どんなに好きだと言っても、どんなに愛してると言っても、終わる恋は終わる。
つい先日の話。時雨少年は一年半に渡り育んできた恋の芽を自らの手で摘んだ。何の躊躇も無く、無感情に。それで、そうすることで自由になれると思っていた。いちいち相手の顔色を窺う必要も無い。ご機嫌取りもいらない。一切のしがらみから開放されると思っていた。
けれど、心の奥の方で針で刺されたような痛みをしくしくと感じる。この事を真白少年に打ち明けると「未練がましい。きも」と辛辣な言葉を浴びせられた。
夏もようやく過ぎ去った初秋。
閉鎖されたプールには、時雨と真白の姿があった。
「時雨は、暇なの」
三人分の幅を空けてプールサイドに座る。時雨の隣では、真白が素足で水面を蹴っていた。飛沫が日に照らされる情景はとても美しく思えたが、今すぐ水面から足を上げるように時雨は諭す。
「煩いな」
真白が呟いたのを時雨は聞き逃さなかった。眉を顰め、横目で睨んだが、真白は何処吹く風といったようだ。
自己中心的で人の話を全く聞こうともしない。流石は真白。クラスメイト全員に嫌われるだけのことはあるなと、苦笑いをした。
そんな真白だが、時雨が相手だと少々違った。知らん顔を決め込んで十秒もたたない内に、大人しく足を上げた。その様子を見て、時雨は満足そうに頷く。真白は拭くものを探しているのか、ポケットの中を漁った。
「あ。バッグの中だ」
誰が悪いと言うわけでもないのに舌打ちをして腹立だしげに立ち上がった。左足を引き摺るようにぎこちなく歩きながら、真白はフェンスに張り付く。時雨も真白に続いた。
「何が見える?」
網目の隙間から、体操着に身を包んだ集団の中の一人を穴が開くほどに見詰めている。
「時雨の彼女」
思わず苦笑した。真白の顔を横目で見やると、薄っすらと微笑んでいるのが見えた。性根の腐り具合は半端ではない。
陸上部員が校庭を通り過ぎていくのを目で追いながら真白が問う。
「何で別れたの」
「……何でだろう」
ただ、楽になりたかっただけだ。何故楽になりたかったのかは分からない。今の時雨は、過去の自分をよく理解できずにいる。
一人の少女を背負い込むことなど、そう辛くは無かったはずだ。むしろ、背負い込むあの辛さや苦しさこそが愛おしかったはずなのに。
「真白も人が悪いな」
「何でさ」
けらけらと気分の悪い声で笑う。
「人の不幸は蜜の味、てね」
「最低」
力なく笑いながら、真白の頭に手をぽんぽんと叩いた。
「寂しいよ。何でだろう」
時雨の心とは対称的に、随分と晴れやかな青空を仰ぎながら嘆いた。隣で真白が笑う。
「知らないよ、そんなの。未練がましい。きも」
「うるさいよ」
肘で軽く小突くと、真白の体はあっけなく崩れていった。プールサイドに倒れこんだ真白が恨めしげに時雨を睨む。
「ずるいよ、真白」
しゃがみ込み、真白に手を差し出す。足が悪いこといいことに、足の不自由すら真白は戦う武器にする。そこが彼の嫌われる一番の原因なのだと時雨はよく理解していた。
「時雨」
「何」
手を掴んだ真白の声は、先ほどの毒気を失っていた。弱弱しいその声にいつも騙されてしまうことには気付いているのに。時雨は真白の声に耳を傾ける。
「彼女のことは忘れるべきだよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ、信じるよ」
何でだよ。聞く間もなく真白の体は時雨に預けられた。それを大人しく受け止める。時雨は真白の背にぎこちなく腕を回しながら、彼の体を抱き寄せるようにした。
「あの子には、時雨が居なくても他の誰かが居る」
「真白には?」
口にしてから、意地悪な質問だったと少し後悔する。真白を抱き締めながら時雨は囁きかける。
「足、直そう」
「無理だよ。言うとおりに動いてくれないんだ」
「でも本当は動くんだろ?」
何度この会話を繰り返したか知れない。時雨は真白の足を直してやりたかった。真白の偏屈な性格は動かない足のせいだと勝手に思っている。否、偏屈だから足が動かないのだ。足を、偏屈を直さなくては、真白は独りだ。永遠に。
真白には自分から他者に歩み寄っていくだけの足がない。今は。
「僕は独りになんかならない」
「どうしてそう言い切れるんだよ」
「時雨が居るからだよ」
そういうことかと時雨は鼻で笑った。
飽きずによくこんな茶番を毎回繰り返せるものだ。時雨は自嘲するが、嫌いではなかったのだ。
真白が望むなら側にいてやってもいいかもしれない。そうやって真白を甘やかすから、いつまでたっても自分から歩き出そうとしないのだと分かっているのに。
時雨が真白の孤独を癒すから、真白は時雨の空虚感を癒してやればいい。
お互い依存しあって、離れず生きていこう。
「結局は真白の思惑通りってやつじゃん」
真白の紅い唇が笑った。
20110510