***本文より一部抜粋***



 はじめて小十郎の存在に気がついたのはいつだったろう。
 気がつく。その言葉のとおり、輝宗付きの小姓だった小十郎は梵天丸が物心つくころにはすでに身近にいたのである。
 『あのものは獣なのですよ。獣を気に入ってしまうなど、まったくあなたのお父上は風変わりなお方です』
 そういって困ったように笑う母。いつも玄米茶を飲んでは、のらりくらりと出まかせばかりをのたまう伯父の義光とは違い、戦国の女に相応しく激しくも潔癖な気性を持ち合わせたひとは滅多に微笑んだりしなかったが、時には優しい笑顔を向けてくれることもあった頃。
 ヒトにとってヒトの姿に似た半獣は古来より近しい存在だ。
 ほとんどの者は口を利くことが出来ず、耳や尾、時には身体の半分を覆う毛を隠すことは出来ない。大抵、獣達は同じ種族同士、深い谷や山の奥で群れをなしてひっそりと暮らしており、大きな戦や築城などで人手が足らぬ時のみ、徴兵という名の獣狩りによって捕獲される。
 尤も重宝され、金や食料と同等に取引されるのが、小十郎のように人語を話せる獣だ。とくに自らの意志で耳や尾を自在に仕舞うことの出来る獣は非常にめずらしい。見た目がヒトに近く、見苦しくないとの理由から高価格で取引された。
 だが獣は獣。嗅覚、聴力、瞬発力。すべての身体能力はヒトの数倍以上もあるが、話せる言葉は片言で、感情を上手く御せぬものが多い。雄の主な用途は戦場で使い捨てられる傭兵である。
 しかし小十郎は、口数は極端に少ないが、発せられる言葉はなめらかで、態度は落ち着き、てきぱきとした動きはそれなりの出自である小姓や侍女よりも秀でてみえた。
 当時は小十郎への情は特に持ち合わせていなかったものの、幼心に母の、どこか蔑んだ視線が腑に落ちず、そんな母になぜか意味もなく悲しい気持ちになったものだ。
 普段は父の側で小姓として忙しく立ち回っている小十郎が梵天丸の側へとやってくるのは学問所である資福寺へ手習いにゆくときである。
 一番古い記憶は疱瘡を患う前。両の目が揃っていたころ。
 寺へ続く石畳の道で転んでしまったのを抱き起こしてくれた。侍女たちのように甘やかしてくれるわけでも、いたわりの言葉をかけてくれるでもない。無言で泥を払うと、石で深く切ってしまった膝を自らの着物を裂いて止血し、寺の門前まで背負ってくれたのだ。喜怒哀楽を示さぬかたい表情とはちがって、その背はあたたかくてとても心地よかったのが意外だった。
 それまでは寺へゆくとき、主の命で梵天丸と時宗丸のお守りを引き受けている、無愛想な少年との認識しかなく、ろくに口も聞いたことがなかった。ただ、資福寺では講義にじっと耳を傾けている熱心な姿が印象にあるぐらいだ。
 梵天丸よりさらに幼い時宗丸の歩にあわせてゆっくりと石畳を進みながら、初めてぽつりぽつりと会話をかわしたように思う。会話といっても子供ならではの残酷な質問に淡々とした返答がされただけであったが。
『なあ、母上が言っていた。小十郎には本当は耳があるのか。梵と同じのじゃないぞ。犬の耳だ』
『いいえ。犬ではなく狼の耳です』
『尻尾もあるんだろ?何故隠す』
『見苦しくありますゆえ』
『尻尾は着物からどうやって出すんだ?』
『武家で奉公をする獣は半襦袢と袴の間から尾を出すのが作法です』
『どうしてケモノが小姓なんかしているんだ?ケモノはヒトのようにものを考えられないから、戦をするためにだけに飼われるんだろう?』
『輝宗さまが側にいるよう御命じになられたので』
 あ、と思い当たることがあった。 
 ――あのような獣をお側において可愛がられるなど、輝宗さまもかわったご趣味をお持ちだ。獣の分際では小姓になれぬからと。わざわざ若君の乳母の義弟という立場にしてやったそうじゃないか。
 ――いや、昔から密かな愉しみとして獣を愛玩することはあるのだ。きっと格別な味わいが―― 幼子の前で大人たちがひそひそと囁いていた噂を当時理解していたはずもない。だがなんとはなしに、この話を小十郎に聞かせてはいけないと、梵天丸は本能的に察していた。
『ふうん、そうか。父上が側にいろと仰ったのなら、小十郎はきっと賢い狼なんだろ。父上は賢い者がお好きだからな。よかったな』
『……到着いたしました。下りてください』
 その時、小十郎の頭の上に鳶色をした三角の耳がなぜかひょっこりと顔を出していたように思うのだが。記憶は残念ながら曖昧である。


