「あーあ、もう。滅べ世界」
「いきなりきみはとんでもないことを言うね」
「おぉ、鴉」
 少女は曇天へと手を伸ばした。空のかなたからやってきた鴉を自分の腕で休ませようとした。けれど鴉は少女の腕を通り過ぎ、旋回し、屋上のフェンスに降り立った。
「ちぇ」
 少女は盛大に舌打ちをした。そして「つまんねー世の中だな」と悪態をつく。
「何がそんな厭なことがあったんだいきみ。会いにきて一番に愚痴を聞かされるなんて、テンション下がるよ」
 鴉は太い嘴を閉じたり開いたりして、人間の言葉を喋る。少女はさして驚きもしなかった。こんなに不条理で理不尽な世の中だもの。人間の言葉を喋る鴉がいたってなんらおかしなことじゃあない。それが少女の考えだった。
「何がそんな厭かって?」
 少女は鴉の質問を復唱した。
「この世に存在する総てのものだよ。森羅万象そのものだよ。世界だよ。今日みたいな曇り空はだいきらい。晴れもきらい雨もきらい。百点のテストも零点のテストもテレビの砂嵐も散らかった部屋も三角コーナーの生ゴミに集る蛆虫も、みんなみんなだいきらい!」
 少女の声は曇天を揺るがした。
 風が吹いた。
 少女の髪が流れる。
 鴉の羽も流れる。
 鴉は嘴を開いた。
「きみの世界って、せまいねぇ」
 鴉は憫笑した。
「そりゃぁきみ、こーんな小さな街の中でしか暮らしたことないんじゃぁ世界が厭になるよ。百点のテストも零点のテストもテレビの砂嵐も散らかった部屋も三角コーナーの生ゴミに集る蛆虫も、みんなみんな、すぐその手に届くものばかりじゃないか。今のきみは井の中の蛙だよ。こんな小さな街だけを見てこの小さな街だけを世界だなんて言っちゃって、きみはもっと世界を知るべきだよ。世界の消滅を願うにはきみはまだあまりにも無知すぎる。この街を飛び出して御覧よ。そして遠い街の、国の空を御覧。海を御覧。土地を御覧。花を御覧。この街の空や海や花なんかよりもずぅっと美しい。それらを見たならきみは世界の破滅を望まなくなるよ。だって世界はこんなにも…」
 鴉は首をぐるりとまわし、今にも雨が降り出しそうな灰色の空を仰いだ。
「美しい」
 鴉は世界に愛を囁いた。
 世界のありとあらゆる美しいものを、世界のありとあらゆる醜いものを、鴉は愛した。
 鴉は世界に恋さえしていた。
 少女は言った。
「そんなこと言ったって。わたしはまだまだ子どもだよ。この街を出て行くだけの立派な足ではまだないし、あなたみたいな翼もあるわけじゃない。笑いたきゃ笑えばいいよ。この街がわたしの世界だ」
 少女は立ち上がった。
 そして、この街を出て行くにはまだ不完全な足で、すぐその手に届く屋上のフェンスに近づいていった。
 フェンスに手をかける。
「よいっと」
 腕に力を込め足に力を込め、フェンスを軽々飛び越える。下を見た。
 はっはっは。人が蛆のようだ。
 少女は誰かさんの真似をして笑った。
「ねぇ鴉。わたしもあなたみたいに飛べるかな」
「無理だよ。きみには翼がないからね」
 そう言って鴉は見せびらかすように漆黒の翼をいっぱいに開いて見せた。
「鴉」
「なんだい」
「もしわたしが飛べたらわたしを鴉の言う美しいところへ連れてって」
「…かまわないよ」
「ありがとさん」
 切ない響きだった。
 少女は鴉が翼を広げたように、うんと両手を開いた。そして胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「さようなら、世界」
 少女は飛んだ。













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