椿はふと顔を上げた。午前零時を告げる時計の鐘が鳴ったからだ。眠さから朦朧とする意識を手繰り寄せ、未だ帰ってこない夫を想った。
 決して不満が無いわけではない。不安が無いわけでもない。けれどもそれを問い詰めることは妻の領分を超えているし、何よりも御国のために働く夫に対してあまりにも無礼だ。
 冷える指先を擦り合わせながら椿は脳裏に和音の姿をちらつかせた。自分が夫と出逢う前から夫と親密な関係を築いてきた、女性。
 椿と和音は五つ歳の離れた友人同士である。和音の方が年長ということもあり、上京してきたばかりの椿の面倒を良く見、何かあったら遠慮なく頼って来いといつも胸を叩いていた。椿の恋を成就へと導いたのは和音の計らいが少なからずあったからなので、椿はすっかり和音のことを信頼しきっていたのだが。
 三月ほど前、久々に実家へ帰ったときに聞いた夫の過去が少しずつ和音への信頼を蝕んでいる。その内容というのが。
 夫が和音に恋心を寄せていた。
 しかもそれはたった五年前の話で、出逢って一年弱しか経っていない自分が夫と築いた時の浅さに恐怖にも似た不安感を感じずにはいられなかった。日に日に帰宅時間が遅くなっていく夫はもしかすると和音の元にいるのではないか。夫を信じることが出来ない自分に苛立ちを感じながらも椿は疑うことを止められなかった。
「きゃんっ」
 庭先で犬が吠えた。椿は闇の中を睨みながら耳を澄せる。
 ぎしぎしと雪を踏む音が聞こえてきた。その音がこちらに近付いてくる。
 椿は慌てて玄関先に飛び出した。それと同時に家の戸が開かれた。
「お帰りなさいませ」
 そう言って頭を下げると「あぁ」と静かな声が降ってきた。顔を上げると、少々疲労感を催した夫がそこに立っていた。
 椿は直ぐに夫を内に入れ着替えを用意した。重い真っ黒な軍服を脱ぎ、ゆったりと着物を着た椿の夫は先程よりも柔らかな雰囲気を纏っていた。
 縁側で休むという夫に茶と膝掛けを用意すると告げ、台所へ向かう。湯が煮たつ間、夫になんと声を掛けようか妙に緊張しながら考えていた。



 墨汁の海のような空からは、はらはらと小振りの雪が舞い降りてくる。
「ひとひらさま」
 物憂気な夫の後ろ姿に声を掛け、少し間を空け静かに腰を下ろした。
「お茶を御持ちしました」
 茶を差し出すとひとひらは一口だけ口にしてまた庭の方に顔を向けた。
(ひとひらさま)
 夫の名を呼びたかったがどういうわけか喉の奥でつっかえてしまう。夫婦だから、妻だからといって彼の考えていることが解るわけではない。だから今、夜闇を舞い踊る雪を眺めながら自分のことを想ってくれているのかそれとも和音のことをまだ想っているのかは解らない。
「雪」
 ひとひらの指が椿の髪に触れた。椿の思考は自然とその行為に遮られる。
「お前の髪は美しいからな」
 指先で、音もなく溶けていく雪を見ながらひとひらは言った。「雪もお前に触れてみたかったのだろう」と。微笑むひとひらと視線を交わらせ、少しだけ頬を染める。こんなひとひらの些細な動作で喜んだり悲しんだりする自分は、いかにひとひらに惚れ込んでいるか良く解る。
「椿」
「はい」
「もっと近くに来い。寒い」
「はい…」
 細い声で返事をし、おずおずとひとひらと間を詰めた。肩が触れ合うほど密着するとひとひらは椿の手を握り、ほぅっと白い吐息を漏らした。
「お前の手は、冷たいな」
 悴む手で握り返したひとひらの手は自分の手とは対称的にとても温かった。氷付けにされていた手が少しずつ溶けていく。
「ひとひらさま」
 呼んでひとひらの肩に額を当てる。布越しに温もりを感じながら、心の中で何度も練習した言葉を呟いた。
「和音さんは何故結婚なさらないのでしょう」
 それがひとひらからさり気無く和音との関係を聞き出す為の問いだった。
 ひとひらは遠くの方を見つめ、静かに目を閉じた。
「想い人が結婚してしまって、身動きが取れないのだと、柊さんから聞いた」
 ひとひらの一語一語を噛み締めるような、重みを感じる言葉に椿の不安は更に煽られた。それはもしかしてこういう事ではないのか。
「その想い人というのがひとひらさまのことだったりしますか」
 椿はひとひらの目が開かれる僅かな瞬間を見逃さなかった。ひとひらは呼吸さえも忘れているように微動だにしない。ただ雪が踊る夜闇の方を向いているだけだった。
「そうなのですか?」
 ひとひらが何も答えないことに椿の恐怖心は肥大していく。そしてつい責め立てるような口調になってしまっていた。
「そんなことは、ない」
 ひとひらの手が椿の細い指をより一層強く握った。けれどそれは自分が愛しいからではなく、過去の記憶の痛みの支えにしているようだと椿は思った。
「和音が俺を好いていた時間など少しも存在しないよ」
 その言葉は椿を慰めるどころか余計に苦しめた。ひとひらがどれだけ和音を愛していたかが垣間見えたからだ。
「初恋は叶わないというだろう。……俺が和音を好いていたことを知っているのか」
「はい。…以前実家に帰ったとき、使用人のものが話していたのを盗み聞きするような形で…」
 むぅ、とひとひらが気まずそうに唸った。あの御喋りめ。そう呟いたのが聞こえた。





 




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