあたし。あのとき、初めて足を踏み入れた山が怖くて、隣を歩いてくれた人の腕につかまっていた。その隣の人とは。
「峰くん……」
 あたしの大きな荷物を代わりに持ってくれた。有名なブランドのスポーツバッグ。あの中にはあたしの大事なものをたくさん詰め込んでいた。例えば、ノコギリ、とか。


「オイお前」


 そこまで思い出してあの声がまた頭に響いてきた。あたしは頭を抱え苦悶する。思い出したくないのに、その声に無理矢理記憶を引きずり出されるようだ。
「オイお前。そこで何をしてるんだ。……一緒に来て貰おうか」
 ぐぇっ、とえずいたあたしは一瞬こらえたが、我慢できず胃の中のものをそのまま吐き出した。
 あぁ、そうだった。あれは、夢ではなかったのだ。あたしがアンズの散歩を装って峰くんと一緒に山へ入った。そこであたしは峰くんを……。
 ケータイのディスプレイに映っていた男の首を思い出す。よく見知った顔。あたしの恋した顔。それは……。









20111011



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -