**冒頭より抜粋**


 不思議だった。
 父の側小姓であったその若者は伊達家の嫡男の守役を任ぜられた時、過ぎた大役であるとの辞退の言葉を述べる形式美すら見せることもなく、ただ静かに平伏して命を拝したのだという。
 無名の出自の者が次期当主の守役となることは前代未聞といっても過言ではないほどの抜擢ではある。 
 だが数多の者からやっかみや嫉妬を受け、ただでさえ、現当主輝宗の庇護のみが後ろ盾であった男がさらに居場所をなくしてまで引き受けたい話ではなかったろう。しかも幼き主は生母の画策による廃嫡の噂が絶えぬのだから、と幼いながらに政宗―――当時の梵天丸は察知していた。後になって思えば、十にも足らぬうちから大人の都合や面倒ごとを的確に見抜いていたのだから、さぞかし可愛げのない子であったであろう。 
 周囲の奇異の眼差しの理由は醜い右目のせいだけではなかったのだ。 
 世の中を斜めからみている、なにかを諦めた片目の子供にその男は誠心誠意尽くしてくれた。
 激しい癇癪を起こしたかと思えば幾日も口もきかずに部屋から出てこないような扱いにくい梵天丸を、侍女や小姓たちは腫れ物にさわるように機嫌をとろうとしたものであったが、それに倣うでもなくただ静かに側に控えているだけで言葉も少なく、父上もつまらぬ男を寄越したものだとすら思ったものだったが。
 あれは長雨の止んだ朝であった。 
 心を開くどころか、まともに顔すらみようとしない梵天丸に新しい守役は冷淡な態度で、武将の子として生を受けながら部屋に引き篭もっていることを「意気地なく愚かである」と一喝し、雨上がりのあかるい日の下へ引き摺りだした。
 梅雨明けの空が薄暗い室内に慣れた左目にやけに眩しく、庭に植えられた木々の梢に残っていた雫が、まだ両の目が揃っていた頃に母から賜った水晶の数珠玉の如くきらめいていたことに一瞬心を奪われたと記憶している。
 そうして不機嫌にそっぽを向いた主と同じ目の高さになるよう濡れた地面に膝をつき、梵天丸の体格にぴったりと誂えられた、鍛錬用の刀を差し出したのである。
「お聞きください、梵天丸さま。これよりあなたの歩まれる道は決して平坦ではありますまい。一国の長たる重責を背負いながらも正しき判断を下し続けねばなりませぬ。尚且つ伊達の領地を狙う諸国の猛者に当主となるあなたの首は常に狙われることとなるのです」
 まるですぐにでも梵天丸が伊達家を継ぐかの言い回しが滑稽に感じられ、蒼い空を眺めながらぎこちなく嗤った。
「今の言葉が母上の耳に入ればおまえまで疎まれるぞ。自分の身がかわいいなら、言葉は選んだほうがいい。せっかく守役に就いてもらったが、梵天が父上の跡目を継ぐと決まったわけじゃない。立身出世の目論見がはずれたのなら、残念だったな」
「―――いいえ」
 手を取られて刀の柄の上から握りこまれた、落ち着いた声。 
 それに反して、ふたまわりも大きな手の力の切羽詰ったような力強さにぎょっとして、逸らしていた視線を目の前の男へと戻した。
「あなたはいずれ伊達を、そして奥州を率いることとなりましょう。戦術において、戦場で直接刀を交えるは家臣の勤めでありますが、大将とて、武芸に長けているに越したことはありませぬ。梵天丸さまならば精進さえすれば必ずや武の道を極められるかと。僭越ながらその指南をお引き受け致したく存じます」
 握られる力につられるようにして自ら刀の柄を握れば、男の掌がゆっくりと離れていく。
 刃を落としてあるものの重量感のある刀身が光を受けて、きらりと輝くのと同時に、男の瞳の奥でなにかが光った。
「そしてお忘れなきよう。梵天丸さまがこれより剣術の腕を磨かれるのは護るべき民、率いるべき兵のためでありまする。そしてそれは御自身の命を護ることと全く同意義なのです。あなたの命が失われれば、護れなくなるものがあまりにも多くあるのだと、その胸にしかとお刻みください」
「……梵天になにを言いたいんだ、おまえは」
 人生の先達たる名将に将来を説かれるならともかく、この若者はこの間までたかが小姓だった者である。大人しく耳を傾けていたのは、話の道理を子供なりに飲み込もうとしていたからではない。気圧されていたのだ。男の纏う、爽やかな空とは真逆の重苦しい気配に。
 梵天丸の戸惑いを察知したのか、守役は息をはっと飲んだあと、やや表情を和らげた。
「些か逸ったことを申しました。いずれおわかりになる時が参りましょう。今はただ、これだけをお心に留めおきください。梵天丸さまは御身の大切さを知るべきである、と。なによりもそれを第一にしなくてはなりませぬ。あなたは―――」
「小十郎」
 側に置くようになってからひと月。梵天丸は初めてこの男の名を呼んだ。なぜだか、目の前の青年が明るい日差しに溶けて露のように消えてしまうような気がしたからだ。
 守役として対面した時から真っ直ぐに此の方を見据えていた厳しい眼差しがはじめて、僅かに逸らされた。強面かと思いきや、存外に長い睫が、小十郎のやや下がり気味の瞳の奥に灯った光を隠す。
「―――あなたは、優しすぎるのです」
 主語を明確にし、理路整然とした物言いを良しとする男が抽象的で確りとした目的の見えぬ話をしたのはその日が最初で最後だった。