 次に鮮やかに覚えているのは、輝宗の小姓から梵天丸付きの世話係になるすこし前。伊達の家長の御前で執り行われた稽古だ。稽古といっても奥州の武士達である。流儀や所作を披露する形稽古だけに留まるはずもない。やがて刀や槍、腕の立つもの同士、一対一の立会いへ様相を呈してきた。実力を見せ付けることが出来れば、一足飛びの出世も夢ではない。
 陣幕が張り巡らされた庭は皆の凄まじい気迫で満ちている。
 だが、そんな白熱した空気も梵天丸には疎ましく、どうでもよいものであった。すでに右目を患い、人前へ出ることを避けていたころだ。家長の横へ座すよう指示され、渋々座っていたものの、たまらなかった。包帯を巻いた右目への好奇や同情の視線などまだマシなほうで、あからさまに隻眼の嫡子を疎んじる顔をする者までいる。輝宗といえば我が子へ注がれる不躾な視線にまるで知らぬ顔であった。
「梵天、あの者達の腕をどう見る?剛力なのはあの男だが、太刀筋はあちらのほうが――」
 周囲など気にすることもなく、鷹揚に接してくる父の態度も、当時の梵天丸には苛々とするものでしかない。もういやだ。部屋へ戻りたい。ひとりになりたい。耐えかねて、立ち上がろうとした時。野太い声が庭に響き渡った。
「殿。そちらの者に、わたくしが稽古をつけ申す。聞けば次の戦にはその者を供されるそうではないですか。殿を御守りするのにみてくればかりの形稽古では話になりますまい――小十郎、立会え」
 子供の目からみても、尤も腕が立つであろう男が輝宗の側に控えていた小十郎を指差し、薄く笑う。
 道着姿の小十郎は汗ひとつかいていないが、先ほど形稽古を終えたばかりである。まるで剣舞のような流麗な太刀筋にあたりは水を打ったように静まりかえっていた。
 だが相手は実戦に実戦を重ねてきた猛者。立会いなどして、敵うはずがないのだ。輝宗に窘める気配がないのをいいことに、男の挑発はますますひどくなる。
「どうした。戦場で使い捨てられる犬に、美々しい剣さばきなど不要よ。いかに敵を倒し、血路を開けるかが要。それとも犬らしく尻尾を巻いて逃げるか。そら、尾を出してみろ」
 どっと、おきる笑い声。ここにもそこにも、醜い大人がいる。滲み出る悪意と嫉みに吐き気をもよおしそうだ。だが小十郎は眉すら動かさずじっと座っているだけだった。小十郎の為ではなく、己が耐えかね、いい加減に止めさせるよう父へ進言しようとしたのだが。
 輝宗はくくっと肩を揺らし、手遊んでいた扇子をぱちんと畳んだ。
「小十郎は犬ではなく狼なのだがなぁ。奥州でも珍しいのだぞ、人狼は。皆もいい加減覚えるよう。さあ、どうする?小十郎。あの者がお前に稽古をつけてくれるそうだ」
「殿の仰せのままに」
 前を見つめたまま応えた小十郎の頭を撫でながら、輝宗はそうかそうか、なら手合わせしてみるかと微笑み、小声で呟いた。
「――殺すなよ。あれも大切な家臣だ」
「御意」
 すっと立ち上がった小十郎から、ごく微かに立ち上った闘志に、ただ座っていたのではなく、主の命令が下るのを待っていたのだと気がついた。そう、相手に歯を剥き、噛み付いてよいとの命令を。
 いつのまにか、頭の上にはヒトのものではない耳。小十郎の耳と尾をはっきりと見たのは、たぶんその時が初めてだ。
 少し茶色がかった――だから犬と間違われるのかも知れない――黒っぽい毛に覆われた、それは確かに獣の耳。
 それに袴の間からするりと現れた、たっぷりとした尾。
 なめらかな動作で庭先に降り立ち、手渡された刀を取る手に伸びる爪は鋭く尖り、ヒトのそれではない。 
 下段に構えた小十郎の半獣の姿をからかう者はいなかった。
 幾度も死線を掻い潜ってきたからこそ、今日の命があるつわものたちばかりだ。死の気配に敏感な彼らは気がついたのである。ここに立っているのは主の寵愛を頼りに取り立てられた小姓などではなく、隙あらば喉笛を噛み切ろうとする獣であることに。
「ではご指導お頼みいたします」
 無機質な声が、陣幕はためく庭によく通った。





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