【本文より一部抜粋】


タクシーから降りると領収書をポケットにつっこみながら政宗は迷わずマンションの五階の右隅にある部屋の窓を見あげる。大きな窓ガラスの向こう、カーテン越しにほんのりと明かりが灯っているのを確認するとかすかな安堵のため息が漏れて同時に見つけた明かりに似た、ほんのりとしたものが胸の中にも灯った。
 夜空の下に佇む見慣れたはずの建物はこんな色で大きさだったかと奇妙な違和感を覚えてしまい政宗は一ヶ月という時間の長さを実感する。
 トランクからスーツケースをおろしてくれた運転手に礼を言うと足早にマンションのエントランスに向かおうとしてほんの少し、目眩がした。
 タクシーの去っていくエンジン音を聞きながらびゅう、と吹き付けた風がやけに冷たく感じるのはまだ春の気配遠い三月の夜だからではなく。スーツケースがやけに重く感じるのは長時間のフライトのせいではなく。
 いや、きっと気のせいだろうとだるさを追い払うようにふるりと頭を振った時、ポケットの携帯電話が振動していることに気がついた。やれやれ、とらしくもなくくたびれたため息をつきながらディスプレイに表示された名前をちら、と確認すると通話に切り替え、無造作に耳元へ運ぶ。
 ややして低く、少し掠れ気味の他人が皆そっくりだと口を揃える声が政宗の名を呼んだ。自分では似ているなんてこれっぽっちも思ってはいないが。
「――――ああ、オレだ。もう家の前にいる。やっと片づいて日本に戻ってこれたぜ。何日帰って来れなかったと思ってんだよ。ったく、面倒な仕事押しつけてこき使いやがって。オレはまだ入社して二年目だっつうの」
 そんなぼやきもさっさと片付けないおまえが悪いんだろう、と電話の向こうから飄々とかわされてしまい、少しばかり悔しい。
「それと、例の話だけどよ・・・ああ、そのつもりだ。また詳しくは顔を見たときに話すぜ。人事は通さずにオレの一存で決めて構わないんだな?――――明日?明日は休日だろうが。休ませろよ。こちとら何日休んでないと思ってんだ、労働局に訴えんぜ」
 訴えるなら好きにしろ、お前も無職になるけどな、とくっくと喉を鳴らす皮肉めいた笑い声が確かに自分に似ている気がして複雑だ。だがどこか機嫌良さげな響きに息子の仕事の成果に満足しているのだと知れ、妙にくすぐったい。
 急に気恥ずかしくなって誤魔化すように「じゃあとりあえず切るぞ」とぶっきらぼうに言えば最後に「アレによろしくな」とからかうように付け加えられた。やっぱり似てなんていないと信じたい。
「うるせぇ、あいつは親父のおもちゃじゃないって言ってるだろうが。また変なモン食わせたら承知しねぇぞ」
 政宗は小さく舌打ちをしながらshit!と言い捨てると携帯を再びポケットに放り込み、ごほ、とひとつ重い咳をして再び部屋へと急いだ。



 我が家のドアの前に立つと一ヶ月の間使っていなかった家の鍵の在処がとっさに思い出せないくらいに政宗の頭はぼうっと霞んでいた。
 しばらく考え込んだ後、そういえば内ポケットに突っ込んだままにしていたのだとコートを探り、部屋の明かりはついていたがこの時間ではひょっとして眠ってしまっているかもしれないとそっと鍵を開け、ドアノブをまわす。
 眠っているはずはないと確信していたのだけれど。
 ほんの1センチ、ドアが開いたところで玄関の明かりがぱっと点き、薄暗いマンションの廊下にすうっとオレンジ色の光が細長く走った。
 やはり、と口元に思わず小さく笑みを浮かべそうになるのを押さえ、静かに開こうとしていたドアをぞんざいに引く。
「Hey,帰ったぜ、小十郎」

 そこには政宗の飼っている小十郎と名付けられた黒うさぎが一匹、帰りを待っていた。

「――――おかえりなさいませ」 



【本文より一部抜粋】

心配そうな声と共に、ベッドのスプリングが傾いで横にあたたかなものが滑り込んできた。今ではもう身体は政宗よりも大きくなったのにやはりうさぎだからか小十郎はいつも少しの隙間からするりと布団の中に這入ってくる。
「よせ、うつるだろ。帰った早々で悪いが今夜はお前はソファで寝たほうがいいぜ」

『心得六、人間の病気はうさぎにもうつることがあります。飼い主が感染症にかかった時は部屋をわけるとよいでしょう』 

 こんな時のためにうさぎ用のベッドを捨てずに置いておけばよかった。だんだん酷くなってきた咳をかろうじて抑えながらあっちへいけ、と命じると小十郎はいいえ、ときっぱり返事をしたあと、少しばかり考え込むような表情を浮かべた。
「小十郎が隣にいては眠れませんか」
 もうずっと、こうして眠っているのだ。むしろいないほうが落ち着かなくて眠れない――――とは今は言わないほうがいいだろうか。
 ため息混じりに「そんなことは、ねぇけどよ」とぶっきらぼうに答えると「では」とうさぎはもぞもぞ動きながらいっそうに近くへ擦り寄ってきた。
「小十郎も、政宗さまのお傍があたたかいですので」
 幸せそうな声が切なくて、どうしてそんなささやかなことで喜ぶのだと。
 何故か泣きたいような気持になったのは熱にうかされて弱気にでもなっているからかもしれない。
 自身がひどく疲れていたことを政宗はようやく痛感する。経験値を上回る大きな仕事をなんとしてでもこなしてやるのだと、父親の背をがむしゃらに追いかけ神経も極限に張りつめていたのだと。
 ふんわりした耳がまるでマフラーのように首の辺りをあたためるのが心地よくて自然と目を閉じた。
 そこからは眠りにとろとろ落ちながら記憶が薄れてゆく。たわいもない会話を暫らく交わしていたような気がする。あちらの食べ物はあまり美味くなかっただとか、仕事はまずまずの成果だったとか――――
 意識が途切れる間際に寂しかったろ、と尋ねたときの声だけがはっきりと耳に残っている。
「――――寂しくなどありません。政宗さまがどこにいらっしゃっても小十郎は政宗さまのうさぎですから」
  


 





 






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