 雨上がりの庭で約束の通り、武家の出ではないはずの小十郎は若くして達人の域まで極めた剣術を持ってして、幼き主がやがて日ノ本有数の使い手となるまでの指南役を務めたのである。武だけではない。広い見識と深い知識を持ち、学術においても国を統治する者にふさわしい教育を、虎哉和尚の師事の元、梵天丸に施したのである。
 不思議だった。
 武にも智にも長けた男が、いくら当主の命といっても、ある日突然主として仕えることになった、卑屈な子供にどうしてここまで心を砕いて尽くしてくれるのか。どうしてここまでの忠義を与えてくれるのか。最初は伊達家、つまりは恩人である輝宗の為、そして主の安泰によって我が身も安泰を得る為に勤めを果そうとしているだけなのかと。
 だが右の目を抉れと命じた時。小十郎は微塵の躊躇いも見せることなく、手渡された短刀を手に取った。
 右目の傷が元で梵天丸が死ねば間違いなく小十郎の命はない。悪くすれば肉親である喜多までも処罰され、片倉の家も取り潰しとなっただろう。だが眼球を抉る手つきに迷いはなく、立ち会っていた医師の手を借りることも無しに素早く止血を済ませた。
 とうに小十郎の決意の糸は固く結ばれていたのである。
 そして目を切り取られた激痛を乗り越えた主君へと誓ったのだ。
――――この小十郎、魂の果つるまであなたの右目として生きましょう
 深く礼をとりながら誓う姿を隻眼でみつめ、これが家臣としての表面的な儀礼ではないと。真実の誓いであると。梵天丸はもう知っていた。
 

 ずっと不思議だったことは―――もうひとつ。
 あれは守役として引き合わされた日。障子を閉め切った薄暗い部屋の中。輝宗に伴われ、現れた青年はお父上のお側からお姿を拝見したことは幾度かございますが、と断ったうえで梵天丸にむかって平伏した。
「初にご挨拶いたしまする。片倉小十郎景綱と申します。これよりお側にてお仕えさせていただきたく存じます」
 確かにまともに口をきいたのはその日が初めてだった。いくら輝宗つきの側小姓とはいえ、用件でもない限り、元服前の嫡男と直接言葉を交わす機会はない。ただ、姿は見かけたことがあった。 
 輝宗に従い出陣する折や、父からの伝言を梵天丸付きの侍女にことづけに居室近くまで訪れた時。
 何故だかふと、視線が合うことがあったのだ。
 その時の小十郎の眼光にいつも心臓が跳ねた。
 周囲の光景がぼやけるほどの強烈な印象。
 底知れぬ暗い光がおそろしく、ただ不可思議な色。
 不躾ともとれる視線に疱瘡に冒された醜い容姿が物珍しいのかと憤っていたのだが、記憶をたどれば、それは病を患う前からではなかったか。おぼつかない足取りで、好奇心のまま勝手に庭に下りてしまった、三つにもならぬ梵天丸を抱き上げて名前を呼び、そっと部屋まで連れて行ってくれた、あれは誰だった?ずっと父かと思っていたが、どうも違う。
『……まさむねさま』
 幼子の記憶では曖昧すぎて確かなことは思い出せず、刀を握り、外の世界に目を向け始めた梵天丸の日々は目まぐるしくも鮮やかで、そんな些細な違和感はあっという間に忘却されてしまった。 
 だが、今ならわかる。あれは狂おしい執着と、情念。慙愧に満ちた目だったのだ。
 
 あの目こそ、すべての答えだった。 







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